いつもの味噌、醤油から話は脱線しますが、ちょっとだけ日常を書き留めておこうと思います。
アマゾンから取り寄せたまま聴かずにいたCD4枚を、助手席にそっと座らせます。高速道路に乗って、思い切りアクセルを踏み込みました。標高1980メートルの高山の谷間を縫って快適に飛ばしながら、横目で周囲を見渡せば、前後左右の峰々は暗いエメラルド色のひだで覆われています。ところどころに白い霧がたなびいていて、薄もののショールを羽織ったような具合です。(なんて色香に溢れた光景──)
どのように一瞬一瞬を感じるかで、世界は大きく変相するものです。この峠道を古人たちは幾昼夜もかけて己の足で踏みしめ越えていった訳ですから、彼らから見たらいまの僕など王族以上の道楽ぶりでしょう。まして窓の隙間から挿し入る涼しい風は、悪戯娘の指先や吐息となって僕の気持ちを慰めてもくれます。頬や首を撫でられ、髪はされるがままにさわさわと触られている。ささやかではありますが、考えようでは十二分に贅沢な時間となっています(笑)
これまで耳を澄ませることのなかったジャンルの音楽に身をしっくり包まれ、既成概念が崩れていくのも可笑しく愉しいものでした。
ふたつの美術館を梯子しました。都心のものと比べて地方の美術館はこじんまりとしています。特別展の規模も内容も小さなものですが、展示された作品を文字通り「独占」出来る時間が何より嬉しいものです。キスリングの花弁の唄うような躍動感、ドンゲンの白い肌に緑色の影を落としたおんなの密度ある情感、勅使河原蒼風の富士山の無限に奏で続ける色彩の旋律──。
立ち竦み、行き戻りして、時にはソファに腰をおろして延々と向かい合うことが出来ました。それに館内の外向きに置かれた椅子に気兼ねなく座って(だって人が本当にいないんです)、庭や池、山々といった借景を気が済むまで味わえるのも実に爽快で、至極甘い時間となりました。
帰路途中にある町に寄って、とある池を目指します。実はこちらがメインの目的地でした。先日図書館を訪れた際に写真愛好家の皆さんによるパネル展示があって、それがこの池を背景に撮られたものだったのです。調べてみたらこのような説明があります。「鶴岡市大山にある。太平山と呼ばれる丘陵は戦国時代に武藤氏の居城であった。(中略)人工灌漑用貯水池で1669年(寛文九)の古地図に記載されている。上池は周囲2.3キロ、面積1.4平方キロ、有効貯水量30万トン、八沢川土地改良区内の約19ヘクタールを灌漑する。」(*1)
小学館の大辞泉によれば、上野の不忍池(しのばずのいけ)は周囲約2キロとありますからほぼ同じぐらいの広さです。不忍池も蓮が多いし周辺の喧騒が嘘のように静かでお気に入りの散歩コースとなっていますが、大きな違いは何か。美術館と同じで人がほんとうにいません。(おお、なんて贅沢──)
折りしも雨がぽつぽつと降り出しました。一緒に眺めていた家族連れが駐車場へと急ぎ足で戻っていきます。天気予報は終日曇りであったので、誰も傘を用意して来なかったのです。ざざざ、ざざざざ、と向こう端まで池の全面を覆い尽くしている蓮の葉が雨に叩かれ打たれして、徐々に、やがて一斉に地鳴りのように低く鳴り出していくのを総毛立つ思いで聴きながら、いつしか黒い傘を差した僕だけがこの極楽の光景とひとり向き合っていました。
一枚では収まり切らぬ光景を、何枚かの写真を合成して再現しました。クリックすると大きくしてご覧いただけます。下のものはオリジナルそのままです。重たいのでご注意ください。
蓮の花は彫刻や絵画で仏の座に使われ、またインドでは女性器に例えられると聞きます。風にそよぎ、ふわりふわりと揺れている無数の桃色の花を見ていると、尊くも色めかしくって、瞳がどうしても離せなくなります。黒いツバメが数羽低く飛び交い、雨音の向うからは蝉時雨、しくしくしくと泣いています。生命を絶たれた魂が行き着く風景がこのようなところであるなら、それも悪くないな、と思います。
なんとはなしに目を凝らすと、この夏に逝ったばかりの霊魂が薄っすらとひとの形をとどめながら、ついっ、ついっ、と爪先立ちにて花から花へと踊り歩いて見えます。
それは冗談ですが、逝ってしまう魂たちの安らかな眠りが信じられる、そんな厳かさと優しさがありました。
ひとには充電が必要ですね。僕は少しだけですが充電なりましたよ。
みなさんも良い休暇を創って、元気に行く夏をお過ごしください。
(*1):山形県大百科事典 山形放送株式会社 1983
GJ!
返信削除どんなCDを聴いていたのでしょうか。窓から流れて行く風景と音楽と心地よい風とを存分に楽しめる五感を持ち合わせた方ですね。美術館の絵だけではなく、ソファに腰をおろして見る借景もひとつの美術鑑賞ですよね。
返信削除匿名さん
返信削除GJ!はこの池の方ですね。この蓮は野生のものだと聞きました。冬は吹き寄せる風に身体の芯まで凍て付いて相当なものだといいますから、天国と地獄が同居している感じですね。満開の時期は何日ごろなのか、もう終わったのか、それともこれからでしょうか。再度訪れてみたい場所です。
eveさん
返信削除お立ち寄りいただきまして、ありがとうございます。こちらの美術館はとても居心地がいい空間を作っていました。鬱蒼とした笹薮に埋もれたような場所にある奥まった休憩室も、異空間の趣きがあって良かったです。どんなCDかは、秘密です(笑) また、どうかお寄り下さいませ。