2009年8月4日火曜日

桃谷方子「百合祭」(1999)~興奮~


 並木さんが、短くなった煙草を灰皿にねじりつけた。

「三好さんが浮気をするからいけないのよ」

 唐突に大きな声で言い捨てた。三好さんの表情が一瞬消えた。

「三好さんが、いつ浮気をしたって言うの」

 とっさに、毬子の奥さんがからだを乗り出した。斜めへ向けた目は、

いつにも増して眼球が飛び出しているように見えた。ジバンシィの

スカーフの先が小皿の醤油に浸った。

「並木さん、三好さんが浮気をしているってどういう意味なの」

 横田さんが、箸を、箸置きに打ち付けるようにして置いた。

「浮気は、浮気に決まっているでしょ」

 並木さんはそう言うと唇を噛んだ。(*1)



 物語の舞台は賃貸アパートです。平屋の一軒家形式で、肩寄せ合うように棟が並び建っています。高度成長期によくあったカタチですね。この僕も似たような風景から幼児期の記憶をスタートさせていますので、ちょっと懐かしい気分です。


 町なかではあるけれど、近くには河が流れ、いまだに湿った土の匂いのする地所に在ります。住居者のほとんどが女性です。そこに、三好輝治郎という七十後半か、八十の前半くらいの年齢のお洒落な男が引っ越してきます。先住していた、七十を越え、最高齢は九十一才というおんなたちの胸の内に懐かしくも嬉しい恋情の焔(ほむら)がじりじりと再燃していき、春色の騒動が勃発するというちょっと可愛らしい物語です。


 可愛らしいと言っても、精神的にも身体的にも完熟し切った男女です。見詰め合い、抗い、許し合いして抱擁に至っていく行為の一部始終が驚くほど綿密に描かれおり、老いを露わにする残酷な描写も多分に含んでいます。



 男は既に性的な能力を失って久しいのですが、余命を目の当たりにして漠然とした焦燥に駆られています。女性を口説き、膝頭にそっと触れ、重なろうと藻掻く様子は痛々しい程です。受け手となる女性たちも同様です。蠢動して止まぬ不安や怖れを内に秘めて、切実な毎日をやり過ごしているのです。読んでいて随分と考えさせられるものがありました。



 ふと、ここで思い返したのは上野千鶴子さんの言葉です。朝日であったか読売であったか失念しましたが、いずれにしても新聞の人生相談に載っていたのでした。ひとには“性欲”と“性交欲”とがあり、これを同一と捉える単純な御仁も世の中にはいるけれど、ふたつの間には雲泥の開き、天と地の高低差があるという内容でした。独りよがりで自己愛に翻弄される前者と、相手を慈しみ“こころ”を抱き止める後者、といったように上野さんは区別し説かれていたかと思います。なるほどもっともだ、その通りだと感じました。


 身体と精神の双方が同時に充足し得るのであれば、それは確かに天上の歓びに等しくって、刹那しっとりと包み込まれる心地好さは何ものにも替えがたいものです。しかし、愛する仲には往往にして組み違いが起こります。ボタンの掛け違いだって在る。その結果として“こころ”を抱き締める“だけ”の関係だって世間には随分とあるわけです。


それ等が著しく劣ったものかといえば、僕にはまるでそうは思えないのですね。そういうのだってアリ、でしょう。“性交欲”とは確かにどぎつい言葉なのですが、内実は柔らかくって広がりがぐんとあります。とても大事な、人生の、そして世界の捉え方だと思っています。




 想いをこうして連ねて行けば、世に言う老人の域に到達した人たちの恋情、つまりは“こころ”を抱き締めることを根幹とする色模様だって、世に多い掛け違いのそれと同等に、切なく健気なものではなかろうかと思えてくるのです。これまで高齢者に向けて伏し目がちだった眼差しは、幾らか上を見据えて、ゆるやかに静かに昇っていく感じです。歳を経るって僕たちが思っている以上に、実は嬉しく愉しいことかもしれません。


 作者の桃谷方子(ももたにほうこ)さんがこの物語を紡がれたのは、四十四才になられてからです。収穫の年齢、といった感じがします。とても身の詰まった芳醇な果物、美味しかったですよ。ごちそうさまでした。読めて良かったです。



 さて、冒頭に紹介したのは“醤油”の登場する印象的な場面です。三好に各々強く惹かれるおんなたちが熱情の炎に焼き尽くされて、いよいよ平静さを失っていきます。男の歓迎会の席上、遂にひとりの喉元から堰き止められていた想いがほとばしってしまい、微妙な均衡の上に成り立っていたご近所関係が決壊を始める。その瞬間が描かれていました。


 “醤油”の色と臭いがおんなの衣服を穢す際にもたらす破壊的なパワーが、さりげなくワンカットで組み込まれています。興奮に陥ったおんなたちの、ぶくぶく、ぐつぐつと沸騰した心情を読者に伝播していて、見事としか言いようがないですね。


 このように“醤油”を“使える”ひとは少ない。桃谷さんというひとはとっても奥深いひとのようで、僕は強く興味を引かれているところなのです。


(*1):「百合祭(ゆりさい)」 桃谷方子 1999  「百合祭」 講談社 2000 所載



0 件のコメント:

コメントを投稿