2009年7月31日金曜日

さくらももこ「えいえんなるじんせい(永遠成人生)」(1989)~人生の意味~


タエコ「あっ、おはようございます。あなた、ハイ おみそ汁。」

私「あ……ああ。(またか……)うまいっ、タエコはえらいね。
 
 (はっ、こんな呑気なことを言ってる場合じゃないぞ。)
 
 
 (いったいどうなっているんだ……

  なぜ こんなに何回もみそ汁を飲んでいるんだ、オレは。)


 (はっ、メビウスか!!オレの一生は、今朝の夢で朝食の時間

  だけが裏表なしの永遠になってしまったにちがいない。)」


私「じゃ、行ってくるよ。」

タエコ「行ってらっしゃいませ。」(*1)


 汗だくで山中を探索している男“私”がいます。“人生の意味”を捜し求めているのです。“私”は思います、人生の意味とは何だろう。きっと“永遠なるもの”にめぐり合うことに違いない。“深遠なる顔をもち、刻々と脈打ち、熱く燃えて永遠に連なっていくもの”を死ぬまでに手に入れたい。


 岩山を登り詰め、奥へ奥へと“私”は突き進みます。いい加減飽きて来たところで、何ということでしょう、生い茂る草むらのなかに異様な外観の生きものを見つけてしまいます。カァァ、カァァと奇声を発しながらドクン、ドクンと脈動する妖しげな蛇のような生きものです。まるでクローネンバーグ(*2)の映画に登場するような奇態なのですが、これが突如襲いかかって“私”の脳髄にドボドボドボと侵入してしまうのです。「うわぁ。」絶叫した“私”は意識を失ってしまいます。


 目が覚めたとき“私”は、出勤前の小一時間を繰り返す永遠のループに捕えられている。朝食の“みそ汁”を何度となく呑み続けなければならないのです。“私”はこうして“永遠なるもの”を手に入れた──という結末でした。


 絵柄は代表作「ちびまる子ちゃん」(*3)と同様で、僕たちの緊張を解きほぐし、暖色系のほのぼのとした気分を誘い込みます。独特の描線からにじみ出る甘露のようなものが、白昼夢の後のまどろみに似た分厚くへヴィな錯綜感をもたらすのですが、そんなぼやけて見える物語の輪郭をたどり直してみるとなかなかどうして、その奇抜さと怖さは並大抵ではありません。これを楳図かずおさんや諸星大二郎さんが綿密なタッチで描いたのならば、相当に尾を引く異色の恐怖譚になったに違いありません。


 幾度となく繰り返されるこの手の時間跳躍(タイムリープ)は、映画や漫画の作劇上さして珍しいものではありませんよね。でも、朝食の光景、それも“みそ汁”に特化していく発想はおかしく稀有なものでしょう。僕たちのこころの奥に潜む気持ちをうまく反映させて見えます。つまりは“マンネリだな、もう食べ飽きたよ。こりゃ食欲とは無縁のもの、空気みたいなもんだね”といった“みそ汁”への満腹感、飽和感がここで透かし込まれているのですね。


 盛岡名物“わんこそば”のようにして何百、何千の“みそ汁”に対峙させられる。そうすることで僕たちの生きる特異な環境、食生活がまざまざと意識させられます。言われてみれば確かに、僕たちは“みそ汁”まみれで暮らし、生き続けていますね。ダンテの描いた天刑のごとき“みそ汁地獄”とも言うべきものが、この現世に横たわって在ることに気付かされます。



 一方、こんな見方も出来ます。


 この物語の欠くべからざる脇役として“みそ汁”はありますが、“私”にまとわりつくモノとして、もうひとつタエコの存在が認められます。冒頭の山中で永遠なるものを探しあぐねる“私”は腹をすかせて小休止し、タエコの作った愛妻弁当を広げて立腹するのでした。「いい年をして こんな 浮ついたマネをっ!」弁当のご飯には桜でんぶか何かでハートが描かれていたのです。つまり開幕から終幕までタエコが空気のように“私”にまとわり付いている。


 その“私”が妖しげな生きものとの出逢いを経て、タエコの作る朝食を取り、彼女に玄関まで送り出される一刹那を永遠に繰り返していくのです。さくらももこさんは“みそ汁”に宿る“マンネリだな。空気みたいなもんだね”という感慨をタエコというおんなへの目線にそっくり重ねている。“永遠なるもの”の答えのひとつとして、みそ汁と長年添え続けたパートナーをペアで提示しているんですね。単に“みそ汁”のお話ではなかったのです。


 さくらさんは日常をありのまま受容し、それを供にして歩み続けよと言っているようでもあり、そんな“本質”を見失った状態をせせら笑っているようでもあります。天国であるのか、それとも無間地獄なのか、さくらさんは絶妙なバランス感覚を最後まで駆使して、明瞭に刻印することなく物語を閉じてしまいます。判断は読み手次第で変わる、人それぞれということでしょうか。


 
えっ、僕はどうかって? どうでしょうね。“みそ汁”を出したり出されたりといった事に集束なるだけの日常が“永遠なるもの”であり、それだけのループを“人生の意味”だと捉えるのは、いまの僕には難しい。僕がこの物語の“私”であったなら、やはり、天国に来たとは思わないのじゃないか。


 ひとにとって“永遠なるもの”とは何か。いずれあらゆる物象も思念も朽ち果て、片鱗のかけらもなくどこかに霧散し消えるものだと思う斜め目線の自分がいます。その一方では、確かなものを信じて生きていきたい気持ちがそうそう消え去ってくれない。つくづく身勝手で不思議な、奇妙この上ない生きもの、だと思います。 こんな年齢になっても、悟りの境地には至らない。


 
 いずれにしても、さくらももこ「えいえんなるじんせい(永遠成人生)」は、日本人の“みそ汁”観の断面をすっかり露呈している、実に興味深い作品だと言えそうです。


(*1):「えいえんなるじんせい(永遠成人生)」さくらももこ 連作「神のちから」の一篇として
   「週刊ビッグコミックスピリッツ」に掲載。「神のちから」小学館 1992 所載
(*2): デヴィッド・クローネンバーグ  David Paul Cronenberg 
    代表作「ヴィデオドローム」(1982)、「クラッシュ」(1996)
(*3): 「ちびまる子ちゃん」 さくらももこ 1986~

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