2009年7月7日火曜日

小松左京+谷甲州「日本沈没 第二部」(2006)~引き潮に乗って~



余韻を楽しんでいたら、桑島所長が水差しの麦茶をそそいでくれた。

ふたたび、あの香りが鼻腔(びこう)をくすぐった。

「自家製ですか?」

すぐに口をつけるのも不調法な気がして、篠原はたずねた。桑島所長は

微笑を浮かべていった。

「入植がはじまった当時は、みんな日本の味に飢えていたものね……。

仲良しになった女性たちと『日本食を楽しむ会』というのをつくったの。

いまから考えれば、本当に手探りの状態だったわ。とりあえず味噌(みそ)を

作るところからはじめたのだけれど、最初はうまくいかなくて……。何度も

失敗しては、口惜(くや)しい思いをした。
 
そうしたら誰かが、もっと簡単な麦茶からはじめようといいだしたの。でも

これが、なかなか大変でね。最初のうちは、オオムギが原料だってことも知ら

なかったのよ。お年寄りのところに足をはこんでも、製法まではご存じの方が

みつからなくて……」(*1)


急激な地殻変動によって列島が消滅。あれから二十五年を経た世界を「日本沈没 第二部」は描いています。空前のベストセラーとなった前作(*2)は映画(*3)にもなりましたね。幼かった僕は父に連れられ劇場に行き、そこの小さなスクリーンで観た記憶があります。カビ、煙草、ほこり、汗といったものが入り混じった満員の客席のすえた臭いを、鼻腔の奥にぼんやり思い返します。

潜水艦の操舵士である小野寺(藤岡弘)とその恋人の玲子(いしだあゆみ)が、大混乱の只中で生き別れになっていく。別々な貨車に押し込められて異なる方向にぐんぐん引き裂かれていく。情無用のラストシーンが切なかったですね。サウンドトラックがYoutubeにありますから、BGM代わりにかけましょうか。寒々しい荒野を先へ先へとひた走る列車が蘇えって来ます。
 



前作から連なる“波”が、「第二部」にはうねっています。移住という名の津波です。突き詰めれば“波の物語”と言い換えてもいい。終幕まで寄せては返して、さすらい続けます。


散り散りになって世界に押し流されていくその先で、軋轢が生じてたいへんな試練に遭います。台風が針路を変え被害をもたらすなど局地的な異常気象が多発するのですが、一億もの人間(日本人)の移住が遠因ではないかと噂が立ってしまうのです。国によっては必死に開墾して築いた村まるごとの虐殺行為にまで激化し、幼い子供までが犠牲となっていきます。


二十五年前の列島消滅の波乱後、かろうじて構造と体面を維持し得た日本政府は苦難を耐え忍ぶ流浪の国民を救おうと躍起になります。標高2700mを誇っていた白山連峰の一部が“白山岩”として海面すれすれに頭を覗かしている。それが国土の唯一の名残りなのですが、ここを基点にして全長三十キロちかい巨大建造浮遊体メガフロートを繋留し、百万人規模を連れ戻して居住させようと画策します。つまり国民を呼び戻そうとする“引き潮”が最初に描かれる。



上に紹介した会話は物語のはじめのほうで語られます。パプアニューギニアにある研究センターを篠原という技師が訪問したときのものです。「定住地に腰を落ちつかせた邦人たちが、最初にやったのは日本の味」、「自宅で調理できる家庭の味」を取りもどすことであり、「ごく普通の味噌汁や漬け物の味を──それも地方によって差のある懐かしい味を、再現しようとして」悪戦苦闘したと丁寧に説明されています。


それは異国での生活を突如強いられた場合、僕たちがきっと始めるに違いないことであって不自然な描写ではもちろんありません。けれど描かれるタイミングとして作為を感じない訳にはいかないのです。希少品となってしまった“日本酒”をはじめとし、“麦茶”“納豆”そして“味噌”を郷愁たっぷりに陳列してみせる作者の目論みは何でしょう。


「世界に例をみないほどの均質化(ホモジナイズ)された民族」である日本人は「特異すぎて、他の民族と融けあわない」。だから、迫害に遭い辛酸をなめる境遇を救うには“帰国”させるしかない、という決定が下される。それはそうだ、日本食は特別なもので、それを食べている私たちは「溶けあわない」のは当然である、メガフロートで建国を目指すのが最善じゃないか。故国の消失を嘆き惜しみ、巨大な浮遊体へ結集して失った日常を再現しよう。安住の地、というより“孤絶した場処”を希求する(僕たち読者を含めた日本人の)性格を盛んに煽っているのです。


物語は後半に入って急展開し、潮目は変わって地球全体を呑み込んでしまいます。日本国民は結果的に民族再編の道を諦め、さらなる移動を余儀なくされていくのですが、何がどのような形で起きていくかは未読のひとの楽しみに取っておきましょう。

ただ、そんな後半部分には日本食が描かれないことは特筆すべきでしょう。“引き潮”に当たった時だけ“味噌”が官能的、象徴的に祀り上げられたことが面白いのです。ここでも単なる嗜好性の高い食品の域を越え、「境界の食物」として刻印されています。



このブログで取り上げる作品はどれもこれも味わい深い資料です。悪し様に言うのは大いに気が引けるところなのだけど、ちょっとだけ書き足しましょう。作劇においての“味噌(汁)”への眼差しや役割は、ときに観念に溺れ策に溺れて滑稽味を帯びてくるというのが僕の持論です。「日本沈没 第二部」においては内側に埋没していく民族志向がべったりと憑依したようでした。かなり退嬰的に目に映りました。


ジャーナリスト、映像製作者、映画配給者、歌手、翻訳者、教師、産業界のひとたち、食の輸出入業者。意思疎通に苦戦しながらも世界の人たちと斬り結び、多彩な交流を重ねていくひとはフィールドや年齢性別を問わずとても多くなっています。

この物語に描かれている日本人は実際に生きて闘っている彼らと比べると、あまりに閉鎖した思考回路で脆弱に過ぎます。いささか焦点が狂ってしまっている観は否めませんでしたね。窮屈な縮こまった“味噌(汁)”になっていると感じました。


(──それとも逆に“味噌(汁)”に内省をはげしく促がす作用があるのものでしょうか。う~ん。)


確かに外界との接触は深刻なすれ違いをもたらし、時には魂を傷つける大怪我もします。



けれど、やはり“出逢い”は胸躍る嬉しい奇蹟に違いはありませんよね。無限に開かれた空でも仰ぎ、ふさぐ気持ちを解き放ちましょう。


折りしも今夜は七夕、ゆっくり星を数え、月を探して微笑みましょうか。



(*1):「日本沈没 第二部」 小松左京+谷甲州 小学館 2006
(*2):「日本沈没」 小松左京 1973 カッパノベルズ 光文社
(*3):「日本沈没」 監督 森谷司郎 1973 






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