2009年7月25日土曜日
さだまさし「私は犬になりたい¥490」(2009)~なりたい、なれない~
アニミズムの土壌が日本にはあります。小さな草花や岩と岩の間を滑りくだる清水についても、そこに人格を想い描き、僕たちは畏敬の念を持って接していきます。精霊が宿って感じるし、いつしか対話してこころを交えていくことに違和感はそうありません。
さだまさしさんは万葉集をひも解き、土台となして、海は死にますか、山は死にますかと熱唱した前例(*2)もあるわけですが、その歌を聴いて思わず感涙にむせんでしまった人は多いでしょう。海も山も、春も秋も、僕たちと同じように限りある生命を持つものと頷いたものでした。ひとは多くの物象に自身を反映させながら、世界を伸び伸びと拡げていきます。“生命”と捉えるものの許容範囲はとてつもなく広い。
視線の先は自然界にとどまりません。男女の恋情のおいてフェティッシュはごく自然なものとして存在し、互いの精神的、肉体的欠落を埋めています。装飾品や衣服の贈答は往々にして、そのような精神の反映が在るものです。
たとえば、先日読んだ本のなかには次のような言葉がありました。
「………魔術師よ、お前は私を定めて覚えているだろう。私はお前の魔術よりも、お前の美貌に惑わされて、昨日も今日も見物に来ました。お前が私を犠牲者の中へ加えてくれれば、それで私は自分の恋がかなったものだとあきらめます。どうぞ私を、お前の穿(は)いている金の草鞋〈サンダル〉にさせて下さい。」(*3)
性別も判然としない美しい魔術師に恋したおんなが、生命なきサンダルに生まれ変わろうとしています。ああ、この気持ちも分からないではありません。どんなに嬉しいだろうとも思います。ひとは何にでも、血の通わぬモノにすら生まれ変わろうとするものなのです。急逝した者は星となって夜空に昇りもします。変身を希求する思考の流れに、制約といったものは見つかりません。
ですから僕はさださんの歌い描く男が馬や犬になりたいのも分かるし、貴女の靴になりたい、はたまた髪に舞い下ちた雨の滴になりたいと仮に悲鳴を上げて悶絶しても、そうだよね、そういう気持ちもあって良いよね、と微笑むばかりなのです。
けれど、そうやって考えをゆるやかに補填しても、味噌汁になりたい、という気持ちはよく分からない。恋する誰かに匂いを嗅がれ、愛しい舌先に弄ばれたあげくに一体になりたい、という意味なら分かるのだけれど、そのような考えは示されません。
“主役”であることにくたびれ、その任を放棄したい。けれど“代わりがいない”からこれまで同様に頑張らねばならぬ。一家を経済的に支える男の、よくありがちな過剰な自意識に由来する漫然とした疲労感が表現されていて、理屈(ここでは駄洒落の域ですが)は通る話ですけど、それでもこつ然と“誰が飲み干すか特定されていない”味噌汁になりたいと切り出されることの不自然さはどうにも拭い去れずにいて、気持ちが晴れないままです。
天才調理師なのか、悪食の虜なのか───
さだまさしさんまでが僕には人間離れした風貌の魔術師に見えてきました。
このような異形の歌が流れる茶の間というのも、何とはなしに不気味な気がします。
(*1):「私は犬になりたい¥490」さだまさし 2009
(*2):「防人の詩(さきもりのうた)」 さだまさし 1980
「二百三高地」監督 舛田利雄 1980 主題歌
(*3):「魔術師」谷崎潤一郎 1917
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>どうしてこの歌が世間受けするのか
返信削除世間受けしている噂は聞いたことないです。
むしろ嫌悪感すら覚えると言ってるのが多いですが。
私はdocomoの諜じゃないですけどね。
あれれ?そうなんですか。
返信削除ネット検索するとずいぶん好意的な反応が
散見されるのですが。。
あ、そうか!
あの書き込みはソフトバンクの謀、なんですね!
ジョウダンはさておき、僕の感覚と似たひとが多く
おられることが分かり、とっても安心しました!
匿名さん、コメントありがとうございました!