2012年5月9日水曜日

里羅琴音・Berry Star『銀のケルベロス』(2012)~猫まんましちゃだめ!~



ミドリ     「はーい 朝だよ さっさと起きる!」

沙紅耶  「うにゃ」

ミドリ     「だめだめ!とっとと… ちょっ…」

沙紅耶  「眠いよ─ あと10分…5分でいいから一緒に寝よう」

ミドリ     「あ た し も! 眠いのガマンして朝ゴハン   作ったんだけどな─」

沙紅耶  「ゴハン!」

ミドリ     「ほら 着替えた 着替えた(と身支度を手伝う)」

沙紅耶  「うーん… ぐるじい…」

ミドリ     「(傷が…)」(戦闘で負ったはずの傷が完全に癒えて見当たらない。)

ミドリ  「……ね ねえ サクヤの好きな玉子焼き お砂糖とお醤油の
              作ったから食べよ ほら これ食べてさっさと学校行くよ」

沙紅耶  「いただきます」

ミドリ     「また─ 猫まんましちゃだめ!」

沙紅耶  「だってミドリちゃんのお味噌汁 こうするともっと美味しい」(*1)

(*1): 『銀のケルベロス』CHAPTER.6 naked ape里羅琴音 作 Berry Star画 「月刊ヒーローズ5月号」 小学館クリエイティブ 所載 2012

2012年4月24日火曜日

沖浦啓之「ももへの手紙」(2012)~わざと音を立てて~


  止まった掛け時計の部屋で、ふたりは夕飯を食べ始めた。 
おみそ汁とご飯。漬物と、おひたしと煮魚。ちゃぶ台の上の 
夕飯は質素だ。お父さんがいたときは、もう一品か二品、 
手をかけた料理が並んでいた。でもふたりになってからは 
ぐっと品数が減った。お父さんが亡くなってからは、お母さんも、 
ももも、しばらく食欲がなかったこともあって、自然とそうなった。 
この島の買い物事情を考えると、この先もずっと食卓はこんな 
感じなんだろうな。(中略) 


「絶対なんかいるんだって」 
「いません」 
「いるよ!」 
「いないのっ、もう、いいかげんにしなさい」  
お母さんは食事の続きに戻った。ご飯をひと口食べ、 
もうこの話は終わり、とばかりに、わざと音を立てて 
みそ汁をすする。(*1) 



(*1):「ももへの手紙」 原案/沖浦啓之 著/百瀬しのぶ 角川文庫 2012 67-68頁

2012年4月1日日曜日

「優雅な生活が最高の復讐である」(2012)


 評論家 大宅映子

「両方でほんとに理想の住(じゅう)を演じていたのかな。

そのとき私はそうは感じなかったけれど、ただね、思ったのは──
たとえば彼女は自分の家(うち)で味噌汁なんかは絶対に
作らない、食べない。うちは味噌汁だとかお茄子の煮たのだとか、ね、
煮っころがしだとかやる家なんです。そうすると加藤さんが家に来て、
あの人京都でしょう、ハアッ、ほっとするなあ、こういう食べものって(笑)
言ったことあるんで、ああ、じゃあやっぱり苦しかったのかなあ、って
思いましたね。」(*1)

(*1):「優雅な生活が最高の復讐である 加藤和彦・安井かずみ夫妻最期の日々」 演出 大島新 脚本 横内謙介 2012年3月25日(日) BSプレミアム
番組放映は2012年であるが、安井さんと加藤さんの暮らしから味噌汁の排除された時期は1977年前後から安井さん永眠の1994年3月17日と思われるので、1970年代で一応分類。

2012年3月20日火曜日

三浦友和「相性」(2011)~そうやって徐々に~



 家事全般の比率からしたら、もちろん妻が9割以上です。

でも残りの1割で、自分ができることならするよ、というだけです。

料理を手伝うのだって、自分が好きだから。約束や決まり事もあり

ません。遊びの計画でもなんでも。だから、家族サービスじゃあり

ません。

 感想は言いますよ。例えば、妻の料理を口にして、「今日はちょっと

塩が強かったね」とか。「あら、そう?」と、妻が次からちょっと工夫を

してくれる。こういうことはお互い様で、味噌汁の好みが中間点に落ち

着いていくように、そうやって徐々に、二人の関係もいい具合になって

いくんだと思います。(*1)

(*1):「相性」 三浦友和 2011 小学館 181-182頁

2012年3月3日土曜日

芥川龍之介「葱(ねぎ)」(1919)~火取虫の火に集るごとく~



 すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、

世界のはてまでも燦(きら)びやかに続いているかと思われる。今夜に

限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風(ほこりかぜ)も、

コオトの裾(すそ)を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い

空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……

 その内にふとお君さんが気がつくと、二人はいつか横町を曲ったと見えて、

路幅の狭い町を歩いている。(中略)

 その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子に、葱(ねぎ)の

山の中に立っている、竹に燭奴(つけぎ)を挟んだ札(ふだ)の上へ落ちた。

札には墨(すみ)黒々と下手な字で、「一束(ひとたば)四銭」と書いてある。

あらゆる物価が暴騰した今日(こんにち)、一束四銭と云う葱は滅多にない。

この至廉(しれん)な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、

お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如として

その惰眠から覚めた。間髪を入れずとは正にこの謂(いい)である。薔薇と

指環と夜鶯(ナイチンゲエル)と三越の旗とは、刹那に眼底を払って消えて

しまった。その代り間代(まだい)、米代、電燈代、炭代、肴代(さかなだい)、

醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、

過去の苦しい経験と一しょに、恰(あたか)も火取虫の火に集るごとく、

お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群(むらが)って来る。(*1)


 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)さんが大正八年に書いた「葱(ねぎ)」の一部です。文中にある“至廉(しれん)”とは値段が非常に安い様子を指し、“火取虫(ひとりむし)”は夏の夜に灯火に集まる蛾(が)のことです。


 十代なかばのカフェの女給“お君さん”が色男に目をつけられ、言葉巧みに夕暮れの街に連れ出されます。サーカスを観るという誘いだったのに、いつの間にか裏通りを歩かされている。おんなはいたって無邪気です。男の頭のなかには路地の奥に建つ宿屋の、妖しげな灯りがありありと浮かんでいるというのに、樹皮を割って若芽の生え出るごとき恋情の、いよいよ我が人生に起きるきざしに恥じらい、むず痒さに身をよじらせながら手を引かれ歩くのが至福と思えてなりません。夜空に星のきらめきを追い、背中に喧騒を感じて夢見心地でいるのです。


 ところが、八百屋の店先に葱(ねぎ)の安売りなっているのを見止めた途端、おんなの心はがらりと色彩と様相を変えてしまう。男の手を振りほどくやいなや、店の奥の主人と交渉を始めます。ぷうんと臭う葱(ねぎ)の束を抱えて舞い戻ったおんなはふたたび男と裏通りを歩き始めますが、両者の気持ちはすでに失速し、特に男の方の想いは沈んだままとなって終に起き上がることはありません──


 お陰で怖い思いをせずにおんなは済んだ訳ですが、笑えるような淋しいような、どこか断裂した読後感を読み手にあたえる、そんな小編となっています。


 興味惹かれるのは野菜のプライスカードをきっかけにして突如開始されたおんなの連想のなかに、なんと“醤油”が顔を覗かせていることです。九十年ほど前の日本で電気、新聞、化粧といった花形産業と肩を並べて醤油がいた。面白いですねえ、今では誰もこんな風には思わないでしょう。


 “過去の苦しい経験”とあります。なかなか買い足しがならずに味気ない食生活を悶々と耐え忍んだ、そんな時間もあったに違いない。醤油の味と香りが往時の暮らしのその中でちゃんと座を占め、深く意識に浸透していたことを窺わせる貴重な一節になっていますね。


 それともうひとつ。物語世界への醤油の介入というものは登場人物の高揚する想いに水を挿す役割、いわば“消炎作用”を不思議と帯びるのだけれど、この芥川さんの「葱(ねぎ)」においてもそうで、恋慕の邪魔立てをして、うら寂しい路地裏に若い男女を足止めしている。偶然には違いないけれど、この連結も僕には滅法面白かった。


 さて、本の紹介はこれぐらいにして、ここからは読書中に僕自身が連想してしまったことを少し綴っておこうと思います。芥川さんの文章を今風に直せば、「家賃、お米代、電気代、ガス代、おかず代、(醤油代、)新聞代、化粧品代、交通費――そのほかありとあらゆる生活費」となるのですが、ここで現代人ならば(醤油代)とはきっと書かないと考えるなら、それに替わって選ばれるのはいったい全体何だろうと考えた訳でした。


 通信費とか医療費なんかもよぎりましたが、「油」という字面に導かれたか、寒くて暖房がまだまだ欠かせないという季節的なことも重なってか、僕の頭には“灯油代”という文字が燦然(さんぜん)と浮かんでしまい、いくつかの記憶もまざまざと蘇えって仕方なかった。


 一年前のあの混沌とした時期に、水や食料を運ぶために車を走らせ、また、その車の燃料を得るためにスタンドを取り巻く長々とした行列に幾度も加わりました。あの時、あちらこちらの吹きさらしのスタンドで、国の発表も指導もまるで無いに等しいそのなかで、赤いポリ缶を携えて灰色の寒空の下を震えながら並んでいた人の列の誰もが悄然と押し黙っていた様子が、今、厳しさをともなって鮮明に脳裏に再生されていきます。


 あんな光景は二度とごめんと思い、けれど同時に、きっと再び似た状況になるぞと警鐘をがんがん鳴らす存在が自分の中にいて、とても落ち着けるものではない。


 先日の報道のせいでもあります。当時(僕たちから遠く離れた、どこか重い扉の向う側で)囁かれ、黙殺されたという半径170kmとも250kmとも言われる避難対象区域の、その狂ったとしか言いようのない広さや距離に息を呑みました。大袈裟でも机上のものでもなく、実際そのぐらいの事故であり汚染だったのだろうし、今後も同じような被害が次々と襲い来る可能性がある。


 当然そこに含まれてくるに違いない湾岸施設や鉄路、道路交通網の麻痺や放擲(ほうてき)を想像し、その後即座に押し寄せるだろう“ありとあらゆる生活”に関わる物資の致死的な枯渇を思い、“苦しい経験”の強襲を予想して憂いは深まるばかりです。連想はあたかも火蛾のように四方八方から群(むらが)って来るようで、臆病な僕の胸の中をおびやかし続ける。


 この国土で居住可能な平野は、世界から見ればせいぜい六畳間に等しい場処でしょう。そこから転がるように飛び出し逃げ惑う住人に、天翔(あまか)けてたちまち追いつき、うれし楽しと顔や手足を舌で舐(な)めまわすならまだしも、あろうことか幼子(おさなご)にすら容赦なく牙剥き喰い散らす獰猛な獅子(それも五十頭以上も)をそんな部屋で飼い続けているようなものであって、どう見ても無鉄砲で危険なことと思えます。


 例えば涼しげな鉢に金魚を幾匹か飼うにとどめるべきではないか、それが駄目なら、あら大変、檻から出ちゃったと遠巻きにする住人を尻目にのんびりと草を食(は)み、昼寝を決め込むロバか羊をせめて飼うのが利口じゃなかろうか、いや、常識じゃなかろうか。


 獅子でなければ象だって麒麟だっていいのです。僕たちを襲うことは稀でしょうし、もちろん170kmや250kmなんて逃げる必要もない。掃除は必要でしょうけど、玄関も台所も寝室も玄関も、トイレだってそのまま使えるでしょう。お気に入りの家具も衣装棚も、丹念に育てた鉢植えの花も、棚に背表紙向けて並ぶ思い出のたくさん詰まった本たちも、幼い日に遊んで捨て切れないでいた遊具や楽器なんかも、そのまま人生の道づれとなって時を刻んでくれるに違いない。


 “正しく怖れること”の継続がとても大事な段階に入ったことを、ある識者が訴えていました。その通りだと思います。赤いポリ缶の連なる光景を見てしまった者の務めとして、ずっとこれからも考えていきたい、そう思っているところです。


(*1):「葱」 芥川龍之介 文末に“大正八年十二月十一日”の記述あり。手元にあるのは角川文庫「舞踏会・蜜柑」の26版で、「葱」も所収されています。引用はその175頁。最上段の画像は別な本で、米倉さんの絵がちょっと良かったので借りました。

2012年2月28日火曜日

“Уха(ウハー)”


 “食べもの”を口に含んだ瞬間、こころの芯を燻(いぶ)され、思いがけず汗ばみ上ずって、やがて軟化させられた挙句に深い恋に落ちる、そんな設定のお話がたまにあります。


 それ等はどれもこれもが地味な顔立ちをしており、起伏に欠けて退屈至極の内容と思われがちなのだけど、実際は隅々まで細工がほどこされていることが多い。後からじわり“押し味”の効いてくる層の厚い作りになっている。


 日常の事象、そのひとつひとつに目が行き届き、裏打ちされた幽かな想いが寄り添います。これに気付く感度の良さ、視力や嗅覚をフルに活用しようとする意志といったものがドラマの登場人物に、また僕たち観る側にも求められてしまう。


 先日観たイタリアの映画はまさにそれでした。“Уха(ウハー)”という魚のスープが登場するのだけど、これが料理の域を越えた役目を担っていて凄かったなあ。(僕の惹かれる“味噌汁”の描写に通じるものがありました。)この“Уха(ウハー)”の起用にとどまらず、色んなもの、衣裳や美術、音楽までずいぶんと手が入っていて、充足感がとてもあった。冒頭は雪の降り積もった白い街の遠景で、こんな凍てつく季節に観るのもどうかと最初は思ったのだけど、結果的にはたくさんの事を考えさせられてなかなか良い時間になりました。



 今夜から明日にかけて雪の場所もあるそうですね。どうか気を付けて、怪我のないようにお過しください。温かくして風邪をひかれませんように。

(*1): Io sono l'amore  監督/脚本 ルカ・グアダニーノ 2009


2012年2月12日日曜日

夏目漱石「草枕」(1906)~通じねえ、味噌擂(みそすり)だ~


「痛いがな。そう無茶をしては」

「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」

「坊主にはもうなっとるがな」

「まだ一人前じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」

「泰安さんは死にはせんがな」

「死なねえ? はてな。死んだはずだが」

「泰安さんは、その後(のち)発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修業三昧じゃ。

 今に智識(ちしき)になられよう。結構な事よ」

「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前なんざ、

 よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――

 女ってえば、あの狂印(きじるし)はやっぱり和尚さんの所へ行くかい」

「狂印と云う女は聞いた事がない」

「通じねえ、味噌擂(みそすり)だ。行くのか、行かねえのか」

「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」

「いくら、和尚さんの御祈祷(ごきとう)でもあればかりゃ、癒(なお)るめえ。

 全く先の旦那が祟ってるんだ」

「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」

「石段をあがると、何でも逆様だから叶(かな)わねえ。和尚さんが、

 何て云ったって、気狂(きちげえ)は気狂だろう。――さあ剃れたよ。

 早く行って和尚さんに叱られて来めえ」

「いやもう少し遊んで行って賞(ほ)められよう」

「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」

「咄(とつ)この乾屎(かんし)けつ」

「何だと?」

 青い頭はすでに暖簾(のれん)をくぐって、春風(しゅんぷう)に吹かれている。(*1)


 ハードディスクプレイヤーに録り溜めした長編映画(*2)を昨日一気に観たおかげで、頭の芯が痺れたようになっています。昨年の春の震災とそれに続く事故は、ひとの生命や生活を粉微塵にし、見通しの利かない借り住まいを余儀なくされている人も大勢います。どうしてもそんな状況と物語を重ね観てしまうものだから、気持ちが入ってしまって仕方ありませんでした。計7時間という長編ということもあるけれど、あれこれ考えながらの時間となったのが痺れをもたらした原因でしょう。


 戦禍が日常に及び、暮らしの趣きをことごとく変えていく、そのような激動の時代に生れずに済んだことを感謝していた僕でしたが、この度の震災は世に例外はなく、遅かれ早かれ誰も彼もが艱難辛苦との対峙を迫られることをはっきりと諭されたように感じます。テレビジョンや雑誌の送り出すものが精彩を失い、替わってこれまでは絵空事にしか見えなかった物語世界が我が身の未来を予見するやもしれぬ黙示録にも見えてくる。古い小説が新訳されたり、色の褪せた映画が丹念にリストアされてスクリーンに蘇えり、濃淡ありありと眼前に広がるようにして、急速に息吹を増してくる。世界がはげしく伸縮して感じられる。


 先日観たグレン・グールドのドキュメンタリー(*3)に触発され、年甲斐もなく手に取ったのが「草枕」でした。百年以上も前に書かれた話ですが、やはりこちらも胸に響いた。こんな年齢で漱石(そうせき)作品に触れるのは滑稽を越えて哀れな感じがして、とても恥ずかしく、余程書き留めるのをためらったのだけど、生きて暮らしていることの記録として残しておこうと思います。グールドが関心を寄せただろう芸術論も面白く読みましたが、当時の世間をくまなく覆っていた戦争の暗い影(日露戦争)とこれが狂わす人間の運命が切実で、厳粛な気持ちで頁を繰りました。


 上に引いた箇所は物語の中段に登場する床屋の様子です。山奥のひなびた宿に逗留している主人公が、村の理容店を訪れて頭を刈ってもらいます。後から入って来た寺の小僧と店主との間で交わされるのがこんなやり取りなのでした。話題の主は主人公の泊まる宿の出戻り娘で“那美(なみ)”というおんなであり、また、かつて彼女に懸想した挙句に行方をくらました若い僧“泰安”のことです。謎めいた面持ちの那美に深い関心をよせる主人公は、横でそのやりとりにそっと耳を澄ましている。


 麹(こうじ)や大豆の硬い粒が残る味噌をすり鉢に入れてはごりごりと擂(す)って、舌触りをなめらかにしてから利用することが往時の家庭では当たり前だったのでしょう。今では想像しにくい家事のひとつですが、寺社にあってはそのような調理前の下ごしらえを目下の者が行なうのが常でした。これが転じて半人前の僧を“味噌擂り(小僧)”と称するらしい。“みそっかす”とも通じる風合(身近から追い出さない、逃げ道が設けられた柔らかな印象)があります。


 会話の最後に登場する“咄(とつ)”とは舌打ちした時の音「ちぇっ」とか「ちっ」の意味であり、“乾屎(かんし)けつ”とは、厠(かわや)に備えられた木のへらの事です。専用の紙が無かった時代に各人が各人のしりの汚れをそれを使ってぬぐっておりました。“味噌擂(みそすり)”という蔑称に対する少年側からの逆襲なわけで、ここで両者は対となって一種の“クソミソ”的表現になっている。「ちぇっ、クソ取りべらめ」という意味ですからね、それにしても随分な悪態です。


 “乾屎(かんし)けつ”について気になって調べてみれば、禅話によく登場するものらしく、小僧の口から飛び出したのも日頃和尚から聞かされている法話が影響しているのでしょう。ウェブのあちこちにある解説を読めば分かりますが、決して悪い言葉ではないのが分かります。狭くて娯楽もない小さな山の村にあって、寺の小僧と店主はそんな“邪気のない悪口”をたたきながら日々の溜飲をさげているわけです。


 抗い難い世の流れにあって、想いを交わす人はちりぢりになり、時にはどちらかの生命が無情にも奪われさえします。例外のない一生はない。それと静かに向き合いながら、諦観を湛えながら人は言葉を探し、互いを鼓舞していくものなのでしょう。詮無いことと決めつけず、今後もあれこれと他愛もないお喋りをして行きたいものです。時には“邪気のない悪口”を言い合って、肩を叩き春風に吹かれたいものです。


(*1):「草枕」 夏目漱石 初出「新小説」1906(明治39)年9月 手元にあるのは新潮文庫138刷 引用は74‐75頁
(*2): ВОЙНА И МИР 監督 セルゲイ・ボンダルチュク1965-67
(*3):Genius within: The Inner Life of Glenn Gould 2009 監督ミシェル・オゼ、ピーター・ レイモント



2012年2月2日木曜日

吉村龍一「焔火(ほむらび)」(2012)~ふんだんにあるものの~



 翌日からおれは台所をあずかることとなった。

 牛殺しは毎朝六時にでかけていく。それまでに飯を炊き、

弁当をこしらえる。一度に腹におさめるのは、一合の飯。

朝は味噌汁、梅干し、高野豆腐の煮付け。弁当に握りこぶし

ふたつ分の握り飯と、味噌漬け。夕食は芋と大根の炊き合わせが

主な副食だった。一週間がすぎたころその献立に首をひねった。

肉や魚がまるでない。味噌や醤油はふんだんにあるものの、

干し椎茸や山菜などが食材のほとんどだ。獣をしとめてくる

こともなく、いつも山のものを調達して帰ってくる。

山賊にそぐわない、精進料理のような献立におれは謎を

ふかめた。(*1)


 吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焔火(ほむらび)」からの一節です。


 どちらを本業と思っておいでか分かりませんが、吉村さんは“調理”に携わる仕事に就いておられる。いやいや、本業とか副業といった発想はもう古いですね。僕たちの内実は多層化、多角化が進んでいて、たったひとつの“かたち”では充足を見出しにくくなっている。それが本当ですよね。僕みたいな不器用な者ほど、正だの副だの順列を付けて安心したがる訳ですよ、どうしようもないですね。


 兎も角、吉村さんは調理に日々取り組んでいる。そこで生じた隙間のような時間を縫って、取材や構想といった文筆業に同時に当たっていく。そんなことが影響していると見えて、作者の“食べもの”への眼差しには独特の執着が見られます。


 味噌や醤油(および調理光景、料理といったもの)の具体的な描写はそう多くは並ばないのですが、上の記述はちょっと面白かった。流浪する主人公が山中で初老の男に出逢います。精神的な部分を浮き彫りにする役割として、味噌と醤油が“ふんだんに”備えられた台所が登場していました。その“ふんだんにある”味噌と醤油を使って、“精進料理のような”料理が坦々と作られていくのです。


 僕たちが“精進料理”を口にする機会は稀にめぐってきますが、いずれも精神的な営みと深くかかわっていますよね。思えばあれって不思議な取り合わせになっている。食べてよいものと悪いものの取捨選択の基準はもちろん「肉」であり、代用品の意味合いもこめて大豆料理が幅をきかせている。それ以上に突き詰めて考えたことはなかったのだけど、もうちょっと踏み込んで思案しても罰は当たらないかもしれません。


 肉や魚といった美味しくてヨダレがこぼれるような贅沢品が排除されていく一方の、どうしようもない“残り滓(かす)”でそれらはあるのか、それとも魂を研ぎ澄ますために積極的に選ばれたものなのか。どう捉えるかで、器を彩る食材の見え方はまるで違っていきます。


 それ自体に聖性が付されている訳ではないけれど、仏への祈りや故人との交信に寄り添う“許しを与えられたもの”として味噌や醤油はあるのかもしれない、そんな連想が奔って面白く読んだところです。


 あれこれ「焔火(ほむらび)」については書き留めたいことはあるのだけれど、連日の寒波と積雪に疲労困憊しているところがあり、今日はこれで筆を置きますね。この雪が大気を洗い、清らかな飲み水を僕らにもたらしてくれる。そう思えばどこまでも美しい光景であるのだけれど、さすがに疲れちゃいました。


 皆さんもどうぞ気を付けて、転ばぬように、滑らぬようにお過しください。

 颯爽と風切って、けれど一歩一歩を大切にしながら、街をお歩きください。


(*1):「焔火(ほむらび)」 吉村龍一 講談社 2012 引用は134頁

2012年1月25日水曜日

楳図かずお「恐怖への招待」(1988)~まっきっき~


 断わる勇気がなかったのと、気が弱いものだから、くたびれて

いるし、押しきるパワーが足りなくて、とうとう、やるしかないと

いう気になっちゃった。やったんだけど、案の定、次の日、

朝起きると、普段だと前の日くたびれていても、とりあえず朝に

なるとくたびれが抜けているんだけど、朝起きると顔がまっきっきに

なっていて、全然くたびれが取れてないんだよね。それからずっと、

そんな状態が四年間ぐらい続いちゃった。

 ちょうど、『おろち』をかきかけの頃だったんだけれど、担当の

臼井さんという方が、毎日せっせとシジミのお味噌汁をこしらえて

くれて、それを飲んでいたけれど、お医者さんに診てもらったら、

やっぱり肝臓を悪くする手前という感じのところまでいっていて、

それがなかなか治らなくて、たとえば一日のスケジュールなんかでも、

ご飯を食べるのに時間を取ろうか、それとも寝るのに取ろうか、

どっちに時間を取ろうかと、こういう感じだったんだから。(*1)


 “恐怖マンガ”の第一人者である楳図(うめず)かずおさんが、誰しもが抱えている怖れや惑いに想いを馳せ、それを普通の言葉で表わしてみせた“語りおろし”の一部です。どこでどんな事をきっかけと為して、こころの奥底に恐怖が生じていくのか。幼少年のころに自分を取り巻いていた野や川といった自然やその土地に息づく因習、おとなたちの奇妙な言動をひもとき、また、長じて後は博物館に自ら足を運び、科学者と対談して突きつめていく。四十年という画業を通じてひとつの事にとことんこだわった人の言葉だけに、いくつも頷かされる箇所がありました。

 それと同時に(上に引いたような)現実世界での戦いぶりも語られていて、僕としては一層興味を引かれました。十代にデビューした同業者を強く意識し、出遅れたことを何とか取り戻したいと粉骨砕身努力していった楳図さんが、その言葉通りにボロボロの態となっていく。

 「週刊少年サンデー」での『おろち』連載は、1969年から翌年にかけてのようですから、楳図さんはその頃まだ32、3歳といったところです。そんな若さで働き詰めに働いて“まっきっき”というのですから、漫画家という仕事は壮絶です。

 編集者はあの手この手でもって、人気作家を盛り立てます。仕事場に差し入れをする、賄いの手伝いをするのもその一つかもしれませんが、黄疸(おうだん)の症状が誰の目にも明らかな作家に、“シジミのお味噌汁”を飲ませて執筆を後押ししなければならないというのも、なんともやるせない因果な商売ですね。

 漫画家とアシスタントがそれぞれ葛藤を抱えながら机に向かい、ペンをかりかりと走らせている。一方では流し台に立つ編集者がおり、ガス台の青白い光と熱を受けてぼんやりと佇んでいる。当時の仕事場の様子を想像すると、随分と切ない感じを受けます。仕事というものには、どうしてもそういった“泣き笑い”の瞬間が付きもの。生きることの本質を歪めてしまうような、どうにも腑に落ちぬ瞬間に見てみぬ振りをしたり、疑念をぐいと呑み込んで踏ん張っていく、そんな時間ってかならずやって来るものです。

 “断る勇気がなかったのと、気が弱いものだから”次々と編集者の声を受け止めてしまう徹底した“寛容のひと”であったことも知れて、ほのぼのと温かい気持ちになります。傍目(はため)にはファッションの奇抜さから唯我独尊の精神を表象して見え、何ら悩みを持たずに暮らして見える楳図さんなのですが、実際の創作現場は苦闘に次ぐ苦闘だったのだし、懊悩(おうのう)を余儀なくされた。

 また、“まっきっき”の時期を経て仕事を連載物一本だけに絞り、自分のリズムはもうこれしかない、ほかに刻みようがない、そう自分に説き聞かせるようにして執筆活動の方針を大きく転回させていく辺りは胸に迫るものがありました。

 時流に背いて独りで歩むことは勇気もいりますし、気負った肩のちからを弛(ゆる)めていくことは相当の覚悟もいります。「きちんと自分の順番が来た時に、それに合わせて頑張ったほうが、より無駄がない」という楳図さんから僕たちへ向けての吐露には、冴え冴えとした硬度と嘘のない重さをはっきりと感じます。

 ひとりの才人のターニングポイントに忽然と現われたこの“シジミのお味噌汁”には、だから和やかさや笑いは映し込まれない。消えゆく白い湯気の裏から、今まさに壁に向き合っている人間の、その瞳の奥をそっと覗いているように見えます。こういう峻烈な装いの味噌汁も中にはあるのだと、しみじみと感心させられました。

 さてさて、季節は再度めぐって氷の季節。足を滑らせ、怪我するひとが続出とか。いつもの歩調を少しだけゆるめて、硬度と重みのある確かな一歩をお続けください。怪我をするだけ損ですからね。

(*1):「恐怖への招待 世界の神秘と交信するホラー・オデッセイ」 楳図かずお 河出書房 1988 手元にあるのは加筆、訂正のなった河出文庫(初版1996)で引用箇所はその218頁。表題には最初に世に出された1988年を併記したが、味噌汁のくだりが最初から記載なっていたものか、それとも文庫版で加筆なったものかは未確認。

2012年1月21日土曜日

楳図かずお「井戸」(1974)~長い髪の毛~



  食卓についている男と妻
  椀をかかげて味噌汁をすすっていた男が、不意に大声をあげる

男「あっ!?」

妻「どうなさいました……!?」

男「みそしるの中から長い髪の毛が!?」

妻「まあ!?」

  場面一転、街なかの公園
  背広姿の男がその中を歩きながら、怪異を思い返している 

男「も、もしやあれは20年前に突然おれにだまって
  どこかへ行ってしまった浮気なカナ子の髪の毛では………?」(*1)


 上に引いたのは楳図(うめず)かずおさんが70年代に発表した、わずか8頁(1コマ1頁構成、ですから計8コマ)の実験的な短編「井戸」の冒頭部分です。初老の夫婦がテーブルで食事をしていると、なんと“みそしる”の中から髪の毛が見つかります。頭はともに年齢相応の色になっていますから、黒々としたこの闖入者は妻のものでもなければ夫のものでもないのです。その長さからいって、どうやら女性のものらしい。二人暮らしの古い住居です。最近は訪ね来るひともそういませんから、なんとなく変です。

 面白いお話なので、ざっと紹介してしまいましょう。(結末に触れます)

 男はまだ会社勤めの身です。天気は快晴。鞄を下げて公園を横切りながら、不意に昔の記憶が蘇ってきました。訳も言わずに自分のもとを立ち去って、以来ぱったりと連絡が途絶えてしまった相手がいたけれど、もしかしたらそのおんなのものじゃないかしら。たった一本の髪の毛が隠栖(いんせい)するに似て乾燥気味だった男の日常を縛りはじめ、過去へと盛んにこころを誘(いざな)うのでした。

 怪異は続きます──洗面台に男が向かっていたところ、蛇口から流水といっしょに指輪がひとつ、カタンと軽い音をたてて転がり出たのです。屋敷にはいまだ枯れずに水を湧かせる井戸があり、今は簡単な覆いがされ、据え付けられた小型ポンプが自働運転をしています。汲(く)まれた水は配管を通じて建物の方々へと行き渡り、炊事や洗面といった家事全般に使われている。謎を解く鍵はその井戸の奥にあるようです。

 電灯の光もよく届かない深さと暗さです。こうなると意を決して臨むしか道はありません。単身ロープを伝い降り至った男の目に、ついに“何か”が映りました。「ま、まさか…そ、そんなバカなことが…………」男の叫び声がわんわんと反響します。場面替わって、井戸端会議の様子です。妻の言葉とさりげない描写から僕たちは、男が二度と井戸から這い出ることがなかったことを知ります。塀向こうのご近所の人に夫の失踪を伝える妻の顔は、不思議と穏やかで屈託がありません。妻は近日中に井戸を御役御免とし、土を入れて固める決意を合わせて報告するのでした───

 楳図さんの「蝶の墓」や「アゲイン」なんかは読んでいましたが、気の弱い僕はいかにも怖そうなものは避けていたところがあります。小学生の時分には表紙を見ただけでごめんなさい、という感じだったのでしたが、年始の休みを利用してそんな“こわい本”ばかりを一気に読み進めてみました。

 好奇心旺盛な少女たち、男たちが“見よう”とする衝動にどうしても抗し切れず、禁忌(きんき)を破って廊下の奥の部屋や朽ちかけた屋敷に足を踏み入れます。気付いた時にはもう遅く、ろくでもない事態に陥っているという流れですね。外貌が“怪物化してしまった人間”と目と鼻の先で向き合わなくてはならない。うろこで埋まったり、血と膿みでぐちゃぐちゃの顔に「ギャ~~ッ、うわーッ」と叫び、出口を求めて駆け出します。焦点のあわぬ目をぐわりと剥いて、かん高く笑いながらその背中に突進してくる楳図さんの化け物たちは不気味ですが、この齢になってみれば笑えるところもあります。

 むしろ今回、つくづくと感心させられたのは、劇空間を貫いている心理描写の細やかさでした。見えない部分にこそ本当は楳図さんの真髄が宿っている。嫉妬と怨念、破壊願望、ささやかで切実なのだけど決して実現し得ない、それゆえに破裂するまで膨張が止まらなかったりする夢や希望といった“人間の見えざる内面”が主役になっている。震央となって胸を揺さぶり、噴泉となって降りそそぎます。

 人と人とが接近し、交流と交感を果たしていくことは簡単そうで存外難しい。解らない相手に対する惑いや焦りはやがて“不安”を育ててしまい、荒々しい排除なり逃避へと雪崩打つことも間々あります。人間のこころとこころが結局は“恐怖”を醸成していく。黒い影のべったりと塗り込められた画面やノイズ雑じりの描線の奥で、そっと息づき、気配となってゆらめくものが実際は怖いのです。この「井戸」だってそうです。「黒猫」の亜流と笑うのも良いでしょうが、あれこれ思いを凝らすことで違った物語が見えてくる。露呈し切れない豊かな多層を秘めている。

 小泉八雲(こいずみやくも)さんの本で知ったのですが、明治期あたりまでの井戸は、定期的な清掃の後に神事を執り行なって水神の怒りを抑えたそうです。その後に、一匹か二匹の鯉(こい)をわざわざ底に放して住まわせたらしい。“安全な飲み水”に対しての概念が今とは随分と違っていることに驚かされると同時に、生活の道具という域を遥かに超えた底知れぬ精神性に唸りました。

 一方の味噌汁というのも随分と精神的な食べ物です。託されるものは当然違いますが、ほの暗い“見えざるもの”をしっかりと具(そな)えている。“母性”や“家庭”を誰もが連想するそんな味噌汁に、境界外に住まうおんなの髪の毛がにゅるにゅると侵入する構図も、だからきっと偶然ではない。

 異界の入口となっている井戸と、コロイドの雲の背後にさまざまな想いを隠す味噌汁、そんな両者間を行き来するおんなの髪の毛──なんとも絶妙な取り合わせで、もの凄いかたちです。楳図さんを信奉するひとが出てくるのも宜(うべ)なるかな、納得がいくのです。
 
(*1):「闇のアルバム その7 井戸」 楳図かずお 「ビックコミックオリジナル」1974
年8月20日号掲載 手元にあるのは朝日ソノラマ「楳図かずお恐怖文庫・4 楳図かずお こわい本《闇》」1996 53-55頁 

2012年1月7日土曜日

「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」(2011)~示唆~

 新年会で知人がおいでおいでと手招きします。おみやげと称して取り出したのは、緑色の表紙の薄い冊子でした。ゴシック体で「日本醸造協会誌」と白抜きされている、いかにも硬い顔立ちの学術誌です。


 なかに“被曝に対する防護策を求めて”と小題を掲げた文章があり、目が釘付けになってしまいました。実を言えば昨春以来あれこれと気に病んでいる僕の様子を見るに見かねた知人が、わざわざ付箋を貼って持ってきてくれたのです。専門用語がわんさか列を為しています。門外漢の僕にはちんぷんかんぷんの箇所が多いのだけど、なんとなく明るい話題であるのは直ぐに見て取れました。


 すぐにでも書き写したいところですが、学術論文を長々と引用するというのは小説や漫画のそれとは性質が違います。自由勝手に幻影を構築するものとは違い、現実世界に真っ向から切り込んでいるだけに賞賛であれ揶揄であれ、その反響はどうしても熾烈(しれつ)になってしまう。ツィッターのような新しい仕組みとこれがもたらす騒動も日頃から見知っておりますから、どうしても慎重に考えなければなりません。


 「引用」という行為自体が学術書の域で許されるものかどうか、それももちろんあるでしょう。段を踏んで一歩一歩進める理詰めの内容を、ほんの数行に端折って紹介するのはとても危険なことにも思えます。井戸端会議で気ままに応答するレベルではなく、よく咀嚼して消化しきってから行動に移すべきことって世の中にはたくさん在ります。この度の事故の一件はまさにそれでしょう。


 はてさてどうしようか悩んだのですが、本日論文の表題を試しに検索にかけてみれば何のことはない、当の研究に関わった会社のホームページで堂々と紹介されているじゃないですか。関係する皆さんは公言することに一切頓着しておられない様子ですので、もう遠慮することなく、僕なりにこの初春に読み取った“ささやかな希望”を日記に書き残そうかと思います。


6.まとめ

 ヒト個体において、遺伝子情報保持に関わる生理機能(SOS応答)があることを対放射線ストレス応答の研究から見出している。その応答機能における細胞レベルでのかぎとなるものはシャペロンであり、GRP78やHSP27がある。それらの分子シャペロン類の細胞内量を、培養ヒト細胞RSaを用い、ウェスタンブロッティング法で測定した。36種の味噌食品を蒸留水(MilliQ水)に溶解させ作製した味噌サンプル液を用い、細胞死を誘導させない濃度(細胞培養液量に対し2%以下)で、48時間以内の処理をしたRSa細胞より、タンパク試料を得て測定した。GRP78とHSP27のいずれかに細胞内量を増大化させるサンプル16種が見出された。次に、サンプル液処理RSa細胞で紫外線(UVC)により誘導される変異の頻度が低下することを、ウアバインの致死作用に対する耐性化(OuaR)を指標とする形質変異検出法とK-ras癌遺伝子におけるコドン12の塩基置換をドットブロットハイブリダイゼーション法により検出する遺伝子変異検出法で検証した。11種のサンプルで、変異発生を抑制することが示唆され、その内の6種では調査シャぺロンの量的増加が連動した。10種の麹菌株それぞれを米麹、麦麹、および大豆麹化した後、水溶液サンプルを調整し、味噌サンプルと同様の処理をし、RSa細胞におけるシャぺロン量の変動値を計測した。増大化させるもの6種を見出した。一方、味噌サンプル液により増加したGRP78の発現量をGRP78遺伝子のsiRNAにより低下させると、変異発生の抑制は見られなかった。従って、シャペロンなどの細胞内分子を介して、米麹、麦麹、あるいは大豆麹の成分によりヒト細胞における変異の発生を抑制するという機能が示唆された。(*1)


 紫外線や放射線など、さまざまな悪影響を受けてしまった細胞は変異暴走や自滅の道を辿るか、それとも踏み止まって正常な活動を続けるか、二通りの道を歩むことになります。その分岐の要(かなめ)になっているのが“シャペロン”と呼ばれるものだそうです。このシャペロンというのは辞書を引くとどうやらフランス語のchaperonが語源らしく、元々は“社交界に初めて出る若い女性に付き添う、介添えの女性”を指します。これが細胞内に多く含まれるとダメージを受けた際でも修復の手が伸び、壊されずに再生していく場合がある。細胞を上手にエスコートして若々しい健常な顔かたちに導いていく、応援していく、そんな健気な役割をシャペロンは負っているらしい。


 そのシャペロンの量を増加させる機能が味噌の基本となる麹(こうじ 糀とも書く)にはあると執筆者は捉えているのです。これは本当に興味深い話ですね。


 世界大戦末期の新型爆弾投下にかかわる幾つかの伝聞に端を発し、有害な放射線に対してなにがしかの抵抗力を喚起する成分が味噌の中には宿っているのではないか、そう推察する声がずっとありました。呼応した研究者の皆さんの努力により小動物を用いた検証が重ねられ、消化器官の損傷をやわらげる効果が実際確認されてはいたのです。ただ、それをもってこの度のような劇甚な災害に当てはめて何か言えるかといえば、あまりにも特殊で初めての事であり、地域ごと千差万別の様相を呈してもいます。実験室内の動物を相手にした結論ではどうにもならなかったところがあります。


 いたずらに過ぎていく時間に歯がゆさを覚え、靄(もや)のかかったような事態を何とかしたいと願った末に、(僕もそのひとりでしたが)そんな過去の論文をひも解いて紹介しようとするひとが幾人(いくたり)か現われました。その後のなりゆきを視ているとフードファディズム (food faddism)の烽火(のろし)じゃないか、あざとい宣伝ではないかと悪罵(あくば)される場面もなかにはあって、その度に面識のない間柄ながらなんとも気の毒に思い、また、膨大な数の読み手を相手にするウェブの難しさも感じた訳なのでした。


 今回の発表の革新性は動物でなく、一歩踏み込んで“ヒト細胞RSa”を使っていることです。確かに各人の免疫力の段差や複合的な汚染の実態を考慮すれば、この発表の結果があまねく当てはまるとは言い難く、光明を確信するに至るほどの内容ではない。これで助かると信じろったって、到底無理な相談です。その意味では先の研究結果と変わらず、何の進展もないのかもしれない。


 けれども「買うな、食べるな、飲むな」の大合唱のなかにあって、逆に“食すること”で闘えるかもしれない、もしかしたら救えるかもしれない──という話はめずらしく耳朶(じだ)に新鮮ではないでしょうか。それはあまりにも小さな一筋の逆波(さかなみ)かもしれませんが、ちょっと雄々しくもあり、小意気で愉快な風姿とも感ぜられて妙にほのぼのとしてしまう訳なのです。


 いまは万事洋風の味つけが好まれ、僕の大事の思う人にしたってスパゲティだの何だのを料理してみたり、毎日のように食べがちです。そりゃ美味しい、僕だって大好きです。でもね、お願いだから時どきはお椀一杯の味噌汁をすすってもらいたい。心配げに遠目に見守っている“介添え”シャペロンを、三食に一度ぐらいは思い返してもきっと罰は当たらない。大事に思えばこそ「食べてもらいたい」、そんな風にこころを込めて祈っているところです。


 
(*1):「ヒトにおけるSOS応答生理機能の創成に基づく味噌ないし麹による遺伝子を守る効能の発見─被曝に対する防護策を求めて─」Findings of Gene Protection by Japanese Miso and/or Koji based on Creation of Human Physiological Functions,SOS Response-to Search for Radio-protective Methods 鈴木信夫 姜霞 喜多和子 菅谷茂 日本醸造協会誌 2011年12月号 公益財団法人日本醸造協会・日本醸造学界 808-809頁