2012年2月2日木曜日

吉村龍一「焔火(ほむらび)」(2012)~ふんだんにあるものの~



 翌日からおれは台所をあずかることとなった。

 牛殺しは毎朝六時にでかけていく。それまでに飯を炊き、

弁当をこしらえる。一度に腹におさめるのは、一合の飯。

朝は味噌汁、梅干し、高野豆腐の煮付け。弁当に握りこぶし

ふたつ分の握り飯と、味噌漬け。夕食は芋と大根の炊き合わせが

主な副食だった。一週間がすぎたころその献立に首をひねった。

肉や魚がまるでない。味噌や醤油はふんだんにあるものの、

干し椎茸や山菜などが食材のほとんどだ。獣をしとめてくる

こともなく、いつも山のものを調達して帰ってくる。

山賊にそぐわない、精進料理のような献立におれは謎を

ふかめた。(*1)


 吉村龍一(よしむらりゅういち)さんの小説「焔火(ほむらび)」からの一節です。


 どちらを本業と思っておいでか分かりませんが、吉村さんは“調理”に携わる仕事に就いておられる。いやいや、本業とか副業といった発想はもう古いですね。僕たちの内実は多層化、多角化が進んでいて、たったひとつの“かたち”では充足を見出しにくくなっている。それが本当ですよね。僕みたいな不器用な者ほど、正だの副だの順列を付けて安心したがる訳ですよ、どうしようもないですね。


 兎も角、吉村さんは調理に日々取り組んでいる。そこで生じた隙間のような時間を縫って、取材や構想といった文筆業に同時に当たっていく。そんなことが影響していると見えて、作者の“食べもの”への眼差しには独特の執着が見られます。


 味噌や醤油(および調理光景、料理といったもの)の具体的な描写はそう多くは並ばないのですが、上の記述はちょっと面白かった。流浪する主人公が山中で初老の男に出逢います。精神的な部分を浮き彫りにする役割として、味噌と醤油が“ふんだんに”備えられた台所が登場していました。その“ふんだんにある”味噌と醤油を使って、“精進料理のような”料理が坦々と作られていくのです。


 僕たちが“精進料理”を口にする機会は稀にめぐってきますが、いずれも精神的な営みと深くかかわっていますよね。思えばあれって不思議な取り合わせになっている。食べてよいものと悪いものの取捨選択の基準はもちろん「肉」であり、代用品の意味合いもこめて大豆料理が幅をきかせている。それ以上に突き詰めて考えたことはなかったのだけど、もうちょっと踏み込んで思案しても罰は当たらないかもしれません。


 肉や魚といった美味しくてヨダレがこぼれるような贅沢品が排除されていく一方の、どうしようもない“残り滓(かす)”でそれらはあるのか、それとも魂を研ぎ澄ますために積極的に選ばれたものなのか。どう捉えるかで、器を彩る食材の見え方はまるで違っていきます。


 それ自体に聖性が付されている訳ではないけれど、仏への祈りや故人との交信に寄り添う“許しを与えられたもの”として味噌や醤油はあるのかもしれない、そんな連想が奔って面白く読んだところです。


 あれこれ「焔火(ほむらび)」については書き留めたいことはあるのだけれど、連日の寒波と積雪に疲労困憊しているところがあり、今日はこれで筆を置きますね。この雪が大気を洗い、清らかな飲み水を僕らにもたらしてくれる。そう思えばどこまでも美しい光景であるのだけれど、さすがに疲れちゃいました。


 皆さんもどうぞ気を付けて、転ばぬように、滑らぬようにお過しください。

 颯爽と風切って、けれど一歩一歩を大切にしながら、街をお歩きください。


(*1):「焔火(ほむらび)」 吉村龍一 講談社 2012 引用は134頁

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