2011年1月27日木曜日

林芙美子「晩菊」(1948)~溜息だけをつかせてはならない~




 田部は、思い出に吊られて来るだけだ。昔のなごりが少しは

残っているであろうかと云った感傷で、恋の焼跡を吟味しに来る

ようなものなのだ。草茫々の瓦礫の跡に立って、只、あゝと溜息

だけをつかせてはならないのだ。年齢や環境に聊(いさ)さかの

貧しさもあってはならないのだ。慎み深い表情が何よりであり、

雰囲気は二人でしみじみと没頭出来るようなたゞよいでなくては

ならない。(中略)茶の間へ行くと、もう、夕食の膳が出ている。

薄い味噌汁と、塩昆布に麦飯を女中と差し向かいで食べると、

あとは卵を破って黄身をぐっと飲んでおく。(*1)


林芙美子(はやしふみこ)さんの「晩菊」からの一節です。


五十を越えたおんなの目線で描かれています。毎夜寝入りばなに、追憶にふけるのを楽しみとしています。若い時分には器量の良さが評判となって、絵葉書に刷られたこともあるのです。華やかな男性遍歴を振り返りあのひとはこうだった、この男はああだった、ひとりふたり、さんにん、よにんと指折り数えながらそっと夜をまたいでいくのでした。


未練や後悔といったものが芽吹かない、穏やかで重心の低い日々を無理なく重ねているところです。世間からも異性からも距離を置いて、今は町なかの一軒家に気の置けない女中とふたりして隠棲していたのだけど、そこに昔いい仲だった男が突然訪問したいと言ってきたものですから、いつになく気ぜわしい朝になってしまいます。


人間として、またおんなとして決して弱味を見せる訳にはいかない、湯に浸かり、身体を清め、丹念に化粧をしながら過去と現在を内観する時間がしとしとと過ぎていく中で、怪訝、警戒、懐かしさ、晴れがましさ、色めく想い、愛着、男に対してのそんな思いもはらはらと乱反射していく。


結局のところ男の来訪は金の無心が目的でありました。悠々と年輪を重ねて完成の域に達したおんなと魂を萎縮させてしまった男が、ゆるゆると火鉢の上を立ち昇るタバコの煙を挟んでじっと対峙しています。同じ年数を経ていながらまるで違った体臭を匂わすふたりが冷徹な筆致で描かれていくのでした。


確かに重苦しい内容です。けれど、読後感は不思議と爽やかでしたね。おんなのまなざしを通じてくっきりと“成長”が描かれているからでしょう。いまの僕の年齢も関わっているのでしょうが、読んで良かったとこころから思える作品でした。


さて、“味噌汁”ですが、これは男を出迎える寸前に登場しています。野菜、豆腐、わかめ──何が入っていたものかまるで判然としません。具材が視野からすっかり追いやられ、ただ「薄い」とだけ“強調”されています。先に紹介したように林さんは味噌汁を魂に直結させるひとですから、このちょっとした形容だって伊達ではありません。



これから訪れるだろう再会を非常な緊張をもって臨んでいる、そんな切羽詰ったおんなの胸中がここでの朝食によって見事に代弁されているように僕は読みました。 削りに削った末に鋭さがいよいよ増した木串のような、とても硬い気配が膳のあちこちから漂っています。日常の習慣と見せて、実は味わうゆとりをおんなは無くしている、その気分を官能レベルで支えているということでしょう。瑣末な事象まで目を配り、人物の造形を全方位から築いている。良質の物語に共通する繊細で緻密な織り込みが素晴らしいですね。


ひとは無防備と軍装の狭間を揺れ動きながらひとと出逢ってしまい、さまざまな思いを経てやがて別れていくものでしょうが、この時のおんなは微妙な揺れの端境にいる。戦装束に身を包まれているのだけど、それは錦綾なす装飾に彩られて傍目にも艶やかなのです。こころの臨戦態勢をぐいっと後押しするための“薄い味噌汁”が、おんなの白い喉元を駆け下っていきます。身体の芯がさっと洗われるようです。


覚醒、興奮をつかさどるこの役回り、現在はコーヒーや栄養ドリンクが担っているものでしょうか。しかし“薄い”コーヒーや“薄い”栄養剤ではひさしぶりの逢瀬は闘えないでしょう。恋路の果ての“薄い味噌汁”、なかなか興味をそそる現象なのです。





寒い日が続きます。

“薄い味噌汁”はまず置いといて、濃厚な、熱い味噌汁を呑んで、元気にお過しください。



(*1):「晩菊」 林芙美子 1948  手元にあるのは講談社文芸文庫 第10刷

2011年1月25日火曜日

ケン・ラッセル「狂えるメサイア」(1987)~僕が喜びを感じなければ~


僕は好きで彫ってる

それが喜びだ

僕が喜びを感じなければ

人に喜びを与えられない

これがミソだ(*1)


フランスの彫刻家Henri Gaudierさんの伝記映画を見ました。1900年代初頭のパリが舞台です。


背に腹はかえられないと贋作工房で働いていた若い絵描きが、図書館で年長の女性とめぐり合い心を通わせるうちに一念発起します。ふたりは同棲を始め、道端に捨てられた野菜クズで腹を満たし、半地下の穴倉のような劣悪な住環境をひたすら耐え忍んで創作に打ち込むのでした。ようやく画商に認められて個展の話が舞い込み、寝る間も惜しんで作品を彫り終えたのですが、折からの世界大戦、ドイツ軍侵攻に矢も盾もたまらず従軍してあえなく死んでしまうのです。


大衆の反応は必ずしも好意的ではありませんでした。会場の隅でひとり遺された恋人は滝のように涙し、映画は鎮魂を祈るように男の作品ひとつひとつを実に丁寧に写し撮りながら厳かに幕を下ろします。わずか二十三歳、駆け抜けるような人生でした。


ひたすら前進する若者に合わせて台詞は噴水のようにほとばしり、人物描写はかなりエキセントリックで時に爆発的です。今では英国女王、ロシア文豪の妻まで演じるようになり、当代一の女優と謳われさえするヘレン・ミレンさんも当時の先鋭的な女性役で出ていますが、闘志満満のまなざしと豪気あふれる肢体を画面にぶつけるように立ち回り、見事に圧倒してくれて実に嬉しかった。


まぶしい思いで最後まで観終えました訳でしたが、途中ちょっと驚かされたのは字幕に映った「ここがミソ」という言葉なのでした。ヒアリングに自信がない僕には何と言っているか分かりませんけれど、元々の台詞はもちろん違ったものです。


製作されたのは1972年ですが、日本で公開されたのはずっと後の1987年です。その時点で翻訳されたものか、それともさらに何年か経てのビデオ発売の折に付されたものか分かりませんけれど、パリの空の下で展開する劇空間で“ミソ”が突如現われたのは妙にこそばい感じがしました。あくまで翻訳の域のことで本来の物語とは隔絶した現象なのであって、ことさら取り上げるのは滑稽なことかもしれません。

 
もちろん批判的に僕は捉えているのではなくって、大いにその滑稽を楽しんでもいる、今だったら翻訳者はこのフランスの若者に「これがミソだ」と言わせたものだろうか、今だったら観客はその言葉をすとんと胃の腑に収め得たものだろうかと思案が加速するのです。夜を徹してノミを振るい、真白いトルソをカツンカツンと彫り進めながら「これがミソだ」とつぶやく紅毛碧眼の若者──むむむ、ちょっと無理そうだなあ。


先に紹介したように村上春樹さんも翻訳において「そこがミソ」を採用していました。推察するに村上さんの作業は1990年頃と考えられますから、この「狂えるメサイア」の公開(字幕作成)と年代的に符合しています。 “違和感”を醸成するための計算付くの表現として、村上さんがあえて奇妙な「そこがミソ」を使ったのかと僕は思ったのだったけれど、こうして両者並べて見れば“時代”が為せるものだったとも思えてくるのです。


今の世の中でどれだけの人が「これがミソだ、そこがミソよ」と口にするんだろう。子供たちはどうそれを聞くんだろう。二十年という歳月が僕らのこころの中の“ミソ”の立ち位置をいかほど変えたものか、このような些細な事からも類推することが出来そうじゃないかしらん。そんな風に固着して捉えて、寒空の中でぼうっとあれこれモノオモイに耽っているところです。


いよいよ空気は澄んで月が妖しく綺麗です。

充実した、楽しい夜をまったりと過ごしてください。

(*1): Savage Messiah 監督ケン・ラッセル 1972 日本公開の1987年を表題には添えた

2011年1月14日金曜日

江戸川乱歩「孤島の鬼」(1929)~小屋の中に隠れて~


 昼間はじっと徳さんの小屋の中に隠れて、夜になると外気を呼吸したり、

縮んでいた手足を伸ばすために、コソコソと小屋を這い出すのであった。

 食物は、まずいのさえ我慢すれば、当分しのぐだけのものはあった。

不便な島のことだから、徳さんの小屋には、米も麦も味噌も薪も、

たっぷり買いためてあったのだ。私はそれから数日のあいだ、

えたいの知れぬ干し魚をかじり、味噌をなめて暮らした。

 私は当時の経験から、どんな冒険でも、苦難でも、

実際ぶつかってみると、そんなでもない、想像している方が

ずっと恐ろしいのだ、ということを悟った。(中略)

 私の心臓はいつも通りしっかりと脈うっていたし、私の頭は

狂ったようにも思われぬ。人間は、どんな恐ろしい事柄でも、

いざぶつかってみると、思ったほどでもなく平気で堪えて行ける

ものである。兵士が鉄砲玉に向かって突貫できるのも、これだな

と思って、私は陰気な境遇にもかかわらず、妙に晴ればれした気持に

さえなるのであった。(*1)


 上に引いたのは江戸川乱歩(えどがわらんぽ)さんの「孤島の鬼」の一節で、題名にある島での様子です。



 密室と衆人環視のなか、むごたらしい殺人事件が相次いで起こります。謎解明につながるとみられる小さな島を、主人公蓑浦金之助(みのうらきんのすけ)と年長の友人にして蓑浦を内心恋い慕う同性愛者の諸戸道雄(もろとみちお)がふたりして訪れますが、諸戸は悪魔のような島の住人によって土蔵に監禁されてしまうのでした。蓑浦は心細い思いを抱きながら友人奪還をひとり画策していきます。“当時の経験から”うんぬんというのは、この話が最初から最後まで主人公の回想形式を取っているからです。


 愛する者を殺され、知人を救えず見殺しにし、忌わしい殺人をさらに幾度も目の当たりにしたあげくに、見ず知らずの土地で孤独な逃亡生活を余儀なくされる。誰が味方で誰が敵やらわからぬ中で、手ぬぐいで顔を隠し、夜陰に乗じて悪鬼の館に潜入せねばならぬ。危機また危機の連続です。やや女性的な気質を内に秘めた都会育ちの男なのですが、しかしそのうち、肝がどんどん据わってきて大胆な動作が板に付いてくる、成長していく、それが自分でも分かってくる、そんな踊り場めいた描写なのでした。そこに“味噌”が登場しています。


 旧家の土蔵に座敷牢、ぐるりと囲む高い塀に屋根瓦、湿って冷たいコンクリの壁、地下室、抜け道、変装道具、気球に野獣それから血みどろの刃(やいば)、黒く光る拳銃……、乱歩さんの世界はたくさんの小道具で構成されていますが、よもやその中に“味噌”が顔を覗かせるとは想像もしませんでした。


 作者も読者も展開を追って走るの精一杯であって、食事の仔細に目を細めたりそれを談じたりはしないもの。まして調味料にまで気持ちを注ぐ余裕はない、味噌や醤油とは無縁の世界と思っていたのです。 恋する人と思いがけず街角で出くわしたみたいで、ちょっとドキドキしました。


 以前読んだ小冊子によれば、味噌のなかには血管の収縮をブロックして高血圧を防止する成分が入っているらしい。干し魚のカルシウムと味噌の成分がうまく作用して男のパニックを沈静化させている、と解釈するのは飛躍が過ぎるでしょうか。


 医学的にどのような役割を果たしたかはさて置き、ここでの味噌は一皮剥けて逞しくなった男の心持ちとは確かに連動していて“妙に晴ればれした”ところがあります。情念の噴出や決壊をそっと抑制して内観をうながし、静かでさらさらした時間を醸成していく。どうやら味噌にはそのような効用が物語のうえで期待されている。実際どうでしょう、“えたいの知れぬ干し魚”だけでは男の精神はすさむばかりで支え切れなかったに違いない。悪くない味噌の登用だったと思うのです。


 ごちそうさまでした、乱歩さん、面白かったですよ。

 
 往時の無頓着な世相を反映して乱暴この上ない題材が選ばれ、遠慮の微塵もない黒い笑いにまみれた場面が連綿と続いていく、そんな猟奇小説です。昨今の過剰な表現規制などを思うと、いつか絶版になるような気が致します。

 原初的で毒々しい恐怖と笑いを、けしからん、配慮が足らないと切除するなりフタなりをしてしまえば、創作の世界の地平はなるほどすっきりするかもしれない。けれど、意見を交わすことが出来る“開かれた闘技場”が失われていき、結果的にこれから育っていく若者のこころを未成熟にしないか、硬直させないかと僕はすこし心配しています。


 こういう本は何とか生き残ってもらいたい。人間の本質を鋭く突いた内容ともなっていて、興味深い、嬉しい時間となりました。



(*1):「孤島の鬼」 江戸川乱歩 初出は大衆雑誌「朝日」で一年間に渡る連載。表題にはいつも通り連載開始の1929(昭和4)年を入れた。手元にあるのは東京創元社の推理文庫 2010年の30版。引用はそれの283頁。最上段の画像もその中からで、連載当時の扉絵。同182頁より。竹中栄太郎さんの筆による。 

2011年1月12日水曜日

林芙美子「放浪記 第三部」(1947)~何処からか味噌汁の匂いが~



(七月×日)(中略)
 台所で一人で食事。来る日も来る日も、なまぬるい味噌汁と御飯。
ぬか漬の胡瓜を一本出してそっと食べる。ああ、たまにはジャムつきの
パンが食べたい。
 奥さんが、小さい声で叱っている声がする。恩を仇で返されたような
ものよと云う声がする。学者の家と云えどもいろいろな事あり。(中略)
女の泣き声が美しいのに心が波立つ。やぶれかぶれで、またぬか漬けの
茄子を出して食べる。
 酸っぱい汁が舌にあふれる。(*17)


 林芙美子(はやしふみこ)さんが1947(昭和22)年に「日本小説」という雑誌に連載を始めた「放浪記 第三部」は、やはり若かった折りに書き綴ってきた五年分の日記が土台になっています。二十年も前の文章を開陳しなければならないのは、いくら文筆家といえども大変な話です。林さんは当然のこととして加筆をされている。僕みたいな素人目にも随分と手が加えられているのが分かって、それが読んでいて興味惹かれるところでした。

 
 たとえば上に引いたところなどは直往邁進(ちょくおうまいしん)だった一部、二部の気ままな記述と比べてすこぶる技巧的で読みやすく、また楽しい感じに演出されています。林さんが女中として住み込んだ学者さんの家での情景です。台所で朝食を取っていると壁越しに館の主とその夫人との修羅場が演じられる。林さんは男女の悲鳴や囁きを漬け物をもそもそ食べる行為でサンドイッチして見せて、交互して読者の眼前に広がる光景がまるで映画のカットバックです。


さらに味覚や嗅覚を味方につけて、女の泣き声、涙、胃の腑から苦しく込み上げるものと「舌にあふれる酸っぱい汁」を上手く交じり合わせてもいる。哀しさを倍化することに成功しています。ここには明らかに文筆家としての成長が認められますし、既にこれは日記ではなく練り上げられた小説の域に突入してもいる。


 「みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いている」(*15)と言う林さんの言に嘘はないのですが、“本当”を伝える術の巧みさがぐっと増している。読む方もそれだけ共振していき、他人事として静観することがいよいよ難しい。ふと我が身を振り返って内省を迫られるような部分とも多く出会ってしまう。驚くほど震幅が増しているのです。

 
「いったい、どこに行ったら平和に飯が食えるのだ。飢えていては何を愛する気にもなれない」(*12)と叫ぶ林さんの、けれど誰かを一心に愛さずにはいられない魂が「飢餓感」とみるみる結合して、実に稀有な協和音を奏でていく。愛憎と食べものが連結して魂を謳い、而して“味噌汁”もまた見事な光を放っていくのでした。


以下は熱情のおもむくまま後先無しに同棲をはじめてみたものの、結局は袋小路に行き果てた林さんと若い詩人との間に立て続けに現われ、強い印象を刻んでいく味噌汁の記述を抜き書きしたものです。このような哀しい味噌汁は他であまり見られないような気がします。


(十二月×日)(中略)

 どうにも空腹にたえられないので、私はまた冷い着物に手を通して、

七輪に火を熾(おこ)す。湯をわかして、竹の皮についたひとなめの

味噌を湯にといて飲む。シナそばが食べたくて仕方ない。十銭の金も

ないと云う事は奈落の底につきおちたも同じことだ。

トントン葺きの屋根の上を、小石のようなものがぱらぱらと降っている。

ここは丘の上の一軒家。変化(へんげ)が出ようともかまわぬ。

鏡花もどきに池の鯉がさかんにはねている。味噌湯をすする私の頭には、

さだめし大きな耳でも生えていよう……。狂人になりそうだ。

どうにもならぬと思いながら、夜更けの道を、あのひとがあんぱんを

いっぱいかかえてかえりそうな気がして来る。かすかにあしおとが

するので、私ははだしで外へ出て見る。

雪かと思うほど、四囲は月の光りで明るい。関節が痛いほど寒い。

ばったりと戸口で二人で逢えばどんなに嬉しかろう……。(*13)


(十二月×日)(中略)

 さて、私もいよいよ昇天しなければならぬ。駅の近くの荒物屋へ行って、

米を一升買う。雨戸がまだ一枚しか開いていない。暗い土間にはいって行くと、

台所の方で賑やかな子供達のさわぐ声がして、味噌汁の香りが匂う。人々の

だんらんとはかくも温く愉しそうなものかと羨ましい気持ちなり。

男の為にバットを二箱買う。(*14)


(二月×日)

 朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。

寝床のなかで、いつまでもあれこれ考えている。野村さんは紅い唇をして

眠っている。肺病やみの唇だ。(中略)
 
もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。

何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。

誰かの句をふっと思い出した。(*16)



 恋情の終着点でふと何処からか匂ってくる味噌汁。化け物の吐息でしょうか、それとも粉微塵になった淡い団欒の夢の残り香でしょうか。人がひとを愛した果てに訪れる真空の朝に、幻の味噌汁が湯気をそっと放っています。 


 関節が痛いほど寒い、そんな凍える日々に僕たちも入りましたね。

 元気に温かくしてお過しください。


(*12):第三部 421頁
(*13):第三部 438頁
(*14):第三部 448頁
(*15):第三部 450頁
(*16):第三部 470頁
(*17):第三部 498頁

「放浪記 第三部」は上に書いた通り、その原型を1922(大正11)年まで遡ります。けれどここでは加筆され完成されて雑誌に連載なされた時期、1947年を以って一応の区分けとしました。
最上段の写真は映画「放浪記」監督 成瀬巳喜男 1962 

林芙美子「放浪記 第一部・第二部」(1928)~米味噌の気づかい~



(二月×日)(中略)

 だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、

カフエーの女給とか女中だなんて!十本の指から血がほとばしって

出そうなこの肌寒さ……。さあカクメイでも何でも持って来い。

ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だが、とにかく、何もかも

からっぽなのだ。階下の人達が風呂に行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。

神よ嗤(わら)い給え。あざけり給えかし。

 あああさましや芙美子消えてしまえである。(*9)


 大学の入試試験だかの問題が新聞に載っていて、それをぼうっと眺めていたら林芙美子(はやしふみこ)さんの「放浪記」の一節が目に飛び込みました。昨年のことだったか、もしかしたら一昨年だったかもしれません。随分艶かしい中身と想っていたものだから驚いてしまって、その分記憶に刻まれました。今どきの高校生は誰もがこれを読んでいるものでしょうか。なんかとっても羨ましいというか、まぶしい感じがいたします。


 堕胎、私娼窟、複雑な家庭、貧困、言い寄る男、餓え、眠れぬ夜……。実際、生々しいお話です。手元にあるのは新潮文庫の第42刷、2002年のもので、年末に亡くなられた高峰秀子さんの映画を観たくなり、その前に原作にも目を通そうと買い求めたものです。おやおやと笑われてしまうでしょうが、この年になって始めて読み通しました。


巻末の小田切秀雄さんの解説によれば、1922(大正11)年から五年にわたって林さんが書きためたものが土台になっているとか。林さんが生をうけたのは1903年の暮れですから、十九歳から二十四歳頃の本来ならいちばん女性として華やかな時期の記録です。


 書くことで記憶を整頓し、思考を深め、気持ちを沈静させて明日へと繋げていく。そういう人は世の中にたくさんいて、僕が時折こうして向かってもいるブログの世界的流行が物語ってもいます。なんら不思議なことではない。けれども、五年分の“日記”を風呂敷に包んで木賃宿、下宿、場末の旅館、住み込みの狭苦しい部屋、同棲始めた一軒家と後生大事に持ち歩き、事あるごとにつぶさに書き綴ってきた林さんの執着には鬼気迫るものがあって、読んでいて圧倒されるものがあるのでした。書くことで救われるものがあったのでしょう、きっと。


 二十年後に発表された「第三部」は若干雰囲気が違いますが、1928(昭和3)年10月に雑誌に連載され、1930(昭和5)年に改造社より相次いで上梓なった一部と二部の方は混沌する彼女の日常と剥き出しの思いを実直に写し取ったところがあります。加筆や装飾、訂正の気配があまりない。赤裸々な食欲そして性欲、夢と希望が咆哮し荒れ狂う様は読むこちら側にじわじわ伝染するようであり、加えて挫折や打撃、絶望、猜疑や嫌悪という黒い部分も不意を討って胸底に跳び込む調子で相当に重いものとなっています。


若さゆえに文末ごと「ナニクソ」と奮起し、調子を直ぐに取り戻すのが救いといえば救いであって、これが三十や四十を越えてからの五年分の日記であれば相当違っていたろうと思われます。おかげで勇気を貰えたように感じています。


 生活の諸相を丹念に書きとめていくことで“味噌汁”の記述も面白いほど多い。さらに言えば独特の傾斜のそこに見止められそうに思えます。

(十二月×日)(中略)
「姉さん!十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
 大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
 労働者は急にニコニコしてバンコへ腰かけた。
 大きな飯丼(めしどんぶり)。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。(*1)

(十二月×日)(中略)
二寸ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。(*2)

(十月×日)(中略)
朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒(す)さんで、私はああと長い溜息をついた。壁の中にでもはいってしまいたかった。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりした自分の顔を見ていると、急に焦々(いらいら)してきて、唇に紅々(あかあか)とべにを引いてみた。(*3)

(十二月×日)(中略)
誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想はやっぱり古里へ背いて都に走っている。旅の古里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだけれど、なぜか侘しい気持ちがいっぱいだった。穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に坐っていると丹塗(にぬ)りはげた膳の上にはヒジキの煮たのや味噌汁があじきなく並んでいた。(*4)

(一月×日)
 暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮してみようかと思う……。(*5)

(一月×日)
 毎朝の芋がゆにも私は慣れてしまった。
 東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭の一片一片を身をはがして食べるのも甘味(うま)い。(*6)

(九月×日)
 もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなった。(中略)午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走っていった。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」
 上甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の袂(たもと)にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。あの人達は私が女である事を知らないでいるらしい。(*7)



 濁った、泥のような、あじきない、水っぽい──負の飾りにふちどられた味噌汁がずらり並んで怖い感じです。東京を離れてみて大豆臭の強い赤味ある味噌を懐かしく思い返す、そういう可愛らしい記述も一部あるけれど、全般的に宿る蔭はかなり暗めになっている。貧苦に喘ぎ、食費を削り、それでようやく口にするのが“味噌汁”ということで、ここでは明らかに貧窮の象徴として機能して見えます。


 朝起きて、小さな女中を相手に食膳をととのえ、昼は昼、夜は夜の食事から、米味噌の気づかい、自分の部屋の掃除、洗濯、来客、仲々私の生活も忙がしい。その間に自分のものを書いて行かなければならないのです。自分の作品の批評についても、私は仲々気にかかるし、反省もし、勉強も続けてはいるけれども、時々空虚なものが私を噛みます。(*10)


 第二部の終わりに林さんは“米味噌の気づかい”という言葉を挿し入れました。ヘンテコな言葉です。「放浪記」がヒットして文筆家の仲間入りを果たし、一軒家を構え、老いた親を養っていく。当時のまだまだ不安定な近況を語る中での“米味噌の気づかい”とは一体全体何か、僕は最初書き損じた箇所がそのまま残されたものかと訝りました。時折世話を要する“ぬかみそ”への気づかいならば分かるのです。“米味噌の気づかい”──なんでしょうか、この不思議な言葉。


実は林さんが味噌汁に固執していたからなんですね。朝食のほとんどを女中さんに任せていながら“味噌汁”だけは自分で作らないと気が済まなかった、そんな彼女の慣習に関わるものなのでした。生理的なものか精神的なものか僕には分からないけど、林さんは味噌汁を特別視している人だった。やや別格のものとして扱われている気がします。


 “味噌についての気づかい”を基点にして上に引いた苦しかった時分を再度振り返ってみれば、どの味噌汁も液面をきらきらと照り返らせ、ひとりの少女の受難をじっと見守っている、唇を噛み、涙を呑んで向かっていく真剣勝負の人間の、真摯な面(おもて)を見上げているようです。林さんだけではなかった。あの当時多くの日本人が味噌汁と共に喜怒哀楽を懸命に生きていた。希望と呪詛にまみれた味噌汁椀が家庭で、食堂で次々に傾けられていた、誰もがぎらぎらしていたそんな光景を脳裏に描き、襟を正さなきゃと真面目に思うのでした。

 
(*1):第一部 26頁(頁数はいずれも手持ちの新潮文庫のもの)
(*2):第一部 52頁
(*3):第一部 116頁
(*4):第一部 130頁
(*5):第一部 135頁
(*6):第一部 142頁
(*7):第二部 219頁
(*8):第二部 229頁
(*9):第二部 326頁
(*10):第二部 347頁
(*11):第三部 400頁

表題の年数1928は単行本化の前、雑誌に掲載され世間に公表された時点を選んだ。
ちなみに「放浪記」における醤油の記述は次の二箇所に絞られる。「味噌汁」というものがいかに魂に直結し、愛憎の対象となるか、この段差が静かに物語るように思える。

(三月×日)(中略)
 女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸を動かせる。
「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして、栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」(*8)

(九月×日)(中略)
 八重垣町の八百屋で唐もろこしを二本買って下宿に帰る。ダットのいきおいで部屋へ行き、唐もろこしの皮をむく。しめった唐もろこしの茶色のひげの中から、ぞうげ色の粒々が行列して出て来る。焼きたいな。こつこつ焼いて醤油をつけて食べたい。
 下宿の箱火鉢に紙屑を燃やして根気よく唐もろこしを焼く。(*11)

2011年1月8日土曜日

楊逸「獅子頭(シーズトウ)」(2010)~むやみに箸でかき混ぜた~



「ママと、あの、あの田所さんと、食事するのか?」(中略)

「するよ。よく一緒に食べに行こうよって誘われるけど。

僕も祖母(ばあ)ちゃんも断ってるの」

「へえ、すると、ママと田所さん、二人で食事?」

「そうだな。二人で行ってるんじゃない?」

鶏肉を頬張っている口から、若干曖昧になった言葉を出した。

 二順は顔を強張らせた。味噌汁のお椀を持ち上げ、むやみに

箸でかき混ぜた。白い豆腐が幾つも、平たく漂うわかめをかき分け、

わきあがった。それを唇も舌も経由させず、まっすぐ喉に注ぎこんだ。(*1)


楊逸(ヤンイー)さんの「獅子頭(シーズトウ)」からの一節です。2010年の2月より朝日新聞で連載されている小説ですが、ごめんなさい、僕はあまり熱心な読者ではありませんでした。ですから、この物語がどのような輪郭を持っているか、語る資格を全く持ちません。話せるのはこの回、それだけです。


中央にぽんと置かれた挿画に朱塗りの椀があり、白と深いみどり色の平行四辺形が薄茶の汁に浮いています。幕を下ろした後の舞台に落ちたまま捨て置かれた紙製の雪みたいに見えて、やや淋しげな風情です。ああ、豆腐の味噌汁だ。磁石に引き寄せられる砂鉄のようになって文字を追いました。実に細やかな描写がそこにあって、思わず溜め息が出ました。


二順(アーシュンと読むようです)という名の父親が、泊まりに来た息子の涼太のために夕食をこしらえます。めったに作らない純和風の献立です。涼太は喜んで箸を伸ばしていく。まだまだ子どもなのです。父親は息子の母親、どうやら別れた妻のことが気になり、口にしづらい質問をおずおずと切り出していくのでした。上ずる声の感じから父親の気持ちを酌み、息子は曖昧ながらも返答していく、そんな情景です。


焦り、震える胸中を代弁するように味噌汁の椀のなかで小型の嵐が突如発生し、具材がぐるぐる逆巻いています。味わい噛み締める余裕をもはや失くし、ぬるい液体がむなしく喉を駆け下っていく。その感じを僕たちはすっかり幻視、幻覚して、一瞬でこの男のやるせなさ、寂しさ、いくらかの嫉妬を自分のものとして深く共振するに至ります。


「やきもちを焼いているんでしょう?」

「やきもち?」

 慌てた二順は、手元にあった雑巾で鼻を拭いた。

「祖母ちゃんが言ってたよ。田所の話をしたら、

パパがやきもちを焼くかもよ、ってさ」

 涼太は得意げな表情で、両手で味噌汁のお椀を持ち上げ

ながらも、食べる素振りもなく、目をじっと二順の顔に据える。

 全くワンパクで賢くて困った子だ。二順は味噌汁のお椀で

顔を隠し、息子の視線から逃げた。(*1)


顔の前まで掲げ持たれる味噌汁の椀。具材を箸で口腔内へ導く間、口もとから鼻、目元までの表情を覆い、向き合う家族、恋人からの視線を避けて、魂の個室を一瞬だけ創出していく。その特質を見事にとらえ切った描写です。これは素敵過ぎます、唸るしかない。楊逸さん、おそれいりました。


ものを食べるという行為のいちいちでここまで踏み込んだものがあっては、きっと疲労困憊しちゃって料理の半分も喉を通らないでしょう。


けど、ときにはこういう時間、魂と料理が肌寄せ合うような得難い時間が人生にはめぐって来てもらいたい、そう心から願います。



どうか素晴らしい夕食を、そして、幸せな朝食を。

いい一日を、やさしい一瞬を。


(*1): 「獅子頭(シーズトウ)」 楊逸 2010 第254回より 私が読んだのは2010年12月29日の朝刊18面でしたが、大都市圏では夕刊に載っているようです。もしかしたら掲載日もずれている可能性があります。イラストは挿画を担当しておられる佐々木悟郎さんのもので、この回を飾っていたものです。旨味の利いた、美味しい絵ですね。ごちそうさまでした!

2011年1月4日火曜日

宇仁田ゆみ「うさぎドロップ」(2005)~びみょうなきもち~




りん「ダイキチー ごはんできたー」

────茶の間に布団を敷き寝ている大吉を、りんがゆさゆさと揺さぶる

大吉「うう~… うう~…」

りん「もうムリ 遅刻するって ダイキチ!!」

大吉「う~ん…」

りん「もう 大人のくせにちゃんとしてよ」

大吉「……… お前はアレだなー」

りん「何?」

大吉「ナリはアレだけど 中身はおばあちゃんみたいだなー

  朝っぱらからシャンとしやがって」

りん「もうっ ダイキチ ひとり暮らしの時 どーしてたの──!?」

大吉「それを言うなぁ──!! つーか先…食えばいーのに」

りん「やだ ひとりで食べるのキライ」

大吉「…… はいはい」

────ズルズルと座卓にいざり寄る大吉。りん、両手を合わせて拝んだりしている。

大吉、味噌汁椀を口に運んで

大吉「み…味噌汁がどんどんかーちゃんの味になっているような…」

りん「だってお料理 おばさんに教わってもらってるから」

────りん、大吉の手元に目を止めて

りん「ずぼら箸だめでしょー」(*1)


昨晩、人生で三度目の“お一人様映画”を体験しました。他に観客がおらずにたった一人でスクリーンを独占することです。一度目は子どもの頃に観た日本のアクション映画、二度目は昨年のことでイタリア貴族の末裔を題材にした家族劇、昨夜はロシアの文豪の晩年を描いた小品(*2)でした。


興行というのはなかなかに難しいものです。作品の質は決して悪くないのにこういう事が起きてしまう。けれど、劇場スタッフの方には申し訳ありませんが、150席ほどの中型のスクリーンとはいえ悠々と真ん中に陣取って遠慮なしに笑ったり呻いたりしながら音と光を満喫出来たのは、すこぶる贅沢な気分であって実に嬉しいお正月になりました。


これからの急激な人口減に対応するには思い切った工夫も必要かもしれないなと想像廻らせたりもして。どうせなら座席数を間引いて距離を置くとか、人工芝を敷いて寝転がらせるとか、大きなベッドをでんと設えるとか。恋人とふたりで手足絡めての映画鑑賞、わあ、なんて素敵。バカじゃねえ、正月から妄想全開かよ。


家族間の葛藤が物語の主軸となっています。壮絶で、けれど笑ってしまう夫婦喧嘩がこれでもかとばかりに延々描かれていく。食卓の皿が粉微塵に叩き割られ、銃声が鳴り響き、フォークが背中に刺さったりします。食わぬどころか怖がって犬もどこかに隠れそうな程もけたたましいのです。子供たちも互いに意見が衝突し、家族は空中分解寸前に追い込まれています。


考えさせられる内容で有意義な時間になりました。リアルな家族や親族というのは程度の大小はあれ、なるほどこういったモノでしょう。外貌、内実ともに複雑であり、錯綜する局面を折り挟んでいく。ほとんどの人は“しこり”を抱えて悶え歩むしかなく、丸い輪に閉じられた長谷川町子さんの漫画のように安穏と笑顔でばかりは暮らせません。


上に引いたのは宇仁田(うにた)ゆみさんの描く「うさぎドロップ」の一場面です。間違いなく長谷川さんとは違った様相の家族が息づいています。描線は手塚治虫さんの系譜のようで甘ったるい印象をやや受けますが、構成が七十年代の劇画を想わせて巧みだし、現実の捉え方にちょっと気合いが入って見えて僕は大いに注目しているところです。


頑固一徹な性格から子どもたちと距離を置き、ひとりで暮らしていたはずの祖父に隠し子があったことが死後になって発覚します。まだ6才の女の子なのですが、実母は育児を一切拒否してしまい拠り所を失ってしまうのでした。外孫で独身男のダイキチが見るに見兼ねて彼女を引き取ることになります。


血族ではありながら微妙な立ち位置にいる“りん”という娘は、僕たちの文化に根を張った平坦で軋轢のない家族像に投じられた一石です。波紋は円弧を為して広がり、周辺の人々を確かに揺らしていくのでした。男は慣れない子育てに取り組むうちに、これまで意識に及ぶことがなかった事柄に真向かうことになっていく。もともとしっかりした性格でしたが、より深慮のある男に育っていく。そんなお話です。


家庭の基盤を家族ひとりひとりの幸福にまず求め、全体よりも個人の自立や満足に主軸を置いて脱皮を繰り返すようにして世界をリライトしてみせる逞しい欧米文化と比べてしまえば、まだまだ湿度が高く飛躍に乏しい日本的な展開です。けれど、これまで茶の間を覆ってきた単層な世界観と比べるとかなりの成熟を感じるところです。


おにぎり、カレーライス、コロッケ、焼きそば、と、劇中に食べものがめまぐるしく登用されていますが、味噌汁はこれらと一線を画してコントラストのある意味付けが加えられていました。ややステレオタイプの使われ方(母の味)がされていますが、家族とは何か、暮らしとは何か、血族とは何かを問い詰めていく過程において、作者の宇仁田さんはあえて意識的にこれを描き込んでいる。


十年という歳月を一気に跳躍させて、六歳の幼女はすっかり大人びた身体つきに育っています。第二部の開幕なのでした。おばあちゃんみたいにシャンとして、母親の味付けを踏襲して見せた“りん”という娘は、傍目にはすっかり家族に融け込んで見える。


そう見えるけれど、そう単純ではないんだと宇仁田さんは言いたいのでしょう。


物語とは僕たちに代わって僕たちの内部に巣食っている対立したり矛盾する価値観を引き出し、ぶつけ合い、考えさせる実験装置です。宇仁田さんは味噌汁でもって寄せる波を送り、その後では世界が氷結するような引き潮の場面を挿入してみせます。ふたつの抗う波の狭間に立つ登場人物の行き着く先が、はたしてどのような場処であるのか僕には想像出来ませんしハラハラしながら見守るしかありません。ダイキチと“りん”の間に置かれた味噌汁は波間に置かれた浮き標となって、境界はここだよ、君はあちら側、それともこちら側、どっちに来るつもりなのと尋ね続けているように見えて、確かに“びみょう”な顔付きなのです。


(*1):「うさぎドロップ」 宇仁田ゆみ 2005年より『FEEL YOUNG』(祥伝社)に連載。
上に引いたのは25話の冒頭部分で単行本第5巻に所載。奥付によれば2008年6月号に掲載されたものらしいが、ここでは連載開始時の2005年にて紹介しています。
(*2): The Last Station 監督 マイケル・ホフマン 2009