2011年1月4日火曜日

宇仁田ゆみ「うさぎドロップ」(2005)~びみょうなきもち~




りん「ダイキチー ごはんできたー」

────茶の間に布団を敷き寝ている大吉を、りんがゆさゆさと揺さぶる

大吉「うう~… うう~…」

りん「もうムリ 遅刻するって ダイキチ!!」

大吉「う~ん…」

りん「もう 大人のくせにちゃんとしてよ」

大吉「……… お前はアレだなー」

りん「何?」

大吉「ナリはアレだけど 中身はおばあちゃんみたいだなー

  朝っぱらからシャンとしやがって」

りん「もうっ ダイキチ ひとり暮らしの時 どーしてたの──!?」

大吉「それを言うなぁ──!! つーか先…食えばいーのに」

りん「やだ ひとりで食べるのキライ」

大吉「…… はいはい」

────ズルズルと座卓にいざり寄る大吉。りん、両手を合わせて拝んだりしている。

大吉、味噌汁椀を口に運んで

大吉「み…味噌汁がどんどんかーちゃんの味になっているような…」

りん「だってお料理 おばさんに教わってもらってるから」

────りん、大吉の手元に目を止めて

りん「ずぼら箸だめでしょー」(*1)


昨晩、人生で三度目の“お一人様映画”を体験しました。他に観客がおらずにたった一人でスクリーンを独占することです。一度目は子どもの頃に観た日本のアクション映画、二度目は昨年のことでイタリア貴族の末裔を題材にした家族劇、昨夜はロシアの文豪の晩年を描いた小品(*2)でした。


興行というのはなかなかに難しいものです。作品の質は決して悪くないのにこういう事が起きてしまう。けれど、劇場スタッフの方には申し訳ありませんが、150席ほどの中型のスクリーンとはいえ悠々と真ん中に陣取って遠慮なしに笑ったり呻いたりしながら音と光を満喫出来たのは、すこぶる贅沢な気分であって実に嬉しいお正月になりました。


これからの急激な人口減に対応するには思い切った工夫も必要かもしれないなと想像廻らせたりもして。どうせなら座席数を間引いて距離を置くとか、人工芝を敷いて寝転がらせるとか、大きなベッドをでんと設えるとか。恋人とふたりで手足絡めての映画鑑賞、わあ、なんて素敵。バカじゃねえ、正月から妄想全開かよ。


家族間の葛藤が物語の主軸となっています。壮絶で、けれど笑ってしまう夫婦喧嘩がこれでもかとばかりに延々描かれていく。食卓の皿が粉微塵に叩き割られ、銃声が鳴り響き、フォークが背中に刺さったりします。食わぬどころか怖がって犬もどこかに隠れそうな程もけたたましいのです。子供たちも互いに意見が衝突し、家族は空中分解寸前に追い込まれています。


考えさせられる内容で有意義な時間になりました。リアルな家族や親族というのは程度の大小はあれ、なるほどこういったモノでしょう。外貌、内実ともに複雑であり、錯綜する局面を折り挟んでいく。ほとんどの人は“しこり”を抱えて悶え歩むしかなく、丸い輪に閉じられた長谷川町子さんの漫画のように安穏と笑顔でばかりは暮らせません。


上に引いたのは宇仁田(うにた)ゆみさんの描く「うさぎドロップ」の一場面です。間違いなく長谷川さんとは違った様相の家族が息づいています。描線は手塚治虫さんの系譜のようで甘ったるい印象をやや受けますが、構成が七十年代の劇画を想わせて巧みだし、現実の捉え方にちょっと気合いが入って見えて僕は大いに注目しているところです。


頑固一徹な性格から子どもたちと距離を置き、ひとりで暮らしていたはずの祖父に隠し子があったことが死後になって発覚します。まだ6才の女の子なのですが、実母は育児を一切拒否してしまい拠り所を失ってしまうのでした。外孫で独身男のダイキチが見るに見兼ねて彼女を引き取ることになります。


血族ではありながら微妙な立ち位置にいる“りん”という娘は、僕たちの文化に根を張った平坦で軋轢のない家族像に投じられた一石です。波紋は円弧を為して広がり、周辺の人々を確かに揺らしていくのでした。男は慣れない子育てに取り組むうちに、これまで意識に及ぶことがなかった事柄に真向かうことになっていく。もともとしっかりした性格でしたが、より深慮のある男に育っていく。そんなお話です。


家庭の基盤を家族ひとりひとりの幸福にまず求め、全体よりも個人の自立や満足に主軸を置いて脱皮を繰り返すようにして世界をリライトしてみせる逞しい欧米文化と比べてしまえば、まだまだ湿度が高く飛躍に乏しい日本的な展開です。けれど、これまで茶の間を覆ってきた単層な世界観と比べるとかなりの成熟を感じるところです。


おにぎり、カレーライス、コロッケ、焼きそば、と、劇中に食べものがめまぐるしく登用されていますが、味噌汁はこれらと一線を画してコントラストのある意味付けが加えられていました。ややステレオタイプの使われ方(母の味)がされていますが、家族とは何か、暮らしとは何か、血族とは何かを問い詰めていく過程において、作者の宇仁田さんはあえて意識的にこれを描き込んでいる。


十年という歳月を一気に跳躍させて、六歳の幼女はすっかり大人びた身体つきに育っています。第二部の開幕なのでした。おばあちゃんみたいにシャンとして、母親の味付けを踏襲して見せた“りん”という娘は、傍目にはすっかり家族に融け込んで見える。


そう見えるけれど、そう単純ではないんだと宇仁田さんは言いたいのでしょう。


物語とは僕たちに代わって僕たちの内部に巣食っている対立したり矛盾する価値観を引き出し、ぶつけ合い、考えさせる実験装置です。宇仁田さんは味噌汁でもって寄せる波を送り、その後では世界が氷結するような引き潮の場面を挿入してみせます。ふたつの抗う波の狭間に立つ登場人物の行き着く先が、はたしてどのような場処であるのか僕には想像出来ませんしハラハラしながら見守るしかありません。ダイキチと“りん”の間に置かれた味噌汁は波間に置かれた浮き標となって、境界はここだよ、君はあちら側、それともこちら側、どっちに来るつもりなのと尋ね続けているように見えて、確かに“びみょう”な顔付きなのです。


(*1):「うさぎドロップ」 宇仁田ゆみ 2005年より『FEEL YOUNG』(祥伝社)に連載。
上に引いたのは25話の冒頭部分で単行本第5巻に所載。奥付によれば2008年6月号に掲載されたものらしいが、ここでは連載開始時の2005年にて紹介しています。
(*2): The Last Station 監督 マイケル・ホフマン 2009

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