2011年1月25日火曜日

ケン・ラッセル「狂えるメサイア」(1987)~僕が喜びを感じなければ~


僕は好きで彫ってる

それが喜びだ

僕が喜びを感じなければ

人に喜びを与えられない

これがミソだ(*1)


フランスの彫刻家Henri Gaudierさんの伝記映画を見ました。1900年代初頭のパリが舞台です。


背に腹はかえられないと贋作工房で働いていた若い絵描きが、図書館で年長の女性とめぐり合い心を通わせるうちに一念発起します。ふたりは同棲を始め、道端に捨てられた野菜クズで腹を満たし、半地下の穴倉のような劣悪な住環境をひたすら耐え忍んで創作に打ち込むのでした。ようやく画商に認められて個展の話が舞い込み、寝る間も惜しんで作品を彫り終えたのですが、折からの世界大戦、ドイツ軍侵攻に矢も盾もたまらず従軍してあえなく死んでしまうのです。


大衆の反応は必ずしも好意的ではありませんでした。会場の隅でひとり遺された恋人は滝のように涙し、映画は鎮魂を祈るように男の作品ひとつひとつを実に丁寧に写し撮りながら厳かに幕を下ろします。わずか二十三歳、駆け抜けるような人生でした。


ひたすら前進する若者に合わせて台詞は噴水のようにほとばしり、人物描写はかなりエキセントリックで時に爆発的です。今では英国女王、ロシア文豪の妻まで演じるようになり、当代一の女優と謳われさえするヘレン・ミレンさんも当時の先鋭的な女性役で出ていますが、闘志満満のまなざしと豪気あふれる肢体を画面にぶつけるように立ち回り、見事に圧倒してくれて実に嬉しかった。


まぶしい思いで最後まで観終えました訳でしたが、途中ちょっと驚かされたのは字幕に映った「ここがミソ」という言葉なのでした。ヒアリングに自信がない僕には何と言っているか分かりませんけれど、元々の台詞はもちろん違ったものです。


製作されたのは1972年ですが、日本で公開されたのはずっと後の1987年です。その時点で翻訳されたものか、それともさらに何年か経てのビデオ発売の折に付されたものか分かりませんけれど、パリの空の下で展開する劇空間で“ミソ”が突如現われたのは妙にこそばい感じがしました。あくまで翻訳の域のことで本来の物語とは隔絶した現象なのであって、ことさら取り上げるのは滑稽なことかもしれません。

 
もちろん批判的に僕は捉えているのではなくって、大いにその滑稽を楽しんでもいる、今だったら翻訳者はこのフランスの若者に「これがミソだ」と言わせたものだろうか、今だったら観客はその言葉をすとんと胃の腑に収め得たものだろうかと思案が加速するのです。夜を徹してノミを振るい、真白いトルソをカツンカツンと彫り進めながら「これがミソだ」とつぶやく紅毛碧眼の若者──むむむ、ちょっと無理そうだなあ。


先に紹介したように村上春樹さんも翻訳において「そこがミソ」を採用していました。推察するに村上さんの作業は1990年頃と考えられますから、この「狂えるメサイア」の公開(字幕作成)と年代的に符合しています。 “違和感”を醸成するための計算付くの表現として、村上さんがあえて奇妙な「そこがミソ」を使ったのかと僕は思ったのだったけれど、こうして両者並べて見れば“時代”が為せるものだったとも思えてくるのです。


今の世の中でどれだけの人が「これがミソだ、そこがミソよ」と口にするんだろう。子供たちはどうそれを聞くんだろう。二十年という歳月が僕らのこころの中の“ミソ”の立ち位置をいかほど変えたものか、このような些細な事からも類推することが出来そうじゃないかしらん。そんな風に固着して捉えて、寒空の中でぼうっとあれこれモノオモイに耽っているところです。


いよいよ空気は澄んで月が妖しく綺麗です。

充実した、楽しい夜をまったりと過ごしてください。

(*1): Savage Messiah 監督ケン・ラッセル 1972 日本公開の1987年を表題には添えた

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