2011年1月27日木曜日

林芙美子「晩菊」(1948)~溜息だけをつかせてはならない~




 田部は、思い出に吊られて来るだけだ。昔のなごりが少しは

残っているであろうかと云った感傷で、恋の焼跡を吟味しに来る

ようなものなのだ。草茫々の瓦礫の跡に立って、只、あゝと溜息

だけをつかせてはならないのだ。年齢や環境に聊(いさ)さかの

貧しさもあってはならないのだ。慎み深い表情が何よりであり、

雰囲気は二人でしみじみと没頭出来るようなたゞよいでなくては

ならない。(中略)茶の間へ行くと、もう、夕食の膳が出ている。

薄い味噌汁と、塩昆布に麦飯を女中と差し向かいで食べると、

あとは卵を破って黄身をぐっと飲んでおく。(*1)


林芙美子(はやしふみこ)さんの「晩菊」からの一節です。


五十を越えたおんなの目線で描かれています。毎夜寝入りばなに、追憶にふけるのを楽しみとしています。若い時分には器量の良さが評判となって、絵葉書に刷られたこともあるのです。華やかな男性遍歴を振り返りあのひとはこうだった、この男はああだった、ひとりふたり、さんにん、よにんと指折り数えながらそっと夜をまたいでいくのでした。


未練や後悔といったものが芽吹かない、穏やかで重心の低い日々を無理なく重ねているところです。世間からも異性からも距離を置いて、今は町なかの一軒家に気の置けない女中とふたりして隠棲していたのだけど、そこに昔いい仲だった男が突然訪問したいと言ってきたものですから、いつになく気ぜわしい朝になってしまいます。


人間として、またおんなとして決して弱味を見せる訳にはいかない、湯に浸かり、身体を清め、丹念に化粧をしながら過去と現在を内観する時間がしとしとと過ぎていく中で、怪訝、警戒、懐かしさ、晴れがましさ、色めく想い、愛着、男に対してのそんな思いもはらはらと乱反射していく。


結局のところ男の来訪は金の無心が目的でありました。悠々と年輪を重ねて完成の域に達したおんなと魂を萎縮させてしまった男が、ゆるゆると火鉢の上を立ち昇るタバコの煙を挟んでじっと対峙しています。同じ年数を経ていながらまるで違った体臭を匂わすふたりが冷徹な筆致で描かれていくのでした。


確かに重苦しい内容です。けれど、読後感は不思議と爽やかでしたね。おんなのまなざしを通じてくっきりと“成長”が描かれているからでしょう。いまの僕の年齢も関わっているのでしょうが、読んで良かったとこころから思える作品でした。


さて、“味噌汁”ですが、これは男を出迎える寸前に登場しています。野菜、豆腐、わかめ──何が入っていたものかまるで判然としません。具材が視野からすっかり追いやられ、ただ「薄い」とだけ“強調”されています。先に紹介したように林さんは味噌汁を魂に直結させるひとですから、このちょっとした形容だって伊達ではありません。



これから訪れるだろう再会を非常な緊張をもって臨んでいる、そんな切羽詰ったおんなの胸中がここでの朝食によって見事に代弁されているように僕は読みました。 削りに削った末に鋭さがいよいよ増した木串のような、とても硬い気配が膳のあちこちから漂っています。日常の習慣と見せて、実は味わうゆとりをおんなは無くしている、その気分を官能レベルで支えているということでしょう。瑣末な事象まで目を配り、人物の造形を全方位から築いている。良質の物語に共通する繊細で緻密な織り込みが素晴らしいですね。


ひとは無防備と軍装の狭間を揺れ動きながらひとと出逢ってしまい、さまざまな思いを経てやがて別れていくものでしょうが、この時のおんなは微妙な揺れの端境にいる。戦装束に身を包まれているのだけど、それは錦綾なす装飾に彩られて傍目にも艶やかなのです。こころの臨戦態勢をぐいっと後押しするための“薄い味噌汁”が、おんなの白い喉元を駆け下っていきます。身体の芯がさっと洗われるようです。


覚醒、興奮をつかさどるこの役回り、現在はコーヒーや栄養ドリンクが担っているものでしょうか。しかし“薄い”コーヒーや“薄い”栄養剤ではひさしぶりの逢瀬は闘えないでしょう。恋路の果ての“薄い味噌汁”、なかなか興味をそそる現象なのです。





寒い日が続きます。

“薄い味噌汁”はまず置いといて、濃厚な、熱い味噌汁を呑んで、元気にお過しください。



(*1):「晩菊」 林芙美子 1948  手元にあるのは講談社文芸文庫 第10刷

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