あるとき、ある人が、
「フランス人にとってのワインは、日本人の味噌汁のようなものだそうですね」
と、私に言った。
チーズ(フロマージュ)は、漬物に相当するとかねて考えていたので、
その言葉を聞いて、「なるほど」とおもった。(*1)
欧米の“ワイン”に拮抗し得るものが仮に日本にあるとすれば、それは“味噌汁”ではなかろうか。そう書いていたのは吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)さんでした。
なかなか嬉しい発想。けれどあらためて読んでみると途中から靄(もや)がかかったような面持ちになっていき、結論は持ち越されて実にあじきない。カウンターで軽妙な会話が始まったと耳を澄ませていると、あれよあれよと言う間に呂律が回らなくなっていく、そんな感じ。
しかし、それを解説しようとすると、難しいことになってきて
十分に説得力をもたらすことができない。(中略)パリへ行ったとき、
その都市で六年暮らしてフランスの女性と結婚した日本人青年に
質問してみたが、十分納得できる答は返ってこなかった。(*1)
精神世界に占める位置や役割を例証していくことは難儀な話です。そもそも魂なんてものは主観に踊らされて違って見えるのは当然だし、特に相手が“ワイン”ともなれば背景にあるものが大き過ぎて知識も時間も到底追いつかない。決着は一生かけても付かない。吉行さんが途中からもにゃもにゃとはぐらかすのも仕方ないのです。
僕とて同じ。味噌なり醤油なりの淡い残り香をそっと後追いするに留めて、努めてのんびりした気持ちで歩みたいと考えています。
もっともこんな弱気は先日観た映画(*2)のせいもあるのです。直訳すれば「ワイン醸造家の運」という原題のニュージーランドとフランス合作による小品だったのだけど、ワインをめぐる文化の深々とした淵を垣間見た思いです。
ナポレオン帝政の頃のフランスが舞台です。貧しい小作農の家に生まれた主人公が熱意と才覚から老地主に見込まれ、ワイン造りの頭領に抜擢されます。葡萄の品種を選び、土を改良し、製法にも独自の工夫を凝らしていくうちに香味は徐々に深まって首都でも名の知られた存在になっていくのでした。もちろん苦労も生半可なものではありません。台風や寒波が容赦なく襲い、家族や仲間を次々に病魔が襲います。葡萄畑にも病害虫が忍び寄りして、主人公と彼を取り巻く人たちは幾度となく奈落の底に突き落とされていくのでした。
それだけでは通常の劇の展開に過ぎません。しかし、途中からこりゃ変だぞと気付くのです。未開の荒野で奮闘する(ありがちな)大河ドラマのつもりで眺めに行ったのでしたが、いやいやどうして気安い映画じゃありません。認識を新たにしてシートに座り直しましたね。
後半部分では醸造家のてっきり想像、こころの友と思っていた“天使”が実体化し、あろうことか両の翼をむしり取って領主、農民たちと共に畑作に精を出し始めるのです。驚いたなあ。この物語が歴史をなぞる絵巻物でも紅涙しぼる目的の苦労譚でもなく、生きて現世に惑う者へ指針を示そうとする心理劇だったとようやく分かってきました。
その事をより端的に表すのが一瞬だけ目を射抜く本の存在です。調べてみればウイリアム・ブレイクの詩篇なのです。(*3) これまで何がしかの答えを暗中模索する風だった物語は、ブレイク出現を機に雰囲気を一変します。混迷と煩悶を在るがままに甘受していく覚悟を決め、諦観の重たい想いを湛えながら美しい幕引きへと奔り出すのでした。
生きる限りにおいて情念の肥大し、爆発的な瞬間の訪れるのは自然なことと潔く肯定して見せる。その上で、酒造場内の混乱や衝突といった清濁入り乱れる背景すべてを含めての“もの造り”と、其処で産み出されていく“雑味のあるワイン”に心からの賛辞を惜しまない。貼り付く聖なるレッテルを一気呵成に引き剥がして、 人もワインもときに迷っていいのだ、狂っていいのだと断じている。
ワインひとつでここまで風呂敷を広げていく作り手にも驚くけど、人と葡萄酒の間で延々と続く交歓の様子が羨ましい。血となり肉となり、とろとろに溶け合っているようで、我らが味噌汁とは幅も奥行きもけた違いという感じがするのです。
こんなゾクゾクする、そして慰撫される映画をデートの一環で観ている欧米諸国の日常って、つくづく大人のものなんだと思います。それこそ“熟成なった”文化を覗いた気分。僕たちの何十年も先を歩いている余裕が感じ取れる。
この列島に住まう者としては、とりあえず足許をせっせと掘り進めるしかないですね。掘り進んだ先の先、いつかブルゴーニュの大地まで突き抜けたときには吉行さんの言葉を僭越ながら接いで“味噌汁”と“ワイン”の共通点でも話そうかと思います。
予告編を貼っておきましょう。ちょっと眠くなる箇所もあるけれど、良い時間でしたよ。
皆さんのところのお天気はどうですか。
こちらは蒼い空がとってもとっても胸に沁みる感じです。
少しずつ春に向かっている感じがします。
寒風に負けず、口角あげてお過ごしください。
(*1):「葡萄酒とみそ汁」 吉行淳之介 1975 初出「ザ・ワイン」(読売新聞社) 単行本「石膏色と赤」(講談社 1976)、「吉行淳之介全集 第13巻」(新潮社 1998)他所載
(*2): The Vinters Luck 監督ニキ・カーロ 2009
(*3): The Marriage of Heaven and Hell William Blake 1793
以下のページで読むことが出来ます。(挿画はなし)劇中、朗々と声高に自己主張するのではなかったけれど、本の中身に目を通してみれば物語の主題に重なっているのが解かります。 http://www.longtail.co.jp/mhh/
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