2011年2月21日月曜日

桐野夏生「ポリティコン」(2007)~何となく箸を付けるのが~


「東一、朝ご飯かねの?」

ヤイ子が東一を認めて顔を上げた。手拭いを姉さん被りにして、

モンペズボンにゴム長靴。厚着で膨れ上がった体に割烹着を

着けている様は、どう見ても農家の主婦だ。(中略)

「いや、食った」

東一は、二匹の犬の頭を交互に撫でながら、嘘を吐いた。

味噌汁と飯と干し魚と漬け物。東一が生まれてから一度も、

朝食の献立が変わったことがない。今朝は何となく箸を

付けるのが嫌になって食べなかったのだ。(*1)


“文化度”の低いところには住めそうもない、そう明言するひとがいます。文化に対する尺度は人それぞれ違うでしょうが、言わんとする所はよく分かる。一度味を占めてしまうと、人は快適さや刺激を手放せない。音楽や芸術、読者やスポーツ、その他に付随する“心地好さ”を綺麗に捨て去ることは相当に困難であるし、風が吹き抜けずに淀んだままの世界では息が詰ってしまって享楽は存分に得られない。ひとは魂にも身体同様、美味しい食事を与え続けなければなりませんが、そのためには環境はとても大事。


桐野夏生(きりのなつお)さんの新作「ポリティコン」を読みました。都会に生まれ育った高校一年生の娘“真矢”の周辺環境が激変します。大人たちのトラブルに巻き込まれて緊急避難を余儀なくされ、東北の寒村に引きずられるようにして連れてこられるところから物語の幕が開くのです。村は大正の時期に先鋭的な“文化人”たちが理想郷を夢見てスタートさせた“実験農場”であり、食べることと芸術活動に没入出来る環境を築かんとこれまで苦闘を重ねてきたのでした。有形無形の“食事”にまつわる物語です。


もはや時代からも地勢的にも隔絶してしまい、住民の多くは高齢にもなって、村は見た目にも精神的にもひどく疲弊しているのでした。淀んでのっぺりした大気に侵されているのみならず、さらに間が悪いことには直情的な若い男が暴君と化して手が付けられなくなっていく。“文化度”が低いなんてもんじゃなく、壊滅寸前なんですね。 少女の飢餓感が切々と伝わってきます。


“文化”という衣服を剥かれて裸となった老若男女が村のあちこちで衝突を重ねていく様は、単純であるだけに生臭さは激烈です。混沌とした状況に、さらに地べたをのたうつが如き方言が重く纏わり付いていく具合は、ただもう悲しくって悲しくって誰でも逃げ出したくなる程です。口あんぐりの滑稽な展開がこれでもかと続いていき、モデルに選ばれた実在の地域に住まう読者などは憤然として声を荒げるか、ぐったりと打ちひしがれて高熱を発し、もしかしたら二、三日寝込んじゃうかもしれない。


けれど、時世によく寄り添ってナルホドと頷かされる警句が時おり弾けて爽快だったし、切れ味よく、新たなみずみずしい断面を呈してみせる世界観はやはり桐野さん独自のもので大いに呻らせられるのでした。勇気付けられる箇所もたくさん在ります。


物語を貫くのは荒ぶる一組の男女の十年間に渡る魂の軌跡です。農村に連れてこられた薄幸の少女“真矢”は忍従を強いられながら、やがて一気に芽吹くようにして峻烈さを増していき、困難な事態を猛然と生き抜いていく。ひとつの人格の巣立ちや成長を申し分なく描いていて、随分と胸に迫るものがありました。


登場人物をハハハ、とあざけるつもりが即座に照り返って、己の内奥に潜んでいる欺瞞や臆病さを白く浮き上がらせる瞬間も多々あり、クリアな幻視を誘う舞台描写もいつにも増して巧みで刺激が強く、どうにも止められずに一気に読み終えてしまいました。桐野さんが主導される理想郷(実験農場)に入村し(放し飼いされ)、短い期間ながらも学ばせてもらった、そんな気分ですね。充実した読後感がありました。

上に引いたのは村の描写が始まって間もない部分です。自給自足を目指すこの村は米と鶏(にわとり)、それにほんの少しの野菜ぐらいしか作っていませんから、どうしても食生活が単調になりがちです。味噌だって自家製のものを仕込んでいると書かれていますから、毎日の食卓に味噌汁は避けがたく並んでしまうものなのでしょう。


これまで迷いも疑問もなく親を始めとする年長者を手伝ってきた“東一(といち)”という若者が、生まれてから一度も変わったことがないこの朝食を拒絶しています。味噌汁は若者を呪縛するものとしてここでは登用されて、そっと僕たちと思いを共振させていく。情欲を持て余し、支配欲に目覚め、ほかの男たちと己の腕力や胆力を絶えず天秤にかけては戸惑い、呻き悶えている若者の尖った感じがよく伝わってきます。


真矢と、彼女とともに逃亡してきた異国のおんなの入村を機に東一のタガはとうとう外れてしまい、かろうじて守られてきた村の均衡ががらがらと崩壊していくのでした。猫の目のごとく変わっていく状況に合わせて、食卓の光景もまた様々に変幻していく辺り、桐野さんらしい繊細且つダイナミックな綾織りです。ついつい五感は踊らされてしまい、ざわつく臨場感に最後まで包まれてしまいました。(*2)



(*1):「ポリティコン」(上下) 桐野夏生 文芸春秋 2011 
奥付によれば初出は(第一部)2007年8月~11月 週刊文春、(第二部) 2009年1月~2010年11月 別冊文藝春秋にいずれも連載 引用は上巻54頁より
(*2):例えば村内でサボタージュが起きると、たちまち味噌汁は陰を潜めて「真っ黒な醤油の汁を張った肉うどん」なんかが登場するのです。世界をここまで細かく構築出来る人はなかなかいないですよね。見事だなあ。

0 件のコメント:

コメントを投稿