2010年12月30日木曜日

石井隆「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」(2010)~層が交互に重なって~


今秋10月に公開された石井隆(いしいたかし)さんの映画(*1)のなかに、巨大な石切り場が登場していました。僕たちの五感はなんとなく大きな建築物に対し麻痺したようなところがありますよね。高層ビルディングが身近にそびえ、日々テレビジョンを通じて雲を突き破らんばかりの鉄塔を見せつけられる世の中です。しかし、この映画で映し出される場処(劇中“ドゥオーモ”と呼ばれる)は、つい身を乗り出させる強烈なものがみなぎっていました。奇観にして壮麗、空虚にして厳粛、またずいぶんと不思議なところを見つけたものです。


天井までの高さが30メートルにも達するこの狂気じみた空洞は、当然ながらどこもかしこも同質の岩で成り立っています。さまざまな要求(効率性、防燃性、見栄え、そしてもちろん経済性)に応える余り、複合素材が骨やら肉やら血管のように絡み合う現代建築に慣れ切った僕の目には、もうそれだけで衝撃がありました。


加えて陶然としてしまうのは、広い天井を支えて見えるいくつもの柱です。いや、柱という概念を超えた厚みと大きさであって、けれど“壁”とも言い難く、独特の存在感を主張してあちらこちらに佇立しています。禍々(まがまが)しいというか霊的なものを想起させる面体(めんてい)をしている。石井さんは神や仏を前面に据えた劇を作らない人なのだけど、作り手の深意はどうあれ宗教的空間としての起動はもはや避けがたく、柱の手前で繰り広げられる陰惨な行為の数々が否応なく祭祀的な光彩を帯びていくのです。一見の価値ある迫力の映像です。


映画のなかでは味噌も醤油も見当たりません。いや、台所に確かPET容器に入った醤油が置かれていたような──まあ、いいでしょう。特別な思いは託されてはいません。ここで取り上げた理由は石切り場の生い立ちが“ミソ”と関わりがあるからです。以前訪れた砕石に関する道具や資料を展示する場所で、次のような展示プレートが飾られていて吃驚しました。ちなみにその資料館はかつて採石場だった場処を改装した作りになっています。


ミソの層 

この坑内は、下図のようにまず垣根掘りで山に横穴を掘り、そこから

平場掘りで柱を残しながら地下を掘り進めました。(中略) 

きれいな石の層と、「ミソ」と呼ばれる茶色の塊を含む層が交互に重なって

います。上記の採掘法をとることにより、ミソの層を残し、きれいな

石の層だけを採掘できるようになりました。現在地はきれいな石の層の

採掘跡で、天井にはミソが確認できます。


斜面の腹にまず穴を穿ち、そこから採掘を開始します。横に横にと掘っていくと見た目に良くない石の層(ミソと呼ばれる部分)にぶつかります。その部分は商品価値が低いので掘らずに残して迂回し、きれいな石の層だけを掘り進めていく。横に掘り切ったら、今度は下へ下へと掘り下げるのですが、ミソを含んだ部分は層となって集中していますから、先に迂回した箇所のその下にも同じようにミソが大量に眠っていると考えられるわけです。結果的にまたもや迂回して残されていく。


だから、この洞窟空間の成り立ちは徹底して上から下であって、地上から地下へ延々と掘られ続けた結果なのです。大きな柱と見えたのはミソを避けた部分の集積である訳ですね。一層二層と掘り下げるに従い、同じ箇所のみ放っておかれた結果、そこが柱のように見えていく。通常柱は下から上へ伸び上がって天井を支える役割を果たすのだけど、ここでは氷柱(つらら)のように下へと伸びたのが実際のところ。日ごろ見慣れた建築技法とは真逆の進みようで、想像すると眩暈を起こしてクラクラします。もちろん天井を支える役割を担ってもいるのだろうけれど、迷路のような回廊の生い立ちにミソが関わっていた、というのはちょっと愉しいですね。


映画のスチールに目を凝らせば、竹中直人さんや佐藤寛子さんの駆け回る背後の白い壁に、手の平でずりずりとなすり付けられたような赤い帯が走っているのが確認出来ます。血痕のようなあの印象的な筋こそが“ミソ”だったのです。


明治期から黙々と過酷な労働にいそしんできた職人たちが“ミソ”をどのような思いで見てきたものか。金にならない無駄なものとして苦々しく見ていたのか、それとも“クソ”と呼ばないだけ愛着があったものか。それはよく分かりません。きっと良い思いを抱きはしなかったことでしょうね。


彼らは芸術を意識した訳でもなく、祝祭空間を神に献じた訳でもありません。家族を養い、日々の糧を得るためにヘトヘトになって働いていただけです。しかし、その結果としてこのような壮大な空間が後に遺されていき、訪れた今日(こんにち)の人の目を釘付けにしていく。機械化が十分でなかった頃から毎日数十センチメートルずつ掘り進められていき、ここまでに至った空間には畏怖を、そして先人たちへの尊敬の念を深く抱くばかりです。


仕事であれ、家庭であれ、それに愛情であれ、総じて人の営みとは似たり寄ったりの成り立ちのような気がしています。何かを為し遂げようと遠大な計画を胸に抱いてみても、毎日のそれは大概地味でほんのちょっとの採掘に過ぎない。ミソにぶつかれば悔しいかな無理な迂回も余儀なくされて、汗のみ流れるばかりで実入りはない。


下に下に掘り進めば、切り出したものを上に運ぶ手間も増えるばかりだし、いよいよ地中に潜っていって濃い闇に包まれるばかり。崩落の恐怖もふつふつ沸いても来る。けれども、ふと振り返って見て、ようやくそこで自分の道程がなし得た結果に驚く。


振り返った場処に広がる空洞を虚しいと見るか、それとも充実と見るか。もはや価値のない廃坑と見るか、それとも魂のことを語るカテドラルと見るのか。僕は後者であると信じたいですね。


間もなく新しい年の幕開けです。さらに洞窟を素晴らしい息吹で充たしていきましょう。

どうか良い年をお迎えください。


(*1):「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」 監督 石井隆 2010 

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