2010年12月1日水曜日

平岩弓枝「女と味噌汁」(1965)~忘れられなくってね~



「そんなに亭主をとられるのが怖かったら、とられないように

ダンボール箱にでも入れてしまっといたらいいんだわ。

妻だ、妻だって、えらそうにいうけれど、妻なんてなによ、

ご亭主からしぼれるだけ金をしぼり取って、女であることを

売り物にしてるんなら芸者とどこが違うのよ……。

自分の亭主が他の女のアパートに泊まって、熱い味噌汁を食べて……

こんなうまい味噌汁食ったことがないなんて言わせておいてさ……。

あんた、恥ずかしくないの……。同じ値段のお茶を、熱湯で煮出し

ちまって……うまいものをまずくして飲んでるような、むだだらけの

暮らしをしてさ、それで、なにが主婦よ……なにが妻よ……

馬鹿馬鹿しい……妻なんて女の屑じゃないの……」(*1)


 いやはや……。文庫本の奥付を見ると昭和61年2月の第11刷とありますから、買い求めてから二十年もの間放っておいたことになります。先日劇場で目にした映画(*2)で先入観をすっかり洗われたこともあり、とうとう読了いたしました。


 若かりし日、数頁読んだところで本棚に仕舞ってしまったのはひとえに僕の経験値の低さ(花柳界も男女の秘め事も、夫婦の倦怠も老いに対する不安も、そして仕事に関する鬱積も実感していなかった。まあ今でも知らないことは多いけど──)が原因なのですが、そこかしこに過剰に作り込まれた感じがあって鼻白むというか、何か論点をはぐらかしているような妙な乖離感がぬぐえずに物語に没入出来なかったせいもある。今回はそれを面白がる余裕も育っていました。なんせ二十年、それなりに堆積するものはあった訳だね。


 酒席で接客する女性がいて惚れる男がいる。互いに夢を描くようになりますが、周囲がそれをかたくなに許さない。ありがちな状況の中に作者の平岩弓枝(ひらいわゆみえ)さんは味噌、日本茶、漬物といった“伝統食”や下駄といった“職人文化”へのまなざしを導入するのでした。


 いざなぎ景気で街の様相がどんどん変わっていく。次々と洋風化する中で見捨てられつつあるそれ等を懸命に言葉尽くして擁護する訳なのだけど、もちろん此処での“古き良きもの”は意図的に登用されているのであって、主人公の “芸者”という職業と二重写しになるよう寄り添っている。そのたくらみは分からないでもないし面白いけど、やや空転気味というか、強引な感じを受けます。破綻まではいかないけど、空中分解気味の顛末が多い。


 こんな場景があります。“てまり”こと室戸千佳子が自宅のアパートにいると、茶色のスーツに身を固めたおんなが一人訪ねて来ます。先日泊めてやった男、桐谷の妻なのでした。睨み合いと言葉の応酬(最上段はその一部)の末にどうなったかと言えば、千佳子が苦労人であることが分かり、味噌汁や日本茶をうまく出すコツを伝授されると「あなた、えらいわ」「奥さんていい人ね」と「二人は顔を見合わせ、眼の奥で笑った」後ですっきりとお別れするのでした。う~む、とっても不思議。


 対する男たちも奇妙な言動を繰り返します。「こんなうまい味噌汁ははじめてだ」(*3) 、「死んだ女房も味噌汁のうまい女でね……」(*4)、「姉さんの作った味噌汁の味が忘れられなくってね……」(*5)。無理やりに男とおんなを味噌汁で接着して見えます。探せば世の中にはそういう輩もいるのかもしれないけど、なんかやだなあ、そんな言葉普通は出ないよ。僕個人の目からすればかなり異常な事態です。人間の魅力はさまざまであるから、もしかしたら味噌汁一杯でめろめろに酩酊させ、足元にひれ伏させる魔術を体得したおんなもいうかもしれないけど、ちょっと苦しい展開だよね。


 祖母に教わった「お茶のおいしい入れ方……味噌汁のおいしい作り方」が自身の肌に合い、朝も夜も「おいしいんですもん」と味噌汁を作り続ける千佳子なのだけど、泊めてやる男たちに思いのほか好評なのを自覚していくにつれて勢いづいて行きます。「この男も、やっぱり同じことを言った」(*6)と内心してやったりと思うにとどまれば自然なのだけど、「どこの家でもパン食みたいな簡単な食事するらしくって、男の人、みんな味噌汁やおいしい御飯に飢えてるって感じよ」(*7)と解析を深め、ライトバンを改造した味噌汁屋を遂には始めます。「味噌汁は私のとっときの技術ですもの、生きる砦ですからね」、なんて啖呵も切ってしまう。


 実行力はひたすら眩しいし、このような不景気であれば大いに見習うべき迫力。でも、「私、いま味噌汁屋をやっているんですけど、結構お客さんあるのよ、日本人はやっぱり日本の味が忘れられないんじゃないかしら……」(*9)と、そこまで風呂敷を大きく広げられてしまうと何か薄気味悪くさえなるのです。おんなひとりの外貌以上の大きなものを平岩さんは見極めようとしている。


 足掛け十五年に渡って回を築いた池内淳子さん主演の同名テレビドラマが物語るように、僕たちはこの芸者“てまり”を中心とする人情劇がどうやら大好きです。特定の年齢性別に支持されての結果でなく、家庭全体として好ましく思って次の展開を待ち望んでいた。誰も拒絶しようとは思わない。誰も不思議と思わない。


 その背景に何があるのかを“味噌汁”を軸にして捉え直してみれば、なんとなく輪郭が定まるものがあります。たとえば、家庭という日常を離れてめくるめく情事を夢見ながら、その相手には家庭(母親、祖母)の味をいつか求めてしまう男たち。そういう乳児さながらの思考ゆえに簡単に手玉に取れる存在と男を見取っていくおんなたち。そのように不甲斐無い自らの様子を呆れ顔で受容するおんなたちを、さらに利用しようと増長する男たち。


 たとえば、時代の流れのなかで劣勢に陥ったものを無条件に愛してしまう日本人の判官贔屓の凄まじさとおんなたちの血から血へ滔々と流れ続ける慈愛の能力。味噌汁、日本茶、漬物といった伝統食を愛する人間を単純に好ましい相手と感じる排他的で籠もりがちな思考回路。


 たとえば、外界と家庭との境界杭である味噌汁に飽きてしまった者と夢を抱く者とで綱引きが起こり、結果的にぼやけていく境界線。恋情の根が世界を跨いであちこちに拡がることを断罪できずに受忍に走っていく曖昧な国民性。


 日本人特有のエロスが味噌汁椀のなかでコロイド状となって上になり下になりしながら舞っているような、そんなイメージが湧きます。そんな意味では奇妙で知的、刺激的な官能小説だったと思うのです。


(*1):「女と味噌汁」 平岩弓枝 1965 初出は「別冊小説新潮」 手元にあるのは集英社文庫 1979(第11刷) 最上段の千佳子の言葉は33頁にある。
(*2):「女と味噌汁」 監督 五所平之助 1968 映画版は原作のエピソードをうまく組み上げているだけでなく、交わされる会話もほぼそのままだったことが分かります。上段のスチールも。
(*3):集英社文庫 6頁 以下すべて同じ文庫本より
(*4):96頁
(*5):115頁
(*6):6頁
(*7):37頁
(*8):41頁
(*9):168頁


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