朝飯は茶の間に用意されていた。味噌汁のほかに、生卵が
一個と焼海苔が添えてあるというような、当たり前の食事である。
最初の日は、女が傍にいて飯のおかわりをよそってくれた。
薄い白い膜のかかっているようにみえる眼で、黙ってじっと
羽山を見ている。(中略) 十日ほど経った朝、茶の間に降りてゆくと、
卓袱台(ちゃぶだい)に茶碗が二つと吸物椀が二つずつ置いてあった。
箸を見ると、一つは羽山の使いつけのものである。
「今朝は、あたしもご一緒しますわ」
と、女が言った。(中略) 不美人とはいえない。むしろ目鼻立ちは
整っているといってよい。ただ、全体が澱んでいる。
「よろしいでしょう」
念を押すように、女は言って、卓袱台の前に座った。吸物椀をとり
上げて、ゆっくりと味噌汁をよそった。
薄く切った四、五片の胡瓜(きゅうり)が、味噌汁の上に浮かんで
いる。胡瓜の味噌汁を食べるのは、はじめてのことではない。
冬瓜(とうがん)のようなはかない味がする。
「夏のあいだに、一度はこれを食べておかなくてはいけないわ」
椀を口の高さに持ち上げ、湯気のむこうで細く眼を光らせて、女は言う。
「なぜです」
「こうしておけば、いいことがあるの」
初耳のことだったが、どこかの地方での習慣かもしれない。
「いいことって、どういう」
「…………」
「つまり、夏負けしない、とかいうようなことでしょう」
「それもあるけど、いいことが……。だから、今朝は
ご一緒させていただいたのよ」
厭な予感がしてくる。(*1)
ちょうど厄年といいますから、42歳になったのらしい“羽山”という小説家が主人公です。夜の銀座をそぞろ歩き、面貌、性格の異なる女性たちを花に見立てて蝶みたいに翔んで回る。吉行さんらしい元気なお話ですね。「やっぱり、女とのつき合いは、ほどの良いのが結局のところは楽だ」(*6)と考え、「稀に、両方の心に相手にたいする興味が動くことがある。そういうとき、その女にかかわり合いを持つとどうなるか、だいたい見当が付く」(*7)。
情が移っていくことを警戒して「ニヒルを決め込む」(*4)ことに決め、「女の部屋に入ったことがない」(*3) 。「これまでは、おおむね無難に過ごしてきた」(*7)──そんな男が羽山です。「部屋には、台所があるし、その女の生活している日常的な気配が漂っている。そういうものは沢山だ」(*3)そうです。末尾の解説によれば、わが国を代表する経済紙を飾った連載小説だとか。時代だな、と思います。
物語自体は巧妙な造りをしていて楽しく読み終えました。上記に引いたのは羽山が小説家に転進するずっと前の若い時分、民家の二階に下宿していた折の回想です。大家は羽山と同年輩のおんなで、一階に独りで寝起きしています。それが女郎蜘蛛のようにして初心(うぶ)な羽山にずり寄っていく。ぼわぼわと妖しげな光を放つ“食べもの”が続々と給仕されていき、笑えるけども実に怖い描写になっている。
恋情や欲情に付随して“食べもの”が面持ちを変えていくことは往々にしてあり、卑近な例をあげれば手作りのケーキやチョコレート菓子、弁当が極端な変幻を遂げることがありますが、これをもっとエスカレートさせた展開が羽山を襲撃して大いに笑わせてくれる。最後まで僕は物語世界に踏み込めず、男たちや彼らと関係を持つおんなたちに気持ちを預けることはならなかったけれど、“食べもの”の、さらには“味噌汁”の描かれ方はなかなかの味があり感心することしきりでした。 “こころ”と直結していて堂々たる面立ちです。
こんな場面もあります。こちらは現代(七十年代)の東京。
「とにかく、めしを食いながら話を聞くことにしよう」
二人は、銀座にある馴染みの関西料理店に入っていった。
日本料理のコースは、つき出し、刺身、吸物、焼物……、
とすすんでゆく。刺身を食べおわったとき、川田が註文した。
「赤だしをください」
「それは最後でいいんじゃないか。白子の白みそ椀くらいが
いいとおもうがなあ」
羽山がそう言うと、川田は首を横に振って、
「でも、赤だし」
「料理の順序はどうでもいいようなものだけどね、
なぜ赤だしを急ぐんだ」
羽山はふしぎな気がして、たずねた。
「はやくまともな味噌汁が飲みたいんだ」
「なぜ」
川田は言い淀んだが、
「今朝、ひどい味噌汁を飲まされてねえ」
「どんな」
「どんなって、まるで塩水を生ぬるくしたみたいな……」(*2)
経理一切を任している会計士にして親友である川田が、会食の席で羽山に対しこっそり打ち明けています。薄気味の悪い味噌汁を毎朝飲まされ続けている事実。浮気を疑う川田の妻がじめじめと変調していき、日ごと夜毎の料理がグロテスクさを増していくのです。とても怖くて忘れられない味噌汁がざぶりと盛られ、ゆらゆらの湯気の向こうでおんなの瞳がじっと男を見据えている。
「不機嫌な気分で料理したものは不味い」(*5)ものと羽山は論理的に解析してみせるのだけど、僕ら読者とすればもう理屈で納得出来るものじゃありません。口腔や鼻孔に気色の悪い違和感がむにゅむにゅと広がって、ひいっ、げえっ、と悲鳴も洩れる瞬間です。なんとも凄絶な味噌汁があったものです。
人が人を愛することは尊いことですが、時に盲動が加速して止めようがなくなります。その逆もしかり。人が人を疑いはじめると五感が狂っておかしなことが続発する。確かにそうかもしれませんね。いわんや殺気立ち、忙殺される年末においてをや。お互い気を付けましょう。
これが今年の締め括りかしらん。皆さん、どうか善い年をお迎えください。こころ穏やかに、新しい真白い蝋燭のぼうっと灯るみたいにしゃんと立って、キンと冷え込む夜気のなかを元気にしっかりお歩きください。滑って転ばないように。
来年も楽しく語り合えることを、心から願っております。
(*1):「怖ろしい場所」 吉行淳之介 初出は「日本経済新聞」(夕刊)の連載小説 1975(昭和50年)1~8月 手元にあるのは新潮文庫版 6刷 1979のもの。以下の頁数はこれによる。70-72頁
(*2):96-97頁
(*3):208頁
(*4):222頁
(*5):307頁
(*6):315頁
(*7):214頁
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