2010年12月24日金曜日

泉鏡花「眉かくしの霊」(1924)~魔が寄ると申します~



「裏土塀(うらどべい)から台所口へ、……まだ入りませんさきに、

ドーンと天狗星(てんぐぼし)の落ちたような音がしました。

ドーンと谺(こだま)を返しました。鉄砲でございます。」

「…………」

「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでござい

ましたお姿が見えません。提灯も何も押っ放(おっぽ)り出して、

自分でわッと言って駈(か)けつけますと、居処(いどころ)が少しずれて、

バッタリと土手っ腹の雪を枕に、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。

(寒いわ。)と現(うつつ)のように、(ああ、冷たい。)とおっしゃると、

その唇から糸のように、三条(みすじ)に分かれた血が垂れました。

 ――何とも、かとも、おいたわしいことに――裾(すそ)をつつもうと

いたします、乱れ褄(づま)の友染が、色をそのままに岩に凍りついて、

霜の秋草に触るようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す

縮緬(ちりめん)が、氷でバリバリと音がしまして、古襖(ふるぶすま)から

錦絵(にしきえ)を剥がすようで、この方が、お身体を裂く思いがしました。

胸に溜まった血は暖かく流れましたのに。――(*1)



記念館の解説ボランティア(確かMさんと仰られたはず)に「白鷺(しらさぎ)」の幽霊の鮮やかさ、淋しさを諭されて俄然興味が沸いてきて、「新鑿(しんさく)」「尼ヶ紅」「貸家一覧」「吉祥果」「国貞ゑがく」「紫手綱(むらさきてづな)」、そして、前述の二作と読み進んでまいりました。


流麗そして哀憐、ときに猟奇に色づく泉鏡花(いずみきょうか)さんの創作宇宙。物語を追うにつけ、こころの奥にまどろむ炭火にふっと息を吹き込まれた具合になります。ぼうっと胸底が熱くなり、一杯の水を渇するがごとく次の本を手に取ってしまう。


──本来そういうのって、十八前後の若い時分の状景でしょうね。折り曲げた両腕をふっくら優しい胸もとで交差させ、鏑木清方(かぶらぎきよかた)さん装丁の「鏡花全集」、古色滲ますそのうち一冊を後生大事といった感じにひしと抱え込んでキャンパス内を闊歩する、そんなうら若い娘さんたちの姿が目に浮かびます。


僕みたいな風体の者が読んで語っていくのは、だから相当にずれた行為かもしれない。けど、なんだろう、この齢になったればこそ深々と胸に迫る場面もあって、また実際に励まされもしたのです。おどろおどろした妖怪ものも見事だけれど、そこに合縁奇縁、愛執染着(あいしゅうぜんちゃく)の横糸がなよやかに絡んでいくと、もう駄目です、とても逃げられない。


読書や映画、絵画に風景、それに“人”もそうかもしれないけど、邂逅といったものは不思議と訪れるべきときに訪れるように見えます。ある一篇なんかは誰か、いや、人知の及ばぬ“ナニモノカ”からの僕への伝言にさえ想えてしまい、わんわん響いて今も余韻に浸っています。“運命”や“宿命”という想いは判断を曇らせ、妙な水域に流されてしまう危惧もあるけれど、そういった不思議な導きはきっと誰もが感じるものでしょう。勇気付けられる一瞬だし、ほんとうに嬉しいものです。守護されている、今がそのときという気分。──読めて良かったとしみじみ思いますね。


さて、上に引いたのは「眉かくしの霊」の終幕間際の部分。お艶というおんながひとりうらぶれた村にやって来ます。愛する男(これがヘタレでどうしようもないのが、よりおんなへの哀惜を誘うのです)の汚名を晴らそうとするのだけど、想うところあって村の古池の淵に住まうという、得体の知れぬ妖女“奥様”の面影を真似た化粧にいそしむのでした。それが祟って猟師の村人に撃たれてしまい、哀れ悲願果たせず死んでいくところです。


 撃ちましたのは石松で。――親仁(おやじ)が、生計(くらし)の苦しさから、

今夜こそは、どうでも獲(え)ものをと、しとぎ餅で山の神を祈って出ました。

玉味噌(たまみそ)を塗(なす)って、串にさして焼いて持ちます、その握飯には、

魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では

人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。

桔梗ヶ池(ききょうがいけ)の怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと

臥打(ふしう)ちに狙いをつけた。俺は魔を退治たのだ、村方のために。と言って、

いまもって狂っております。――(*1)


 山の神に捧げることで狩猟の無事と成功を祈る“餅”がおもむろに登場しています。間もなく家のあちこちで始まるだろう本格的な樽仕込みに備えて、軒先にぶらぶら吊るされていたものでしょうか、糀(こうじ)菌が薄っすらと表面を覆っていたかもしれぬ“味噌玉”が手元に引き降ろされ、餅の白い肌をぺたぺたと茶に汚していく。さらにはずいずいと串に刺し貫かれて火にあぶられていきます。ところどころ無残に焼け焦げたそれが、結果的に魔物(神)を招来してしまう。


 化け物に相違なかろう“池の奥様”の面相をおんなが真似たは戯れではなく、おののかせると同時に人を圧倒し感動もさせていくその美しさと神々しさをなんとか借りて、自分と愛する者の将来のために一世一代の勝負に出ようと必死だったからです。(化粧という行為が本来秘めている原初的、祝祭的なものが強調されてもいますね。)偶然か必然か、“食の呪(まじな)い”によって今やナニモノカに支配された男の銃口に倒れ、“化粧の呪(まじな)い”を施したおんなはすすっと血を吐いて事切れていく。二通りの呪術が闇夜に激突している。凄絶な展開です。


 神仏を表わす石塔、石像に味噌を塗りつけることで平穏安泰を願う風習が、そう多くはありませんが日本各地に残されています。七五三の千歳飴、正月の鏡餅、三々九度の盃、冬至かぼちゃ──。思えば食べ物と呪術はとても近しい間柄にあるのですが、現代に生きる僕たちはもうほとんどその効果を信じておらず、形骸化した慣習となって悪戯に目前を過ぎていくばかりです。


 僕のなかでも同じであって、味噌に呪術的な色彩を覚えることは終ぞありませんでした。鏡花さんのこの悲恋物語で土着的な荒々しさを体現した“味噌玉”が突如現われ、魔物を招呼して、懸命に生きてきた、生きていこうとするおんなの息の根をずんと止めてしまったその悪役ぶりとまがまがしさに心底息を呑んだのでした。


 幽玄の世界と現実の境界にここでの味噌(玉)は佇んでいて、これまでとは違った灰色の影をまとっています。とても刺激的な登用であったと思うのです。だってどうです、もはや僕たちの生活を飾る味噌汁は無表情ではいられない、そんな風じゃありませんか。なんとなく椀の中からじっとこちらを見上げて、僕たちの気持ちをまさぐっているみたい。味噌汁とは、もしかしたら相当に怖いものかもしれません!


 あ、今夜は聖夜ですね。ワインやスープが食卓を飾るのでしょう。きっと味噌汁の出番はないでしょうね。メリークリスマス、みなさん穏やかで暖かい夜を。善きナニモノカを身近に呼び寄せ、こころ静かに楽しくお過ごしください。


 いい夜を。


(*1):「眉かくしの霊」 泉鏡花 1924 僕が読んだのは集英社文庫版
   写真はこちらの方のブログから拝借しました。勝手にごめんなさい。
http://www.ktmchi.com/2005/1204_05.html

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