2010年12月4日土曜日

福田靖「龍馬伝」(2010)~醤油の値も上がって~


龍馬「いや、けんど、こんな野菜はわしゃ京でしか見たことがないぜよ」

スミ「その野菜は今が旬どすさかい」

新助「こんな野菜は近くの畑で採れるさかいよろしゅうおすが、

塩や米の値がいっこうにさがらへん。塩や米の値が下がら

へんと醤油の値も上がってしもうて、お客さんが来はら

ねんようになってしもうた」

スミ「何時になったら元のように落ち着くのどすやろか」

龍馬「もうすぐじゃ、もうすぐじゃけ。さあ、喰おう喰おう」(*1)


 吃驚しましたねえ。こんな柔和な気配を湛えた“近江屋(おうみや)”は空前絶後じゃないでしょうか。


 福山雅治さん演じる坂本龍馬が、身に迫り寄る危険を察して潜伏しています。一説には地方から京都に移り住み活動の拠点を置く者の多くが藩邸の窮屈さを嫌い、歓楽街近くの商家を間借りして住み着いたそうであり、龍馬も単にその一人に過ぎなかったという話もあります。いずれにしても町家の二階で寝起きをしている。



闇のなか黒々と怖ろしげに見える木の階段をじっと仰ぎ見るところから近江屋の描写は始まっているのでしたが、この不自然で執拗なアングルが僕たちに無言で示しているのは何かと言えば、その見上げる先が血なまぐさい殺戮の現場に間もなくなってしまうという哀しい予兆と共に、仮住まいとする階上から龍馬の方がいま“降りて来て”おり、家主(町人)たちの居住空間に混じり込んでいる、ということですね。むしろ後者の方が強調されている。


 行燈(あんどん)の鈍い光にぼうっと浮かび上がる薄暗い空間にカメラがゆったりと進んでいくと、男たちの笑いさざめく声が聞こえてきて、ちょうど食事の最中なのだと分かってきます。龍馬の傍らには商人然とした若い男が座っていて、どうやらこれが当家の主である(近江屋)井口新助のようです。一緒に食事をしている、ここがなにげに凄い。


 用心棒兼世話役の籐吉も加わって車座を組み、くだらない話で座を和ませながら旺盛に箸を動かしていく。目クソが出るのが目尻ではなく目頭というのは字義からすれば反対じゃなかろうか、名付けが間違いじゃないか、と馬鹿話でえへえへ笑っている龍馬に対し、なんと座に加わっていた町人然とした若いおんなが咳払いをして、さらに続け様にやはり着座していた五つ六つぐらいの男の子が「食事の席でなんだ」と龍馬を叱責する。うわっ!


 厳然たる身分社会にあって、こんなにも近しく武士と庶民が膝交え食事をする光景は全くもって稀有なことなのに、なんたる暴言。無礼を働いた町民は即座に斬って捨てられても文句の言えない時代です。僕個人がこれまで植え付けられた感覚においては“ありえない光景”に見えます。


 エンドロールを懸命に目で追えば、井口新助と共にいたのはどうやら妻のスミであり、また男の子は彼ら夫婦の間にできた子どものようです。龍馬の話し相手となって館の当主だけが食膳を共にするならば分かるけど、そこに妻と世間の道理のまだ分からぬ子どもまでもが並び座って、“侍”に対して同等の口をきいている様子は近江屋の場景としては画期的と言っていい。



 近江屋新助が政変による市況混乱に由来する原料穀物のインフレーションについて愚痴をこぼし、それを呑み下した龍馬が一呼吸おいてから噛み締めるようにして「もうすぐじゃ」と返答するくだりも、これまでには見られなかった驚くべき変容でしょう。念のいったことには、場面転換後の別な屋敷内において市場安定の急務を龍馬は熱心に説いてもいる。新助の口から飛び出た先の不満をさらり聞き流すのでなくって、生真面目に酌んで己の思案に重ねていたことが分かってくる。


 例えば以前ここで取り上げもした映画「竜馬暗殺」(*3)ではどうだったかと言えば、隣接する商家の物干し台を借りて望遠鏡で自宅の様子をうかがう新助が描かれていました。政争と世の混乱を絶好の機会と捉えるしたたかな商人の一面を見せていましたし、庶民全般が冷ややかな視線をもってなりゆきに注目していたことを如実に表わしてもいて見事なエピソードです。大きな湯釜の上層で煮え返る熱湯と底に溜まった冷水のように層を隔てた間柄として両者は描かれていたのですが、そのような厳然たる乖離はこれまでの近江屋では当然のかたちであったように思えます。


 実際はどうであったかは知らないし、どのような風景が作劇上正しいかも分かりません。けれど、近江屋という舞台がようやく“個性”を付されてまっとうに呼吸し、人の住まう環境、ものを作って売るというありきたりな生活の場になれたことがちょっと嬉しく思われるのです。直接にそこに在った“醤油”に言及し、それが坂本龍馬の五感にどのように響いたかは依然として先送りにされて内実は変わりませんけれど、一歩だけ屋内に踏み込んでみせた感のある脚本家福田靖(ふくだやすし)さんの仕事については記録に価すると感じています。


(*1):「龍馬伝 最終回 龍の魂」2010年11月28日放映 脚本 福田靖 演出 大友啓史
(*2): 近江屋新助/東根作寿英、スミ/星野真里、新之助/武田勝斗
(*3):「竜馬暗殺」 監督 黒木和雄 1974 

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