2009年7月22日水曜日

尾辻克彦「裏道」(1990)~こんなものなのか~




やはり意地もある。その導入に際してあれほど渋い顔をしたのに、

簡単にいい顔はできない。むかしマルクス、レーニンを神様みたい

に崇めていた人が、そう簡単に自民党には投票できない。それにまだ

小さいとはいえ犬であるから、自分の原始からの犬の恐怖も温存して

いる。しかしそんなことも長い時間の間には、少しずつなし崩しに、

角砂糖がコーヒーに溶けていくように、味噌の固まりがお湯に溶けて

味噌汁になっていくように、ちょっと例えは唐突だったが、私も犬を

引いた家人のそばを、ぼんやり駅までついて行ったのである。ああ、

味噌汁として溶けていく味噌の気持ちはこんなものなのかと、私は

裏道から見渡す凸凹(でこぼこ)の大地が、巨大なお椀のように感じられた。(*1)


蒸し暑い夜になってきました。暑気払いに威勢のいい曲でも流しましょう!



よく語られる話のひとつに、血液の塩分濃度と味噌汁のそれがほぼ一致するというのがあります。なるほど血液中の塩分0.9パーセント前後という数値は、味噌汁の塩加減と並んでいるのです。書籍なりインターネットの記述には、体内の浸透圧を保とうとする本能が嗜好を左右して、知らず知らずのうちに調理の塩梅(あんばい)を操作しているのではないか、というまことしやかな理屈も付されたりします。ふ~む、なるほど。言われてみればそういう事があるかもね……。


でもでも、冷静に考えてみればですね、これはずいぶんと極端な言い回しです。人間の好みとする塩加減は、洋の東西を問わずにそんな大差ないはずですよ。何も味噌汁に限ったことではなくって、あちらの○○スープ、こちらの○○汁だって計れば似たような数値が出そうな気がします。それに“本能”なんてコワモテのものを持ち出された日には、あらゆる食品が雪崩打って同じ塩加減へと移行していいはずです。


人間は刺激を求める動物ですから、体温とそっくり同じ温度の飲料や食べ物を嫌うものです。塩加減だって似たものにすべて統一されたら、悲鳴をきっと上げるに違いないのです。しょっぱいカフェオレや塩辛いペプシNEXは開発されることはないし、誰も求めはしない。偶然の一致に過ぎないでしょう。


そのようにあっさり身をかわしておきながら変ですが、血と味噌汁の交差するイメージにはちょっと惹かれるものがあります。袖にすることを許さない“何か”が潜んでいます。味噌汁は血液と同じなんだよ、と告げられたなら、するりと咽喉を取って胃の腑に落ちる。ああ、やっぱりそうよね、その通りよね、と安心してしまう。ふんふんと頷きながら大きな知恵を授かったような気分になる。それって、何故でしょう。よくよく考えれば不思議な話ではありませんか。



先日の文中にて僕は、いくらか隠微なものに触れてしまいました。人格を怪しんだひともきっといたでしょう。もちろん僕を呪縛する煩悩によるところも多分にあった訳ですが、実はそれだけではない。思考の域を侵すに止まらずに皮膚の内側の、より体腔的でより生理的なものに変化やネジレをもたらしているのが“味噌汁”じゃないか、と僕はずっと睨んでいるのです。 綺麗ごとでは済まないのです。


ですから、世間で下劣と嫌われる語句やエロチシズムを臆病に回避しては、存分に味噌汁を語り切ることは出来ないのです。(あれ~、なんか言い訳っぽいぞ~~。)アハハハ、やっぱり苦しいですね、ちょっと(笑)。でもね、味噌汁は確かに僕たちの血と混ざり溶け込んで、胸の奥の洞窟までひたひたと押し寄せているに違いないと思いますよ。


そんなことを喚起させるものが冒頭で引いた小説家、尾辻克彦さんの作品です。ストーリーで惹き付けるというよりも、この人の場合は“調子”で読者を魅了していくところがあります。俗人は絶対に立ち止まらない瑣末なモノや行ないを前にして、あてどなく悶々と思考していく様が可笑しくって、ついつい声に聞き入ってしまうところがあります。 (*2)


裏道脇の斜面の奥にひろがる雑木林に、誰かがいつの間にかダンボール箱を置いていきます。そこには生まれて間もない仔犬が捨てられている。主人公“私”の妻と娘が無断でこっそり仔犬を連れ帰って飼い始め、既成事実がどんどん幅をきかせて、大の犬嫌いの私も散歩の役目を担わされていく。そんな日常の情景が淡々とした調子で写し取られています。


妥協や迎合といった“負”の(言葉を選べば“優しさ”に見合った)心持ちを“お湯に溶けていく味噌”にここでは例えています。さらに作者は踏み込んで“味噌の気持ちはこんなものなのか”といった突飛な表現をして来ます。“私”と“味噌”は同等の位置にあって、一瞬ではあるものの、味噌には生きているかのごとき人格まで付与されてしまう。


このような大胆な表現もまた、僕たちは左程の違和感を持たずにあっさり受け止めてしまえる。それをとても不思議で面白いと僕は感じるのです。やはり僕たちの血には“味噌汁”が混じっている、そんな感じがしてしまうのです。




さてさて現実に戻って。いかがでしたか日食、きれいに見れましたでしょうか。僕のところは曇り空。束の間ではありましたが愉しみましたよ。鋭利な角をふたつ具えた忍者手裏剣のような真白い太陽が、薄くたなびく雲越しに認められました。しばし童心に立ち返れて嬉しかったですね。気のせいかもしれませんけど、しきりにガアガアとカラスが騒いでうるさかったです。


そうそう、原題を「日食」というアラン・ドロンとモニカ・ヴィッティ主演の映画(*3)がありましたが、その主題歌も耳の奥で鳴り続けておりました。(最初に貼り付けたものですね) 



僕のそばにはパニックに陥ったアフォなカラスしかいませんでしたが、こんな太陽を大切な誰かと手を繫いで仰ぎ見れたら、きっと素敵でしたでしょうね。


そういう時間に、どうですか皆さん、なりましたでしょうか?(笑)


(*1):「裏道」 尾辻克彦 初出 「海燕」 1990年5月号 「出口」 講談社 1991 所載
(*2):昔々「闇のヘルペス」というタイトルで単発のラジオドラマが放送されたことがあったのですが、あれも尾辻さんの原作を脚色したものでしたね。僕はその録音テープを随分と繰り返し聞いて愉しみました。主演は岸田森(きしだしん)さんと草野大吾(くさのだいご)さん。ああ、お二人とも亡くなってかなり経ってしまいました。男の色香とペーソスに溢れたほんとうに見事なセッションでした。まさにあの感じが尾辻克彦さんの調子なのですが、何となく分かるひとには分かってもらえるでしょうか。
「闇のヘルペス」 1981年5月9日放送
(*3): L'ECLIPSE 「太陽はひとりぼっち」 1962 監督ミケランジェロ・アントニオーニ

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