2009年8月16日日曜日

斎藤茂吉「味噌歌十首」(1906)~聖(ひじり)~



 ふる里の ふる里人は あやしかも
   
   畑の豆より 甘き味噌つくる

 いにしへは 酒を聖(ひじり)と 歌ひけん
    
   われは味噌をし ひじりと言ふ可し



 東京帝大医科大学に入学した斎藤茂吉さんがその翌年の1906(明治三九)年、学芸の手ほどきを受けた郷里のお寺の住職へ向け手紙をしたためました。その頃茂吉さんは二十四歳の計算になりますね。ふるさとの味噌を東京へ送ってあげようという和尚さんの厚意に対して、謝意に添えるかたちにて味噌を題材とする十首が読まれました。(*1) 上に掲げた二首は、そのなかから僕が勝手に選ばせてもらったものです。


 この歌人ゆかりの寺院に足を運んでまいりました。正月と盆の年に二度、それも各々一日限り公開されている「地獄極楽の図」を一目見たくって、これまでずっと機会を伺っていたのです。歌人はこの十一幅の生々しい絵に影響を受け、後に「赤光」(*2)に収められた有名な十一首を作っています。盂蘭盆には似合いですから、書き写してみましょう。


浄玻璃(じょうはり)にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ

飯(いひ)の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口(えんく)のおどろくところ

赤き池にひとりぽつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ

いろいろの色の鬼ども集りて蓮(はちす)の華にゆびさすところ

人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ

罪計(つみはかり)に涙ながしてゐる亡者つみを計れば巌(いはほ)より重き

にんげんは馬牛となり岩負ひて牛頭馬頭(ごずめず)どもの追ひ行くところ

をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ

もろもろは裸になれと衣(ころも)剥ぐひとりの婆の口赤きところ

白き華しろくかがやき赤き華赤き光りを放ちゐるところ

ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下(お)り来るところ



 広いお堂のなかでたった独り、四十分ほども返し返し凝視することとなりました。上の白黒の写真は図書館から借りた本(*3)から写させてもらったものですが、ほの暗いお堂のなかで見る実際の絵は美しく、深くこころを魅了するものがありました。贅沢な時間です。


 ひざまずいて顔を寄せ亡者や鬼の表情や肌を読み取り、立って離れては全体像を楽しみました。血を噴き、こん棒でつぶれた身体が無残です。鬼達は色とりどりに丁寧に塗られ、生き生きと仕置きにいそしんでいます。檀家らしき家族連れが現れてようやく一人きりの時間は終ったのですが、鬼哭啾啾たるリアルな地獄の光景に息を呑むまだ小さな娘さんに、因果応報を怖がらせることなく、やさしく笑いながら諭す若い父親の様子もまた微笑ましくって、まるで
絵画のようでした。

 足裏と膝に当たる畳表の感触も心地良く、時折近くの線路をタタタタ、と奔る列車の音も異次元じみて可笑しかった。


 そうそう、別な柱には赤子を抱く凄まじい顔つきのおんな幽霊の絵も!妖しげな薄い緑色の鬼火が地を這い、そこからまばゆい紅蓮の炎がぶわり生まれて燃え盛ります。その中に歯を剥いてすくと立つ痩せたおんなの白い姿。真黒く長い髪が乱れてわさわさと肩に落ちている──。ひゃあ、ステキ過ぎます!




 下段の写真は携帯で撮らせてもらったものです。ピントが合っていないように見えますが、実際の画像はそうではありません。帰り際に住職さん(若住職さん?)にブログ掲載の可否を伺いましたところ、茂吉さんを大事にしたいから遠慮してもらいたいとの仰せだったのです。もっともな事だと思われます。そこでフィルタを何重にも掛けてぼわぼわに崩してあります。


 光線の具合が尋常でないのがお分かりになりますでしょうか。闇にのっそりと浮かぶような具合です。これは掛け軸の背後が外に面した障子戸だからです。夏の陽射しを白い紙越しにステンドグラスのように背負っているので、より幻想的な光景が広がっています。宗教的な雷撃に打たれるほどではなかったですが、やはりこういう特別な光と影には弱い体質です。あれこれ想いをこらす濃密な時間になりました。


 罪の重量計が亡者の生前の行いを計測しています。僕のこれまでの罪はどのぐらいでしょう。もはや鬼たちも持ち上げられない程にも重く育ってしまったかもしれません。いっそ地獄の底をぶち抜くぐらいの重さにしてしまったら良いのでしょうか。────茂吉さんの歌った最後の二首には救われますね。ダンテの「神曲」を思い出します。



 さて、今回取り上げた“味噌”の歌は、そんな「地獄極楽図」と同時期に作られた初期の作品です。ただただ郷里のひとたちへの感謝をかたちにしたい一心、サービス精神が見て取れます。コマーシャルのコピーみたいな軽妙さが含まれており、笑いさざめく反応を期する気配があります。言葉をあえて選ばなければ、ちょっとあざとい薫りがしますね。あまり錯綜した情念は感じ取れません。


 ただ、十首も続けざまに味噌、味噌と連射される為もあるのでしょうが、遂には“聖なるもの”とまで言い切る様子はちょっと尋常ではない熱狂を感じさせます。遥か遠くにある巡礼地に跪拝するがごとき若き歌人の様子が瞼に浮かんで興味を誘います。故郷と自分とを結んでいる“いのち綱”かまるで“ヘソの緒”のような捉え方ではありませんか。


 “味噌歌”がポジフィルムならば、「地獄極楽図」はネガティブな重みと暗さを湛えており、容易に切り離せない双生児の様相を呈して見えます。極めて純真で、且つ物事に執着する歌人の精神的容貌を垣間見る気がいたします。同じ「赤光」に収められた「おひろ」(1913 大正2年 茂吉さんが三十一歳の作)の悲恋歌四十四首にも通じる“一途さ”が浮き彫りになっていますね。


 いま現在も似たような魂の綾取りは行なわれているものでしょうか。すなわち、味噌は“記号”となり親子、知人の間を宅配便に揺られて行き来しているものでしょうか──。僕が学生だった頃、同じアパートの二階に住んでいた長野出身の男のもとへ故郷から味噌が届けられたことがありました。タッパーに詰められた手作りのそれは、ずいぶん酸味を帯びてリンゴのような匂いがしました。素人目にもいささか未熟な感じを覚えたものでしたが、彼は産まれつき垂れている目尻をさらにぐにゃりと下げて、自信満々に僕に試食を促がし、ついには味噌汁まで作って振る舞ってくれたのでした……。安アパートの部屋に射し込む光と静かな時間をとても懐かしく思い返します。


 味噌を送る──思えば不思議で珍妙な行為です。ひそやかでありながらも濃厚な想いを秘めた、不自然で稀有なやり取りだと思います。





(*1):「みそ文化誌」2001 491-492頁
(*2):「赤光(しゃっこう)」初版 大正2年 1913
(*3):「東北の地獄絵─死と再生」 錦仁(にしきひとし) 三弥井書店 2003
なお斎藤茂吉先生ゆかりの寺に所蔵された“地獄極楽図”に関しては、上記の本よりも次の二点が詳しい。いずれも大空社「近代文学作品論叢書 斎藤茂吉『赤光』作品論集成」(全5巻 1995)に所載されている。・国文学解釈と鑑賞「地獄極楽図(斎藤茂吉『赤光』五)」 柴生田稔 至文堂 1958 8月号 ・教養部紀要 第14号「斎藤茂吉「地獄極楽図」歌綜考」 片野達郎 東北大学教養部 1971 3月号

ちなみに齋藤茂吉さんの“味噌”への執着は以下の頁によくまとまっていますね。
「羽州街道ゆけむり 郷愁写真館 茂吉翁の面影 茂吉と味噌汁」
http://www.yamagatakun.org/kyoushu/mokichi03.html

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