2011年12月24日土曜日

リシャール・コラス「息子の帰還 Le Retour」(2007)~灰色の綿のような~


 父の前に置かれた味噌汁の表面は、灰色の綿のようなもので

覆われていた。母が手に持つ漬け物には黴(かび)がまだらに

生えていた。男は身を凍らせたまま、後ろ手に、一気に扉を閉めた、

思ったよりも勢いよく。扉は鈍い音を立てて縁枠にぶつかり、

空気の渦が生じた。(*1)
 

 そそくさと衣服をまとい、手短に髭(ひげ)をあたって家を出る。五時過ぎたばかりでまだまだ空は暗いのだけど、前夜から降り積もった雪は踝(くるぶし)の高さを優に越えており、その時間であれば本来なら墨を流し込んだような車道が白々と発光している。いよいよ来やがったな、つらい季節だなと嘆息すると同時に、妙に浮き立つものが湧いてくる。踏みしめれば靴裏に真綿の固まりをつぶすような、ぐぐぐ、と跳ね返ってくる感触がある。普段は無自覚の土踏まずがじんわり押し返されるのが新鮮で、きゅうきゅと鳴いて応える音も楽しい。


 行き交う車も人の姿もなく、また、音もない。わずかに光の粒子を含んだ暁闇(ぎょうあん)をだいだい色の“みそかの月”が細く円弧に切り裂いている。新雪に怯えたか、それとも興奮したか、若い一匹の黒猫が真白い道を跳ねながら横切っていく。


 綿毛のような雪片の大量に舞い落ちてきて、この汚された大地を染めていく。まるで夢にまぎれたか昏睡に陥ったかのような非現実じみた風景で、しばし呆然となって眺めていた。考えてみればこの雪だって何を含むか知れたものじゃないのだけれど、それでもこうして廻り来た日本の冬はやはり凄絶で美しいものとしみじみ思う。


 悪くだけ考えることも出来ず、良いことだけを思うこともならず、行きつ戻りつの思案が沈鬱で仕方ない。ぱっと何かに没入して、数時間でも数分でもいいから全てを忘れて身軽になりたい。思う存分、何泊も夜を重ねながら見知らぬ街を歩けたらさぞ嬉しかろ楽しかろ、鬱陶しい気分もすっかり失せて、生命(いのち)の不思議とよろこびがきっと実感されるように想う。許されるのであれば、どこかにそろそろ出かけてみたい、旅したいと願う気持ちがこのところ募る一方だ。


 知らない土地を訪れるだけでなく、見知った場処にいつもとは違った時刻に立つことだって一種の旅なのかもしれない。実際、こんな風景だって目に飛び込むのだし、なんちゃって、うそうそ、そりゃ負け惜しみ。本当の旅は違う。


 背表紙が目に飛び込んだ瞬間に捕縛されてしまったのは、だから仕方のないことだ。リシャール・コラスRichard Collasseさんの新刊書は「旅人は死なない」といい、そのタイトルの示唆する通り、旅愁や郷愁が全編をくまなく覆っている。


 「SAYA 沙耶」(*2)が店頭に並んでからまだそんなに経っていない。随分とまたハイペースではないか、とまず首をかしげてしまったのが本当のところ。騒然とするこんな世相の只中でもあり、コラスさんは大きな組織の経営者でもあるから舵取りに気を揉むことだらけに違いない。指示待ちの案件も山積しているはず。よく筆が進むものだ、と感心しながら手に取り眺めました。


 巻末の初出一覧を見て納得したのは、この本はかつて雑誌に掲載された短編を一冊にまとめたものであって、一部書き下ろしもあるにはあるけれど、基本的に震災前の作品ばかりなのです。いちばん古いもので2007年の春といいますから、五年近くも前に執筆されているものを含んでいる。


 正直にいえば僕はあの事故が国の諸相と人のこころを一変させるのではないかと不安視しているし、その窯変なり衝撃は実は“これから”本格的に押し寄せるものと思ってもいます。動揺を抑え、勇気を奮い起こさせ、闘志を育む上で小説なり物語の真価が試され、また、頼りにされていくものと信じるのだけど、そんな拝むような、祈るような気持ちをずっと胸中に抱えているためなのでしょう、“三月以降に書かれたもの”をどうしても探しては貪っていく傾向がどんどん強まっている。


 その点この本に収まっているのは“昔の物語”ばかりになるから、僕の望むような回答はたぶん見出せないものと諦めながら頁を繰ったのでした。けれど、不思議と苛立ちは起こらず、むしろ“今の物語”として頷き、勇気づけられながらの時間となったのは有り難かったですね。


 最初に引いたのは所載されている一編「息子の帰還」の終幕近い描写です。寒村を飛び出した若者が町の洋装店に雇われ、そこで必死に働くうちに客のひとりである娘に恋をします。残念ながらそれは一方的なものに終わり、傷心した男は久方ぶりに帰郷するのでした。変わらぬ村の風景と生家の様子にほっとする男でしたが、扉を開いて覗いた土間の奥には一見変わらぬ様子で座っている老いた両親の姿があり、よくよく見ればその手に持たれた味噌汁の椀には異様なものが浮いているのでした。元気そうに見えた両親ですが、実は──という話です。


 八雲か鏡花か、といった感じでコラスさんには珍しい幻想譚なのですが、誰しもが懐(ふところ)に抱く生れ故郷や親族に寄せる“両面感情”が透かし込まれており、とても面白く読みました。先人たちの知恵を集束して保存性を高めた味噌や漬け物が、息子の帰宅を待ちきれずに変質している。単純に食べものが腐るのでなく、“故郷”や“母親”とイメージを結線する味噌汁なんかがあえて選ばれ、ぶわぶわのものが増えてむごたらしく破壊されていくあたりが斬新というか容赦ないというか、精神的でとても興味深い描写になっています。


 この一篇を含む十九の物語が本には収まっているのだけど、いずれも庶民目線(と言うより作者目線)の物語で、悲劇に終わるものも含めて描かれているのは生きることに関わるハードルの出現と跳躍、または落下であって、読者それぞれが担っている日常と連結しやすい。


 コラスさんの贈り出す物語に磁性じみたものを以前からは僕は感じていて、それはどうしてなのか考えてみると、結局のところ編み出された物語が作者の内実に寄り添っていて、どんなに突飛な舞台設定を組もうと、どんなにディテールを尽くして異国を装っても、最終的に人間の内側までがそんな“絵空事”に陥っていないのが大きい。ときに視座は若い現代女性の内部に置かれたりもするけれど、台詞や行間ににじむものは総じて1953年生れの男のものであって、読み手である僕として投影しやすいものとなっている。


 半生を費やして蓄積なった慚悔(ざんかい)、諦観、自戒といったものが頁の片隅に金属製の栞(しおり)のような面持ちでそっと挿されてあって、それが時折閃光をともなって目に飛び込みます。人生の不遡及性、途轍もなく残酷な面なんかと、その逆にひとりひとりに託された唯一無二で比類なきもの、奇蹟のような多様性とが再確認させられる。そんな内省的で穏やかな時間になっていく。


 気を許し合える年長の友とこころ静かに会食している。悩みを打ち明け、過去の失敗談や苦労談が返されるなか、落ち着いた時間と酒杯が重なっていく、そんな風の暖かいものが読書中ずっと網膜の裏側に宿っているのです。


 今回の一冊は震災のなかった頃の物語ではあるから、そこに今後の指針は示されてはしないけれど、読了してみれば、作者と僕たちそれぞれの背中に遥かなる航跡が白く尾を引き水平線の彼方まで続いているのが視認される。その長さと確かさが何よりも心強い。こんな自分でもまだまだ捨てたものじゃない、これからも航海は続くのだという気持ちが固まってくる。(頷くにせよ、首を振るにせよ)認めていかざるを得ない実人生を想い、腹がどしんと据わるところがあるのです。


 (懸念や恐怖に打ち克つ術を“離日”という形で鮮烈に示されるということがなければ)コラスさんの次の執筆はいよいよ鎮魂なり覚悟なり、戦いなりを主軸に据えたものとなるでしょう。日本に残り、そこで暮らして舵取りをするとはそういう烈しいものにどうしてもなっていく。僕は単なる好奇心や時間つぶしではなく、今からもう心待ちにしています。彼の背景にある文化や彼自身の魂を介して、どのような言葉がこの国と読者に寄せられるのか、じっくりと耳を傾け考えたいと願っています。



 聖夜ですね。特別な一年でもありましたから、出歩かずに家のなかで家族や恋人と過ごすひとが多いと聞きました。いつもと違って蝋燭の炎も原色の飾り付けも目に沁みて、格別な夜になるでしょうね。

 良き夜を、こころ休まる夜を──

(*1):「息子の帰還 Le Retour」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 「旅人は死なない LES VOYAGEURS NE MEURENT JAMAIS」2011集英社 所載 66頁 初出は「SPURLUXE」2007年冬号 
(*2):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社

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