2011年8月15日月曜日

瀬戸内晴美「諧調は偽りなり」(1981)~ここに来ていてよかったな~


 無想庵は縁側で土びんをかけた七輪をばたばたしぶ団扇で扇(あお)

いでいるところだった。

「おう、どうした」

 黙って縁側に立つ辻を見かえって、無想庵はいつもの声で訊いた。
 
「うん、ちょっと来てみたくなった」

「まあ上り給え、ちょうど飯が出来る。朝昼兼用だ、食っていけよ」

「…………」

 辻は縁側から上った。土びんの中が煮立ってくると、無想庵は

そこへ味噌を入れた。

「あっ、茶じゃなかったのか」

「味噌汁さ、昆布でだしをとって、ついでにそいつが実ともなる。

どうだ、頭がいいだろう」

「おれにやらせりゃ、ぬたの一つもつくってみせるのに」

「空想の中ではどんな料理も出来るさ」

 無想庵は土びんを七輪から下ろすと、座敷へ持ち込んだ。残り火は

火鉢に移す。すっかり山の生活が身にそったような手つきだった。

「どうした、浮かない顔をしてるぞ」

 無想庵は箸をつけない辻にようやく気がついたようにいう。

「酒はないか」

「少しそこに残っている。一合もないね」(中略)

「神近が大杉を刺した。大杉は死ななかったそうだ」

「あっても不思議じゃないことだ」

 無想庵はそれで了解したというように、

「酒もいいが飯も喰い給え、うまいぞこの味噌汁」

という。辻は酒の入った湯のみを大切そうに薄い両の掌で

包んでいる。

「ここに来ていてよかったな」

 無想庵がいった。

「そういうことさ」

「大杉も悪運の強い奴だね。しかし女は怖いな、のぼせ上ると

何をするかしれやしない」

 無想庵は山に入ると何ヵ月でも新聞を見ようとしない。せっかく

山に入って、下界の猥雑なニュースなど一切聞きたくないというのだ。

 辻はズボンのポケットに入れてきた新聞の切り抜きを出さなくて

よかったと思った。

 無想庵は黙々と食事をつづけた。変な味噌汁もさも美味そうに

ふうふうふきながらすすっている。

 辻は一合に満たない酒で全身が暖まってきた。胸につかえていた

ものが、酒にとかされたように軽くなった。(*1)


 ふたたび瀬戸内晴美(せとうちはるみ 現在は瀬戸内寂聴(じゃくちょう))さんの「諧調は偽りなり」から引いたものです。


 比叡山の宿坊に蟄居(ちっきょ)していた辻潤(つじじゅん)さんのところに下界より手紙が届きます。愛しさゆえに教職まで振り捨てて一緒になり、子供まで生した伊藤野枝(いとうのえ)さんが大杉栄(おおすぎさかえ)さんのもとへと去り、深く傷ついていた辻さんだったのです。平静さと活力を取り戻すためには情報を遮断して翻訳にでもいそしんだ方が良いと考え、親友の武林無想庵(たけばやしむそうあん)さんを頼って緊急避難していたのだけど、自分を捨てたおんなと奪った男の近況を知らせる善意の手紙が追いかけてくる。開封して一瞥した辻さんのこころは瞬時に波立ちじっとしておれなくなって、少し離れて住まう親友を足早に訪ねたところです。


 大正時代の突出した思想家大杉栄さんはただ漫然と机上に思索を積み重ねるのでなく、自ら実践する道を模索しました。そのひとつが“フリーラブ”であり、改革と呼ぶよりは“実験”みたいな空気が漂って感じられるのだけど、その後しばらくして訪れた騒動が世に有名な“日蔭の茶屋”事件です。奔放な性格や直線的な物言いをする伊藤野枝さんに惹かれて関係を持った大杉さんを、経済的にも精神的にもずっと支えていた神近市子(かみちかいちこ)さんがいよいよ見過ごせなくなって、懐中に忍ばせていた短刀で刺して深手を負わせ逃走した事件でしたが、それを報じる新聞記事の切り抜きが手紙に挟まっていたのでした。


 おどけた風情で出現した“土びん味噌汁”は、蒼ざめ息を乱してやって来た男の硬く尖ったものをうまくかわし、またたく間に緊張をゆるりと解く役割を果たしています。情念とは遠く隔たった場処に住まっていることを認識させ、昂揚や興奮を沈静させていく。そんな味噌汁の特性をうまく捉えて、実に効果的に使われています。親友がお茶をすすりながら執筆に励んでいたらどうだったか、味噌汁でなく手酌で酒をあおっていたらどうだったか。違った風景や展開になっていたのじゃなかろうか。


 この「諧調は偽りなり」には、もうひとつ味噌汁へ言及した箇所が見止められます。上に引いたものと合わせ読めば、いかに作者の瀬戸内さんの内部で“味噌汁”を別格視しているかが分かります。それは単に瀬戸内さん個人の妄念ではなくって、僕たち日本人の誰でもが抱え込む巨大な、そして、延々と続いていく夢なんだと思いますね。

 
 宮嶋が山を降りる前、宿院で無想庵と三人、夜を徹して飲んだ

ことがあった。何のために生きるのかと、酔った頭で論じあって

いた。(中略) いつのまにか、愛だの、女だのという話に移っている。

辻も尺八を吹くのをやめて話に加わった。

「何だかだといったところで、心から愛し合う女がいないのは不幸

だ。それを酒でごまかし、更には金で買える女を抱いてごまかす。

ごまかしばかりの生活は絶望的になるのが当然だ」

「全くそうだ」

と辻が口をはさんだ。

「欲しいものは、全身全霊で愛してくれる女の愛だ。全部でなきゃ

意味がない」

「愕いたなあ」

 酔っ払った宮嶋が大声でいう。

「無想庵や辻潤がそんな甘いことを考えているとは、この叡山で

それを聞くとは……何がスチルネルだ、何が摩訶止観か、聞いて

あきれらあ」

「手めえなんか、相思相愛の麗子がいるからそんなでかい面を

しているんだよ」

「可愛い女房がいて、子煩悩で、どんなに外ではめを外して遊蕩

したところで、帰ればあたたかい味噌汁と女房のいる寝床の待っ

ている暮らしの中で、小説を書こうなんていう料簡が、そもそも

不埒(ふらち)なのだ」(*2)


 なんか変な論法ですねえ。捨てられたり、壊したりで面目を失った男ふたりが家庭を維持し続ける宮島資夫(みやじますけお)さんをやっかんで吠えている。酔った男の会話なんて所詮こんなものですが、愛するおんなと味噌汁が“あたたかい”という形容でしっとり粘着して一体となり、男においでおいでと手招きしているのが見えてしまう。なんとも言えぬ気分です。どう抗っても無駄な話と分かってもいる、僕たち男には所詮負け戦ですからね。そして男たちと対峙するおんなの皆さんも含めて、誰もが味噌汁の重力圏内で遊泳するしかないのでしょう。


 無理は禁物、どうぞ、ゆったりとこころ弾む遊泳を。浮き輪を持ったり、共に泳ぐ相手を励みとして長距離遊泳を続けていきましょう。今年も折り返し地点を過ぎましたね。後半戦を頑張りましょう。


(*1):「諧調は偽りなり」 瀬戸内寂聴 初出「文藝春秋」1981年1月号~1983年8月号 手元にあるのは「瀬戸内寂聴全集 第12巻」新潮社 2002 引用箇所はその514-516頁。
(*2): 同535-526頁 ちなみに辻潤さんの“辻”だけど、正しくは「辶」(しんにょう)の点が二つです。最上段の写真は前回でも紹介した映画「エロス+虐殺」の一場面。

0 件のコメント:

コメントを投稿