2011年11月17日木曜日

“無味に思える”



 蛙(かえる)の冷たい、しっとりと湿った、緊(は)りの無い天性

に関して斯(か)く詩人が無言でいるのを怪しんでいる間に、突然

自分の胸に浮かんだことは、自分が読んだ他の幾千という日本の詩歌

に、触覚に関して詠(よ)んだものが全く無いという事であった。

色、音、匂いの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表わされている。

が、味感は滅多に述べて無い、そして触感は絶対に無視されている。

この無言もしくは冷淡の理由は、これをこの人種の特殊な気質または

心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うてみた。が、まだ自分はその

疑問を決定することが出来ずにいる。この人種は、西洋人の舌には

無味に思える食物で幾代も生活し来たっていることを憶(おも)い

起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或いは愛情のほかの肉体的

表明とかいう動作を為せる衝動は、極東人の性質が実際全く知らずに

いるものということを憶い起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なもの

にせよ、とにかく味感と触感とは、その発達が日本人は我々よりも

遅れているという説を抱きたくなる。(*1)


 小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんが書かれた文章です。八雲さんは身も心も日本に投じ、この地で独自に発達を遂げた文化や思想を貪欲に吸収していきました。微に入り細を穿って書き留められた光景は、伝説やおとぎ話も含めて美しく、機微を含んでずいぶんと胸の奥深くまで沁みわたるのだけど、なぜか“食べもの”だけが蚊帳の外に置かれて見える。一体全体それはどうしてなんだろう、と先日来くずくずと考え続けて来た訳です。


 先におこなった抜き書きからは八雲さんが日本の食事に物足りなさをどうやら感じ、それを悔しく思っていた様子が読み取れたのでしたが、上の文章を読むと嫌悪とまでは言いませんが、和食に対してかなり辛辣でどんと突き放している雰囲気があります。出版された時期から察するに、来日して七年か八年が経過していた頃でしょう。十分に風土に慣れ親しみ、四季を通じて多彩に変化していく日本の食料事情も飲み込めた時期です。そんな日本通の八雲さんから“西洋人の舌には無味に思える”と僕たちの食生活を評されてしまうと、いささかショックです。


 隣国である大韓民国が小学校の給食にキムチを添えることを義務付けたりした理由がそうなのだ、と教わりましたが、味覚というものは幼年期に完全に組み立てられ、その時期に刷り込まれないと生涯にわたって“美味しい”とは感じ取れなくなるものらしいのです。人間の味覚、嗅覚の仕組みというのは実に不思議です。家庭の事情や根っからの異邦人という生来の体質から、地球のあちらこちらを転々として過ごしてきた八雲さんにとって、その四十年間に刷り込まれた食文化の情報量はさぞ激烈で膨大なものだったでしょう。そんな彼にとって日本での食事(醤油、味噌も含めて)は、正直言って味気ないものだったに違いありません。これが案外真相なんでしょうね。


 そろそろ八雲さんをめぐる“食べもの”の話はやめにしましょう。いえ、何も和食をぞんざいに言われて気分を害した訳ではなくって、八雲さんの視点の面白さをもっと書き留めたくなっただけです。上の文章にある“触感”の話などきわめて面白いですよね。百年前の記述なのだけど、時代を超越した日本人論になって胸に迫ります。


 海外での生活経験が豊富な友人から“握手”の話を聞かされたことがあります。出逢いや別れに際して交わされるあれですが、日常の何気ない儀礼に過ぎないと思われることなれど、そこで取り交わされる感情の綾は相当なものらしい。正のものもあれば負のものもありますが、実に多彩で大量のものが“触れ合い”を介して瞬時に行き来し、互い互いに汲み取っていく。文中にある“肉体的表明”という語句は古めかしい感じを与えるけれど、閃光にも似たまばゆい面持ちの、昂揚を誘う時間を築いている。


 好感や信頼、融和、解放、休意、深慮、はたまた求心なり恋慕──実際のところはそんな単語をずらずらと述べていたわけではありませんが、数秒間に過ぎなかった一度の握手について、手のひらに宿る体温の印象やそこから派生する揺らぎや安息、土台に眠る気質や知性の奥行き、互いの状況と将来の展望といったことについて嬉々として語ってやまない友人を見ていると、「触感」は日本人の完全に出遅れてしまった分野だと素直に認めない訳にはいかない。対人間の交感や情報のやり取りを、ほんとうに真摯に積極的に捉えている印象を受けました。こりゃ敵わない、これが海外の基準だとすれば日本人の日常など“無味”で“遅れている”、空洞化していると揶揄されても仕方ないかな、と思います。


 いつか上に書いたようなあざやかな、めくるめく明るさに充ちた“握手”が僕にも出来たらいいな。それにはもっともっと修練が必要だな──そんなことを夢想しているところなのです。

 
 

(*1): Exotics and Retrospectives(異国情趣)「蛙」 小泉八雲 1898 大谷正信訳 第5巻 419-421頁 引用箇所には続きがあって、八雲さんは日本人の指先の器用なことを褒めたたえ、超絶技巧の工芸品を例に引いて後段を締め括っています。鈍感というのではなく、方向が違うのだと言いたいのでしょう。叱られないよう、そちらも合わせて書き写しておきましょう。(でも、日本食の味気なさについて補完する言葉は、最後の最後までないんですよ!)

──日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊な方向に発達している触覚の、ほとんど比較にならぬほど精緻なことを確証している。この現象の生理学的意義は何であろうとも、その道徳的意義は極めて重要である。自分が判断し得ただけのところでは、日本の詩歌は、我々が美的と呼んでいる高等な感性に微妙極まる訴えを為しながら、劣等な感性は普通これを無視しているのである。この事実は、他の事は何ひとつ表示しておらぬにしても、“自然”に対する最も健全な最も幸福な態度を表示しているのである。(中略)日本人だけが百足虫(むかで)の形態を美術的に使用し来たっているという事実は意義のないことであろうか。……模様のある革の上をば炎の小波のごとく 走っている金の百足虫(むかで)!が附いている京都製の自分の煙草入れを読者諸君に見せたいものである。

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