2011年11月18日金曜日

“反抗するその力よりも”


 脚本家の山田太一(やまだたいち)さんが八雲八雲(こいずみやくも)さんのことを書いた「日本の面影」も合わせて読んでいる最中だけれど、予想通り味噌と醤油に関する特段の記述はないですね。古い全集をひもときながら想いをめぐらした気ままな散歩も、そろそろお終いみたいです。


 食べもの”について触れたものではないのですが、最後に備忘録をかねて書き写しておきたい箇所があります。“結局この文章に出会うために読み進めてきたのではなかったかと思わせる、とても刺激を含んだ内容です。文頭に“東京、1904年8月1日”とありますから八雲さん晩年の一篇ですね。当時の日本はロシアとの戦争の只中にありました。前年の明治36年の12月21日にロシアの満州侵略に対し抗議を提出し、同28日には連合艦隊が編制されている。年明けて2月10日に開戦、たちまち海も山も砲火に砕け、戦死者の山を築いていく。


 そのような暗澹たる世相にあって、東京という街が、そこに住まう人がまるで何事もないように動き、微笑み、ざわめく様子に八雲さんはひどく驚いているのです。理解しようと努め、どうにかこうにか思案を取りまとめていくのですが、読んでいると随所に不協和音が感じられる。困難なテーマに立ち向かっている証拠です。百年以上も前の考察ながら、あの三月の震災後に生きる僕たち“現代の日本人”を考える上で有益な言葉を多く含んでいるように思えます。


 東京、1904年8月1日(中略)

 日本にとっては、恐らくは、その国民的生命の無上の危機である。(中略)経験に乏しい人の観察には、日本人はいつもと異なったことは、何ひとつしておらぬように見えるであろう。(中略)心配あるいは意気沮喪(そそう)の情態を示すものとては実際にまったく何ひとつ無いのである。それどころか、国民一般の自信が喜ばしげな調子を見、また幾度の捷報(しょうほう)に接しても、国民の自負心が感心なほど制御されているのを見て誰しも驚く。西からの海流が、日本人の死体をその海岸に撒き散らしたことがある。鉄条網の防備のある陣地を襲撃して幾連隊の兵士が絶滅したことがある。幾艘の戦闘艦が沈没したことがある。だが、いかな瞬間においても、国民的興奮は微塵だもこれまで見ない。人々はまさしく戦前通りに、その日日の職業に従事している。物事の楽しそうな様子は、正しく戦前と同じである。芝居や花の展覧は戦前に劣らず、贔屓(ひいき)を有っている。市外の生活は何の影響もこうむらず、ほかの年の夏同様に、花は咲き、蝶は舞っているが、外見では、東京の生活はそれと同様に、ほとんど戦争の事件の影響をこうむっていない。(中略)この戦争の話はすべて悪夢だと思い込むことが出来るくらいである。(*1)


“捷報(しょうほう)とは戦闘に勝ったことを知らせる報道のことで、そういった報せに関してすら大騒ぎしない様子に八雲さんは首を傾げている。誰からも号令をかけられていないのに、まるで「悪い夢」のよう、「無いこと」のように誰もかれもが振る舞っている。なぜここまで統制されていくのか、不思議を感じている訳です。八雲さんは十四年間の暮らしで習得した知識を総動員して、この謎を解こうと躍起です。


 古昔(こせき)、この国民は、その情緒を隠すばかりでなく、精神的苦痛のいか圧迫の下にあっても、楽しそうな声で物を言い、愉快そうな顔を人に見せるように訓練されたのであった。そして彼らは今日もその教訓を守っている。陛下のため、祖国のために死ぬる者どもを亡くした個人的悲哀を現すのは、今なお、恥辱と考えられているのである。(*2)

 一般公衆は、あたかも人気のある芝居の舞台面を見るように、戦争の事件を観ているように思える。興奮はせずして興味を感じている。そして、彼らの異常な自制心は「遊戯衝動」の種々な表現に特に示されている。(*3)


 日本の武家社会には士農工商といった厳格な身分制度や教育機会の不平等、それから男尊女卑や家長制度などが縦横に張りめぐらされていて、人間の思考はさながら蜘蛛の巣に捕まった羽虫のようなもの。前進も後退もままならない。感情を表に出すことを恥と捉える風潮も重なって、完全に手足をもがれた格好になったのだと八雲さんは(それを悪いこと、遅れたことと単純には否定はしていないのですが)推察するわけです。心の奥に渦巻く軋轢は吹き抜ける穴を探して“娯楽”の形にやがて変幻していき、お芝居や子供の遊び、歌や衣装といったもので花開いていく。深刻な討論や表現が回避され、華やいで笑いが寄り添う分野で“無上の危機”が盛んに玩(もてあそ)ばれる。八雲さんはそれを日本の国に巣食う独特の「遊戯衝動」によるものと捉えている。


 刻下の世界震盪(しんとう)的なる事件のうちにあって、歌舞を見て感ずると同一様な楽しみを感じ得る、その不思議な度量を見ると──誰しもこう訊(たず)ねたくなる。『国民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであろう』と。……思うに、それは事情如何(いかん)によることであろう。クロパトキンが日本に侵入するという。その軽率な威嚇を実行し得るなら、日本国民は恐らく擧(こぞ)って起つであろう。然しそうでない、どんな大不幸を知っても雄雄しく耐え忍ぶであろう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異変の頻繁な国であった。一瞬時にして幾多の都市を破壊する地震があり、海岸地方の人口ことごとくを一掃し去る長さ二百里の海嘯(かいしょう)があり、立派に耕作された田畑の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋没する噴火があった。こんな災害がこの人種を鍛錬(たんれん)して甘従(かんじゅう)と忍耐とを養い来たっている。そしてまた戦争のあらゆる不幸を勇ましく耐え忍ぶ訓練もまた十分に為し来たっている。これまで日本と最も近く接触し来たっている外国国民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻撃を耐え忍ぶその力は、攻撃に反抗するその力よりもあるいは遥かに勝っているかも知れぬ。(*4)


 “クロパトキン”とはロシア満州軍総司令官アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンのことです。“海嘯(かいしょう)”とは、ここでは大津波のことを指しています。日本人の寡黙、微笑み、どんな不条理な事態に面しても憤然とすることなく決して拳(こぶし)を振り回さない“おとなしさ”は、天変地異に幾度も襲われ、そのたびに耐え忍び、生き延びてきた歴史の産物ではないか──そのように八雲さんは考えるのです。


 八雲さんが言う“頻繁な異変”とはどんなものか。来日してから亡くなるまでの期間、どのような災害が我が国を襲ったかをここで振り返ってみましょうか。(*5)

【1890年(明治23)】~八雲来日の年~
2月27日 浅草の大火(約1500戸焼失)
9月5日 大阪の大火(約1800戸焼失)

【1891年(明治24)】
12月30日 鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)

【1892年(明治25)】
4月10日 東京神田の大火(約4000戸焼失)

【1893年(明治26)】
3月29日 伊勢松坂町の大火(約1000戸焼失)

【1894年(明治27)】
1月24日 鹿児島市大火(503戸焼失)
5月27日 山形市の大火(1200戸焼失)
6月17日 横浜市の大火(約1000戸焼失)

【1895年(明治28)】
6月2日 越後新発田の大火(約2000戸焼失)

【1896年(明治29)】
4月13日 越前勝山町の大火(1200戸焼失)
6月15日 三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月7日 富山県下の大水害(流失3000戸)
8月26日 函館の大火(約2220戸焼失)

【1897年(明治30)】
4月22日 八王子の大火(約3100戸焼失)

【1898年(明治31)】
6月5日 直江津の大火(約1600戸焼失)

【1899年(明治32)】
8月12日 富山市の大火(約5000戸焼失)
8月12日 横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)
9月15日 函館の大火(約2000戸焼失)

【1900年(明治33)】
4月19日 福井の大火(約1700戸焼失)

【1902年(明治35)】
3月30日 福井市で大火(約3000戸が焼失)
8月7日 鳥島が大爆発、島にいた125人全員が死亡
9月28日 関東・東北地方に大暴風雨(足尾銅山の山崩れで死者34人、不明170人)

【1904年(明治37)】~八雲急逝の年~
5月8日 小樽の大火(2481戸焼失)


 これは酷い。なるほど毎年のように大きな火事があり、その度に何千もの家屋が焼け落ちています。今回の被害を語る際に話題によく上る三陸地方の大津波も、八雲さんはすごく身近に感じていたんですね。ここまで大きな災害がくり返されると、八雲さんの言わんとすることも当たっているような気になって来ます。喜んでいるのじゃありませんよ、逆に困惑している、心配になってくる。


 ウェブを介して情報を収集する手癖の付いてしまった人には、はっきりとした触感となって感じられる話なのですが、海外の視線はまさに八雲さんが書いたこの“不思議な度量”に今なお注がれていていて、むしろ勢いは強まっている。一挙手一投足を睨(ね)め付けるかの如しです。“反抗するその力よりも遥かに勝っている”日本人の“耐え忍ぶその力”に対して唖然とし、いや、そろそろ愕然とする域に踏み込んで見えます。


 僕たちの身体に染み入ってしまった忍従の力が、かえって“国民的生命の無上の危機”へと僕たちを追いやっていないか、真剣に考える必要がありそうです。現代のクロパトキンの侵入は軽率な威嚇程度では済まない。“甘従(かんじゅう)と忍耐”では抗しきれない相手のように思えます。


 八雲さんの遺した言葉を日本人礼讃と捉え、美しい態度、素晴らしい姿じゃないか、さあ頑張ろう、いっしょに耐えていこう──そのようにまとめるのが普通かもしれないけれど、僕にはどうしてもそうは思えないんですね。きっと八雲さんも望まないように思えます。


(*1): The Romance of the Milky Way and other studies and stories(天の河縁起そのほか)「日本からの手紙」 小泉八雲 1905 大谷正信訳 全集第7巻 485-487頁
(*2):同487-488頁
(*3):同488頁
(*4):同506-507頁
(*5): http://meiji.sakanouenokumo.jp/

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