2011年9月26日月曜日
桐野夏生「玉蘭」(2001)~そこに何かを見出したのか~
「お食事持ってきましたよ」
谷川が窓際にある小さなテーブルの上に盆を載せた。白飯に炒め
物のおかず、小皿に梅干しが添えてある。塗り椀があるのを見ると、
味噌汁が付いているのだろう。(中略)
浪子(なみこ)は谷川が出て行った後、部屋にひとつしかない中国
風の椅子に腰掛けて、光代の手料理を食べた。すっかり冷めていたが、
小さな角切りの豆腐の入った味噌汁は懐かしく、旨かった。梅干しも
日本の白米も、物質のすっかりなくなった広東では手に入れることの
できないものばかりだ。
(中略)
「いいよ、それより飯食ったか」
質(ただし)は浪子の方を見ずに尋ねた。浪子は谷川が運んで
くれた冷たい夕食のことを告げようかどうしようかと迷ったが、
結局黙っていた。(中略)
「食べてないの?ここの奥さんのご飯は日本食だからね。旨いよ」
空腹ではないかと気遣ってくれないのか、あなたの妻になったのに。
気の回らない質に苛立ち、とうとう浪子は言い放った。
「あなたが帰って来ないから、あなたの分食べちゃったわ。久しぶり
にお味噌汁飲んで感激したわよ。おいしゅうございました!」
質はやっと返答を返した浪子の顔を見た。そこに何かを見出した
のか、急に痛ましそうな表情をした。自分の顔に何が現れているのだ。
旅の疲れか惨めさか、病の徴(しるし)か。鏡が見たい。浪子は不安
になり、思わず両手に顔を埋めた。(*1)
“食べもの”を登場人物のこころと連結させて、物語の色彩と濃淡をコントロールしていく。ときには“色気”と“食い気”を強引にない交ぜにし、個としての人間の輪郭を多角的に照射して浮き上がらせる。それによって読者の感情をも変幻自在に操ってみせる。稀にではありますが、そんな舌を巻く描写にぶち当たるときがあります。凄腕の書き手が日本にはいて、桐野夏生(きりのなつお)さんはそのひとりだと僕は思っています。
十年も前に書かれたものですが「玉蘭(ぎょくらん)」という作品があって、恥ずかしながら今ごろになって手にして読んだのだけど、実に濃厚な味わいで胸に応える読書、硬い芯のある週末となりました。
冒頭から末尾まで貫いている清澄な趣き、真摯な世界観もさることながら、使えるものは何だろうと動員して舞台をくまなく飾ろうとする作者の貪欲なまなじり、狂気にも似た緻密さにすっかり惚れてしまいました。当然“食べもの”も豪奢に、けれど無駄なく配置されている。
たとえば物語の前半、航海の間、極度の緊張を強いられて魂をすり減らした船乗りがようやく陸にあがり、次の出航までに揺らいでしまった自分をどうにかこうにか立て直すために酒に溺れ、破壊的な面持ちで猟色していく夜が描かれるのだけれど、その際に男が歩んでいく場処は“食品市場”なのでした。異国のマーケットですから、甕(かめ)や篭(かご)に入れられた蛇やら犬やら蛙やら、おどろおどろした“食べもの”が列をなして視覚と嗅覚をいたく刺激します。それらは男がこれから挑もうとする官能の闇を、黒々と補強して塗り固めている。(*2)
また、回復不能な喪失感を抱えた初老の男が人生に疲れ、自死することをいよいよ望んで、季節外れの雪に染まる別荘地をひとり放浪する場面が後半に訪れるのですが、奇抜な風体の老女が唐突に現われて男に救いの手を差し伸べます。おごそかな幽棲へと男を導いていくこのおんなには、異国帰りの破天荒な性格が割り当てられており、食事の場面では白飯に臆することなく砂糖をまぶし、さらにミルクを注いで食べて見せるのでした。男は唖然として声を失うのですが、その“普通とは違う食べもの”とおんなの堂々たる食べっぷりを好ましく思い、いつしか死の誘惑を断ち切っていくのです。(*3)
“食べもの”と情感が編みこまれていて、どちらも実にうつくしい。
僕たちの日常を覆う“食べもの”とこれに寄り添い萌芽していく人情の機微を、桐野さんは透徹した目線ですくい上げていく。そうして、両者の関係を再構築して自らの劇世界に植え替えて行き、リアルな色調で虚構世界を彩って見せるのです。咀嚼と血肉化の連携が見事ですね。
上に引いたのは物語の中段にあって、先の二例にあるような感情の湧昇、凝縮とは真逆の動きが見られる場面です。
不幸な生い立ちのおんなと男が出会い、おんなは未来を託して身ひとつで男のもとに走ります。転がり込んだ住まいは賄いつきの下宿の三階であり、疲れて空腹のおんなに冷めた夕食がひと揃え届けられるのでした。これが“普通の食べもの”それも異国(上海)にあって場違いな感じの「日本食」であるのが興味惹かれるところです。
帰宅した男はどこかで酒をあおってきた様子であり、おんなの同居にどう反応していいのか戸惑いを隠せないでいます。おんなはおんなで疑心暗鬼にとらわれ男に食ってかかるのでしたが、その台詞には“味噌汁”が取り込まれており、きわめて強いスポットライトが浴びせ掛けられている。
虚ろな逡巡やどうしようもない感情の交錯が誘爆して次々と蒼黒く燃え立ち、気持ちをどんどん落ち込ませていく。情愛のあかあかとした焔が鎮火しかけて危機的な状況にあります。「日本食」と“味噌汁”があわせ選ばれ、そのかたわらを占めていく。それは作家の生理というのではなく、長い時間かけて僕たちに刷り込まれた“食べもの”と魂の相関について、桐野さんなりに手づかみし辿り着いた風景、逃れようのない、まさに目前で展開される“僕たちの場景”であるように感じます。
冷めた味噌汁のすっと鼻孔を透きあがる、潮風のような尖った気体の奥で夢の残滓がどこか香るようであり、なんとも切ない微動を引き起こす。味噌汁とは哀しい“食べもの”なのかもしれませんね。
(*1):「玉蘭」 桐野夏生 2001 朝日新聞社 引用は186-192頁 初出「小説トリッパー」1999-2000
(*2):同136-137
(*3):同365頁
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