2009年10月15日木曜日
「厨房で逢いましょう」(2006)~恋文としてのレシピ~
食と恋愛を連結させて描いたドイツの劇映画(*1)がありました。容貌に恵まれない孤高の天才シェフと障害のある子供を持った既婚女性とが出会い、料理を通じて魂を重ねていく現代のおとぎ話です。それでも妙なリアリティを薫り放って、こういう世界も何処かには実際あるのだろうなと思わせる力がありました。
食への執着は色事や恋愛と同じく人を恍惚と充足感に導きますが、その快楽の虜になった者を右に左に翻弄し稀に破壊することさえあって、この点でも一致するものがあります。摂食障害、内臓疾患、浪費、孤食と狂宴、そんな食にまつわる様々な表情はほんの少しずつ違うけれど、渦巻き燃え上がる恋情の裏に潜んでいる暗い影の部分にそっくりです。
いつぞや読んだ生理学の本によれば人間の口蓋、舌をろろと巻いた先端が触れる上あごのツルツルぬるぬるした辺りの組織は、性愛に関わるデリケートな身体部分と極めて似た構造になっているとのことです。なにか物が触れた際に脳に送り込まれる信号も、それが素でパッと花開く快感も似たものだそうですからとても不思議な話です。休日ともなると唇がなにか淋しくなって、ついつい間食してしまう癖が僕にはありますけれど、そんなよろめきの理由が上下に位置こそ隔てられていますが、共通する細胞の仕組みからもちょっと窺えるわけです。
神様の仕事は実に巧妙で抜かりがない。生命活動を維持し繁殖に導くためにとても上手にエスコートしていきます。食と恋とはだから双子の天使であって、常に僕たちの周りを羽ばたいているのですね。もしかしたら地球から遠く離れた異性人からすれば、僕たちの食べる行為も愛し合う行為も同じものに見えているかもしれません。
ふたつの欲望は雌雄異花同株の仲であり、また、二股に分かれ蛇行していく川のようなものなのでしょう。上に掲げた映画で起きた至福の時間のように結実したり再び交差し合流することも、だから当然現実世界に有り得るのでしょう。
だったら、僕がこのミソ・ミソで意識的に回避してきた文章、つまり純粋なる料理の献立として書かれたものやレシピのようなものにだって、そこに官能を強く嗅ぎ取るひとはいるかもしれません。理屈ではそうなりますよね。
──ダシ汁少々(椎茸が浸るくらい)砂糖小匙1、醤油小匙1。味噌を合わせて味醂と砂糖を入れてダシ少しを入れて溶いておく。一人用土鍋にダシ400ccを入れて合わせた味噌を入れる。鶏肉を加えて煮込む。火が通ったら生うどん140gをそのまま入れる。中火で6分から7分程度煮込む。煮えてきたら他の具材を載せて玉子を割りいれて蓋をする。1分ほどそのまま火にかけて蓋をとり供する。食べるところまで蓋をして持っていけばグツグツに煮えた状態で届けることができる。熱いので取り皿とれんげを添えると良い。具材は他に蒲鉾やわかめや各種きのこ類も合う。また豚のばら肉なども美味しい(* 2)
──というような文字の羅列にさえ、中世の恋人たちの燃え立つ想いや慟哭を秘めた恋文に似た劇的なものを見取るひとがいても可笑しくはない。鈍感な僕には感知できないだけであって、「キューピー3分クッキング」や「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」にねっとりと濡れた瞳を向けるひとがいるのかもしれない。
そうして見るのならば、僕がここミソ・ミソでやっている事はいかにも片手落ちの断章取義となりますね。日常の陰に埋もれて見える味噌や醤油。何とはなしに彼らの境遇を捨て置くには忍びなくて、舞台袖から無理に手を引き壇の中央に導こうとする訳なのだけれど、それは余計なお節介、身勝手な横恋慕なのかもしれません。
実際のところ味噌たち醤油たちは、日夜身を熱く焦がしながら暮らしています。指先に付けばその指を甘く柔らかな唇へと難なく誘いこみ、存分に舌にて吸われ舐められてもいく。僕たちよりもずっと充足している毎日じゃあないか、僕なんかより余程世界をひとを歓ばせ、彼ら自身だってその短き一生をあけすけに、悠々と愉しんでいるじゃあないか。
おいおいおい、馬鹿だなあ、味噌、醤油に本気で嫉妬してどうするんだよ、
しょうがないなあ。
(*1): EDEN 監督ミヒャエル・ホーフマン 2006
独語HP http://eden.pandorafilm.de/index.php
(*2):味噌煮込みうどんの作り方 引用先は下記の頁 http://allabout.co.jp/gourmet/udon/closeup/CU20070419A/
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