フリークライミングの競技大会を先日観てきました。会場となった屋外施設は15mもの高さがあります。ごつごつの鉄骨にクリーム色のFRP(繊維強化プラスチック)製プレートを貼り付けしつらえた人工壁は最大斜度145度の逆勾配となっていて、手前にぐぐぐとせり出し倒れて来るような感じ。その威容は迫力満点です。
競技に参加しているのは達者な人ばかりです。あれよあれよと上に登っていく訳ですが、それにつれて傾斜は勢いを増していき、最大の急所で難敵のきついクリフがいよいよ目の前に立ちはだかります。人工的に最悪の状況をわざわざしつらえて、これに果敢に挑んでいく競技というのは考えれば考えるほどけったいなものです。人間って不思議です。遂には天井板にしがみつくような様子となって、恐怖映画の蝿男さながらの奇怪な姿勢を披露していくのです。
遥か頭上で奮闘する競技者の表情こそ読み取れないけれども、その分代わって全身が語りかけて来ます。重力に抗い体重を支えてきた腕力は消耗してしまい、上腕二頭筋がぶるぶる、ぶるぶると痙攣し出すのがはっきり見て取れます。時間はもう残されていません、次の一手ですべてが決まってしまう。千切れんばかりの指先から専用のシューズに包まれて踏ん張る両足の先っちょまで、四肢の隅々に“決意”と“躊躇”がチカチカと目まぐるしく明滅しています。何度も宙に伸ばされては引っ込められる腕の動きには独特の痛々しさと言うか、表現しにくい凄みのようなものが顕われてきます。
仕事をする上で、いや、それは人生におけるあらゆる局面に言える訳だけれども、決意するという行為は神経を磨耗させて生命を削るようなところがあります。しくじって墜ちた矢先に手首をぐっと掴み、引き上げてくれるヒーローはほとんどの場合は見当たらない。地面に叩きつけられるにせよ、崖の途中で傷だらけになって留まるにせよ、見当が狂った末の顛末は悲惨なものです。決断することは本当に怖く、身を切られるようなことの繰り返しです。
別な人間に命綱こそ委ねているにしても、ルートを選んで登攀を開始し、自分を信じて指先を伸ばし足を踏み込んでいくフリークライミングの諸相には、決断を余儀なくされる人生の孤闘を凝縮して提示するようなところがあり、僕は彼らの姿にとても興味を覚えて感動もし、また勇気付けられるようなところも確かにありました。
競技用の大壁の裏には初心者や子供向けの体験エリアもあって、そこで指導を受けて2メートル程の壁によじ登ってもみました。一時期から比べたら体重は相当に減ったのだけれど、いやはやなんとも──。 でも、夢中になって何かで過ごす時間は気持ちや思考の淀みを整理するような気がしますね。気分はとても良かったです。ドンとマットレスに堕ちていくのもリセットされた気分で悪くない。いい機会と体験を本当にありがとうございました、楽しかったよ。
先日からの流れで、ずいぶんと“ひとり”ということを考えてしまっていますが、クライミングという競技にはそんな思案を伸びやかに加速させるものがありました。加えていま集中して読んでいる本たち(*1)の内容もいささか影響しているのでしょう。“ひとり”が“ひとりひとり”と向き合うことが、この僕たちの生きる世界の肝なんだな、“ひとり”と仲良くならないといけないな、なんて青臭いことを延々と反芻しているところです。
なんだなんだ、結局変化なしかよ、淀んだままか。いえいえ、これでも少しは進歩したつもりでいますよ。ちょっとずつですが、なんとか僕なりに壁を登っています。
季節の変わり目です。僕の周囲ではお葬式がずいぶんと多いです。逝くことも看取ることも、それは人生の四季の定め、自然の理である以上は粛々と受け止めていくだけですが、それでもどうか皆さん、体調の管理に留意して元気にお過ごしください。
夜の町を歩くと大気の冷たさや枯草の臭いの混ざり具合が既に雪の季節のそれであり、ずいぶんと身近に冬を感じています。今年の雪は早いのかな。どうぞお気を付けて、ほんとうにどうぞ温かくして過ごしてください。
(*1):メモがわりに一部を──
「セックスはなぜ楽しいか」 ジャレド・ダイアモンド 草思社 1999
「テストステロン―愛と暴力のホルモン」ジェイムズ・M. ダブス/メアリー・G. ダブス 青土社 2001
「いじわるな遺伝子―SEX、お金、食べ物の誘惑に勝てないわけ」テリー バーナム/ ジェイ フェラン NHK出版 2002
「女は人生で三度、生まれ変わる 脳の変化でみる女の一生」 ローアン・ブリゼンディーン 草思社 2008
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