2010年2月8日月曜日

上村一夫「狂人関係」(1973)~上村一夫作品における味噌汁(3)~




  再び上村一夫(かみむらかずお)さんについて。彼の“決めごと”に「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそくする」というのがあるのですが、これから紹介する「狂人関係」(*1)はその好例です。


   おどろおどろしい題名ですが、中身は文芸もの、人情ものです。江戸の画家葛飾北斎(かつしかほくさい)の晩年の暮らしと死を縦軸とし、愛弟子である“捨八(すてはち)”という青年と北斎の娘“お栄”との純愛、そして、同じく捨八と彼の分身のようなおんな“お七”との狂恋と死別を横軸に構成されています。北斎は上村さんが信奉して止まない画家のひとりでしたから、頁のそこかしこからはぼうぼうと熱気が噴きこぼれてくる感じです。


 溜め息誘う繊細な絵がちりばめられた中篇なのだけれど、白眉なのは劇の中頃で捨八とお七とが繰り広げる愛の景色です。夜を徹して抱擁し、急き立て、受け止め、慈しみ、昇り詰める時間を延々と重ねていく。「四度目……五度目よ」と数えてから、さらに強く抱き寄せ、流れる汗に洗われながら幾度となく交わっていくのでした。(*2)

  
  密室にて昼夜を隔てることなく延延と抱擁を重ねる若いふたりの有り様は、まさに“寝食を忘れて”という形容そのままです。でも、それ自体には不思議はないですよね。頂きに達する瞬間は誰の身にも起きます。記憶をたどれば過去に一度か二度、情熱的なひとならいくつも、そんな波濤の一刻を思い出すものじゃないでしょうか。感情という素敵な、なお且つ厄介なものを抱えた僕らの宿痾として純度の高い時間はいつかは訪れてしまうもの。


 ですから、上村さんにより描かれた男女の睦みの濃密で果てしない様子に対し、作者の創造性が飛び抜けているとは見ません。人間の喜怒哀楽を表現する古今東西のドラマにおいては、“寝食を忘れて”過ごす密室性の高い情景は、恋愛劇のハイライトとして定型でもあって、あれもそう、これもそうと指を折って数えることが出来ますからね。


 でも、そう言えばと思い直すのです。上村さんの情景には独特の色彩が加わっている。例えば映画(*3)であれ劇画であれが愛の情景を描く大概の場合には、文字通り“食を忘れて”没頭する、食べる行為を二の次、三の次にしての睦(むつ)み合う時間を描くものです。


 一方、そのような密室での僕たちの現実としての時間はどうでしょう。ルームサービスであれ、コンビニエンスストアでの調達であれ、それは百人百様で別々であるけれども“食事”はきちっと為され、共に食べるそのことにも、その時間にも大きな歓びが寄り添うものです。“食事”は愛の行為と不協和音を奏でることなく共に得がたい記憶として連なっていく。


 眠れぬままに朝を迎えた「狂人関係」でのふたつの肉体に対して、上村さんはどんな給仕をしたものでしょう。一切の食事の要素を劇的に排除したものでしょうか。それとも現実的なしっとりとした団欒を組み込んだものでしょうか。有るのは竹篭にのった、貧相な三本の人参だけなのです。おそらく一昨日かそこらのだいぶ時間が経過したらしい、残渣がべとべと付いて汚れたままの食器や鍋をひとコマを続けて作者は提示しています。この愛の棲み家にろくな食べものが見当たらない状況をひねり出し、恋人たちに課しているのです。


お七「だってお銭(あし)がないもの」

捨八「ふん しゃあねえ がまんするか

   しかし それにしてもなんだな この人参 ゆでるとか煮るとか

   したらどうだい」

お七「だって めんどうなんだもの」

捨八「チェッ しゃあねえ 塩でもつけて食うか!」


  生の人参にがりがりと齧りつき、黙々と咀嚼していくのだけれど、その“食事”とは到底呼べぬ“食”の光景と、これと交互して六度目、七度目、八度目の房事が挿し込まれて、なんとも形容しがたい鬼気迫る時空が展開されていく。



 

 こうして見れば「狂人関係」の人参は変わっています。「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそく」していき、生の野菜だけになる。それに旺盛に噛り付いていく恋愛劇は、おいそれとは見当たらない妖異極まるものです。素材の意外な組み合わせの妙は上村さんの十八番(おはこ)ですが、表層的なものに限らず物語中にもそっと、けれど見事に開花している。飛び抜けた才能をこういう処に感じます。


  書き加えるべき事がいまひとつ。捨八とお七のめくるめく時間の、その間際に連結している挿話の存在です。狂恋の焔(ほむら)がふたりの身体へめちめちと燃え移り、止めようのない類焼へ移行していくその少しだけ前にさかのぼって眺めれば、彼らふたりは春の河原を散歩していたのでした。捨八は幼少の頃の記憶を鮮明にさせ、それを熱心に再現しようとしていたのです。(*4)




   蕗の薹(ふきのとう)を摘み、砂糖、みりんで甘くしつらえた味噌と和(あ)えて作る蕗味噌(ふきみそ)を捨八はお七に教えようとします。「母がよく作った」家庭料理を自分のおんなに伝授しようと企てた訳でしたが、男のこの思惑は完遂なりませんでした。家庭の味ということで言えば“味噌汁”とここでは同根の蕗味噌が、おんなに拒絶され、生の人参に敗北したかたちです。


 “食事”が否定され、“食”だけが男とおんなの間を隙間なく充たして密着させています。貧窮した経済状況を表わすのでなく、もちろん場当たり的なものでもなくって、上村さんが練りに練って若い恋仲のふたりにそっと手渡した主菜だったのだと解ってきます。人参をひたすら食(は)みながら寝る間を惜しんで官能に集中していく「狂人関係」のふたりには、上村さんの内側に宿った恋愛哲学が明確に託されている、そのように見取っているところです。




(*1):「狂人関係」 上村一夫 1973-1974 初出は「漫画アクション」
(*2):其の十九 はるかぜ地獄篇[前編]
(*3):映画と言えばね、昨晩午後6時過ぎの回でイタリア映画を観に行ったのですけれど、そこで生涯二度目の独占鑑賞を体験しちゃいました。100席に満たない小さなスクリーンではあったにしても、たった一人で2時間悠々と過ごしちゃって、なんか申し訳ないような嬉しいような、不思議な時間でしたね。武士の情けで題名は控えますが、あれこれ考えさせられる良い映画ではありましたよ。前回は三十年ほど前になります。あの時は途中でフィルムが止まり、掃除のおじさんが箒もって入って来たという思い出があります。おじさんが僕に気付いて「あ、いたんだ!」と叫んだ大声と慌てて映写室に飛び込む音が耳に刻まれていますね。映画館ってそういう驚きがたまにあるから面白いですよね。 
(*4): 其の十七 蕗味噌 ふきみそ

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