昼と夜との寒暖の差が氷柱(つらら)を急成長させています。屋根の庇(ひさし)には1メートルもある長くて太いものが、間隔を置いてずんずん垂れ下がって壮観な眺めです───なんて呑気に話してちゃいけないのかな。あんな固まりが落ちたらトラブルのもとです。雨樋がどこか詰まっているせいかもしれません。屋根も傷むし、困ったな、今度晴れた日にでも登って点検いたしましょう。
季節の主役は雪から氷に。どうか足元に気を付けて、転んでお怪我などなさいませんように……。
さて、先日の続きです。上村さんの劇画において“食事”というものがどのような頻度と色彩で描かれていたか、それをまず振り返らないといけません。ずいぶん昔の作品になるけれど、ここで「マリア」(*1)を引きます。
ひと言で「マリア」という物語を表わすならば、少女が自律したおんなになるまでの成長譚です。世間体にこだわって本質を見誤ってしまった家族に強く苛立った少女は、一切を捨てて歩み始めようとします。「風に吹かれてさまよいながら、でも自分なりに生きてみたい」とささやく台詞はかなりロマンチックなのだけど、内実は過酷な放浪です。先々で色んな家族とまみえては凄惨な愛憎劇を目撃したり、時には若く美しい彼女の肉体が家族間の均衡を崩してしまって逃げるように出立もする。浄化と汚濁を繰り返しながら逞しく成長を遂げていく様子は“冒険”と呼ぶには淋しすぎ、真摯で痛々しいものがありました。
抽象的な台詞や書割(かきわり)然とした舞台設定は70年代初頭という時空が為せるものかもしれないし、当時三十歳を越えたばかりの作者の生硬(せいこう)さに由来するのかもしれない。その分、上村一夫(かみむらかずお)という人の本質が露わになっていて解析の糸口が探しやすいように感じます。ここで描かれる“食事”は、だから極めて意図的なものとなって登場し、場面も絞り込まれているので判じやすいのです。作者の想うところを強く代弁する、そんな確かな表情をしています。
旅程の発端となっているのが、“朝食”の光景というのがまずもって面白い。憤怒と憐憫によってぐつぐつと沸騰寸前となってスープの匙を投げ出しテーブルを立った瞬間、麻理亜(マリア)の旅の実質的な幕が開いている。つまり彼女は家族に別れを告げると同時に“食事”にも背を向けているのです。
山や村、海辺をひとり放浪する主人公が、以来口にする食料はほんのわずかです。それとなく“拒食”が為されていることに想いを馳せる読者は限られるのですが、読み流さないでじっくり眺めれば分かることです。とにかく食べない。まるで苦行に身を捧げる修行僧のようにしてマリアは物をほとんど口に運んでいない。
妊娠したせいもありましたが、唇に運んだ焼き魚にはその臭いにたまらずに嘔吐し、列車に向かい合わせた婦人から蜜柑を、旅先で知り合った子どもから干し柿程度をゆずられ、それ等をかろうじて齧って腹の足しとするばかりであってまっとうな食事を巧妙に避けていく。芸者の真似事をして宴会場から持ち帰った折り詰めを、気持ちの通じ合う病にふせった中年女と分け合うぐらいが関の山で、まともな“食事”に向き合おうとしません。
そうして終幕ぎりぎりの押し迫った頃になって身もこころも委ねるに足る男が遂に登場し、海辺の寒村でいっしょに暮らし始めます。しっとりとした風情を全身に湛えてやわらかく微笑み、長かった歩みをようやく止めるに至るのです。男の支度したイノシシ鍋に「ほっぺたがおちそう……」と舌鼓(したづつみ)を鳴らして、ここでようやく食事らしい食事をすることになる。(*2) 家族と共に“食事”を絶った苦難の旅を終えて、新しき家族を得て“食事”を再開するという流れが導かれている。
上村作品の全体を深々と貫く現象の一端が、ここにはしっかりと顔を覗かせていますね。情念の高潮するときや錯綜する心境下においては、極端にストイックな食の風景だけが展開されていく。渦巻き膨張する観念や思念に押しのけられるようにして、僕たちが“食事”と呼ぶような皿に盛られ、並べられ、バラエティに富んでいる料理の光景は枠線の外、紙面の外にものの見事に消失してしまうのです。
上村さんの作品には太平洋戦争の影が色濃く漂います。色めかしい筆跡でもって官能や恋慕の諸相をつぎつぎと世に出した作者ですが、お話の土台に敷き詰めていたのは、津波のようにして押し寄せては生活をまたたく間に粉砕する戦争の、まがまがしい記憶であり痕跡でした。昭和46年からその翌年にかけて連載された「マリア」においても、随所随所に物狂おしい闇が主人公を待ち構えては翻弄していきます。(*3)
1940年に生まれた上村さんの幼少期の体験がその根底にあるのでしょう。苦しい食糧事情を原体験として持ってもおられますから、少なからずこれも影響を与えてくる。
戦中戦後のひもじさと情念の混濁した記憶、そして、上村さんが人間を見つめ探求し続けて学び取ったもの、それが巡り巡って作品世界の“決めごと”になっている。 「マリア」はその典型です。独特の照度が“食事”の光景に与えられておりました。
(*1):「マリア」 上村一夫 1971-1972 初出は「漫画アクション」 単行本は2003年に上下巻でワイズ出版から上梓されている。
振り返ればこの「マリア」も、素晴らしい本があるよと教わってようやくめぐり合った本でした。あの時知らされなかったら、僕はまるで違った事を考え、まるで違った文章を書いていたかもしれない。もしかしたらブログ自体続けていなかったかもしれない。物やひととの出逢いが随分と人を変えていきますね、不思議なものです。
(*2):実際はここでもマリアは箸を停めてしまい、拒食を再開して巻末ぎりぎりまで緊張を解きません。うねる情念の物語は波を蹴立て進み、なかなか幕を下ろしてくれないのです。しかし、あのとき漁師の大らかなもの言いと逞しい筋骨に、初めて胸の奥底からの安堵を覚えた一瞬がマリアにはあって、そこで魔法のように温かい大きな鍋料理が出現していることは偶然ではない、かなり計算づくの上村さんらしい展開だったのですね。
(*3):たとえばマリアの実父は特別攻撃隊に所属していたパイロットだったのですが、出撃ぎりぎりの瀬戸際に敗戦を迎えてしまい、以来精神を深く病んで酒に溺れていったのです。そして、我が子の誕生を目前にしたある日、岸壁から身を躍らせ入水してしまうのでした。ストーリーをまとめておられる人がいます。参考にしてください。ここです。
http://mangabruce.blog107.fc2.com/blog-category-5.html
0 件のコメント:
コメントを投稿