2010年2月23日火曜日

上村一夫「関東平野」(1975)~上村一夫作品における味噌汁(6)~


 かれこれ二十四年も前になります。駅前の繁華街からちょっと外れたところにあった喫茶店の片隅で、薄まるアイスコーヒーを舐め舐めページをめくったのが上村一夫(かみむらかずお)さんの「関東平野」(*1)でした。


 あの頃は銭湯通いの社員寮暮らし、プライバシーはなくて当然でした。週休二日などは想像だにもせず、指名を受ければ日曜だろうと仕事に出るのは常識です。それは家庭を持たぬ独身者の義務だろうと、自然にこころは割り切れもした。つかの間の休日の午後は意味なく街をぶらつき、路地裏の映画館に飛び込みで入ってみたり、喫茶店の棚に置かれた古い漫画を掌に取って眺めるぐらいが息抜きでした。


 もちろんネットカフェも無ければ、漫画喫茶と冠する店舗もまだ見当たりません。薄暗い照明のなかに座り込み、漂
う紫煙をスパイス代わりに味の薄いピラフをスプーンで運び、さらに薄くなってしまったアイスコーヒーで舌を湿らせるのが休日の、精一杯の僕の安らぎでした。そんな具合で、上村さんの 「関東平野」に気持ちを馳せると、僕のあの頃の“関東平野”がまざまざと記憶に蘇えってくるのです……。それにしても、時代の諸相は本当に変わるものですね。


 ひたすら抒情的に色恋の煩悶を謳い上げるのを得意とした上村さんの画歴にあって、この「関東平野」は硬度のある面影を宿して異彩を放ちます。もちろん愉楽に誘い込む艶やかな筆筋は変わらない。カリカチュアされた容貌が実に巧みで、こうなるともはや名人芸の域でしょう。(*2)


 けれども、最初に読んだ折に僕はひと味足りないように思い、満腹感が得られなかったのです。若かりし日の僕は、「関東平野」をホームドラマと早とちりしたのですね。その頃の僕が求めていたのはどちらかと言えばホームのないドラマだったものですから、軽いいら立ちすら覚えたのでした。──うむむ、赤面の至りです。あまりにつたない読解力であったなと今にして深く恥じ入ります。


 約二年間に渡って「ヤングコミック」に連載されたこの物語は、架空の少年金太(きんた)の成長譚という体裁を採っているけれど、上村さん自身が“原風景のメモ帳”、すなわち“自伝的なもの”であることを公言してはばからない作品です。敗戦直後から復興期にかけてのかまびすしい世相と、明暗ばらばらに咲き乱れる心模様を少年は上目遣いで凝視しながら、ゆるやかに成長していきます。


 広大でありながらもどこか閉ざされた心象を僕たちに与える「関東平野」を舞台と為し、視座を西から東、東から西へとめまぐるしく交錯させながらお話は展開します。戦災により母を喪った幼子金太(きんた)が千葉の片田舎に住まう著述家の祖父にまず引き取られるのですが、共に暮らして数年といったところで病魔が祖父を襲います。


 ふたたび寄る辺を失くした少年に、今度は祖父と盟友であった画家がそっと手を差し伸べて東京に連れ帰り、そこで、ごくごく自然なかたちで金太は画業(上村さんの生業ですね)へ導かれていくのでした。ひとの縁(えにし)は人生のかたちを往々にして大きく変えていくものですが、この物語ではそれを微に入り細に入り描いていきます。多くの人とまなざしを交差させながら、やがて青年は絵描きとして自立するべく発奮していく、そんなおごそかな終幕になっていました。




 僕がそんな「関東平野」を当時、ホームドラマと見くびった理由は何だったのか。その背景にあるのが“食べもの”だったのは違いありません。民俗学者の神埼宣武(かんざきのりたけ)さんは“食事”とテレビ上のホームドラマとの関連を20年程前に上梓した本に書き込んでいます。参考までに書き写してみます。


  テレビドラマにおける食事シーンに注目したことがおありだろうか。気をつけてご覧になれば、そのシーンの多さに気づかれることであろう。時代劇はともかく、現代劇においては、一、二時間のドラマで平均五、六回の食事シーンが登場する。それは家庭での食事が中心であるが、レストラン、居酒屋、バーなどでの飲食までが、ストーリーの展開上さほどの意味がないのにたびたび登場してもいる。(*3)


 「関東平野」での“食べもの”の頻出はそんなホームドラマに匹敵するのです。満腹感が得られなかったと上に書きましたが、例えがあべこべかもしれません。“食べもの”が溢れていたのです。前半部分では毎回のように登場し、それにかぶり付く様子も盛んに描かれていた。チューインガム、焼芋、煮魚の缶詰、煮物、芋アメ、アメリカザリガニ、軍鶏鍋、まんじゅう、おじや、西瓜──。


 彼ら劇中の人物が年齢をぐんと経て世相が落ち着きを取り戻してからも、“食べもの”は間欠泉のように湧いて出ます。カツパン、おでん、まぐろの刺身、とうもろこし、わらびのおひたし、蕎麦、餃子、納豆、サヨリの刺身、ワカサギの天ぷら、板そば、するめ──。


 未熟な僕は“ストーリーの展開上さほどの意味がないのにたびたび登場”してくる“食べもの”に対してほどなく倦怠してしまい、自ら緊張を解いてしまった訳だったのです。


 上村さんにとって“食”と“食事”がどれほどかけ離れた存在であるか、丁寧にそれを読み解いていくに従って「関東平野」の色彩はずいぶん鮮やかさを増していきました。いちいちの描写に作者の底知れぬこだわりと執念を見つけては、なんと言うべきか恐怖すら覚えてしまうのです。「関東平野」は単純なホームドラマではないどころか、まさに上村さん入魂の“メモ”なのでした。


 上に並べられた“食べもの”がいずれも“食事”のなかに埋もれているのでなく、それ単体でふわりと出現している点に着目しなければいけません。満艦飾然に皿が並ぶ中に融け込むのでなく、実にぽつねんと“かぼそい”風体でそれらは出現して金太や劇中の人物を驚かせ、ときめかせている(時にはひどく落ち込ませてもいる)のです。“食べもの”へ向けられた心の揺れはそのまま突き進んで、人間や人生に対しての高揚(または失望)と直結していくのでした。“ストーリーの展開上にさほどの意味がない”どころか、物語の肝の部分が“食べもの”に起因して発現しているのがよく分かる。実に上村さんらしい作品だと言えるのです。


 承知の通り、物語の背景には太平洋戦争直後の食糧事情の悪さがあります。誰の身にも「“食事”は遠ざけられ、かぼそい」ものとなりました。周辺事情をいち早く知り得た者だけが単体でもたらされる“食事とは言い難いもの”に齧りつくことが出来た。そのような強迫的な時間のなかで思念がぎらぎら研ぎ澄まされていき、だから視線は早熟して大人たちの「情念の高潮や心境の錯綜する」様子を敏感に見取ったのだし、実際そのような有様に自身もまた陥っていったでしょう。上村さんの作品世界の“決めごと”、「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそくする」はベクトルが逆向きながらもちゃんと生きている訳です。



  冒頭、金太たちの村にアメリカ軍のB29が不時着するのだけど、飛行機が黄金色に輝く収穫直前の稲田に突っ込みコクピットの風防ガラス越しに稲穂、すなわち“米”がクローズアップされるのも、また、脱出した飛行士の腰元あたりに麦穂がさわさわ揺れるのも、この作品が“食べもの”を鍵と位置づけた建築物であると暗に指し示していたのでしょう。(*4)



 また、銀子の母親が義兄との性戯の最中に勢い余って絞殺されてしまい、漬け物小屋の薄暗がりに白い裸身を横たえるのを、子供ふたりに哀れ目撃されてしまうくだりが左右見開きで描かれたとき、遺骸を優しく覆い隠すように手前に寄せ置かれたのが玄米の皮(ぬか)を取るために棒を突き立てた一升瓶であり、歪んだ取っ手の鉄鍋をぼたりと載せ置いた貧相な七輪という“食べもの”に付随した道具であるのも偶然ではなかった。


 その場に居合わせた金太と銀子、そして肉体を今しがた失ったばかりのおんなの胸中に錯綜する心を、“食事”未満のものを通じて上村さんなりに顕現して見せたのだと今は分かります。(*5)


 長じてからの金太は大人たちが性愛の焔(ほむら)に身を焼かれる様を凝視し、自身もまた恋情のぬかるみに足を捕られていきますが、その折々にまっとうな“食事”ではなくコントラスト鮮やかな“食”が登用されていることを、僕たちはよくよく受け止めなければならないのでしょう。




 自己本位な性格と若くなまめかしい姿態で金太を翻弄する今日子という娘に対し、金太のこころは違和感に苛(さいな)まれ続けます。アパートへの転居を良い機会と捉えて別離を模索するのですが、共にのれんを潜った蕎麦屋で金太は板そばを、今日子はアイスクリームを各々食べるという、実にちぐはぐな孤立した“食”を劇中組み込んでみせる作者の演出力には目を瞠(みは)らされるものがあります。(*6)




 それより何より素晴らしいのは画家柳川大雲を用い体現せしめた“食”と情念のコンビネーションでしょう。飄々とした口調で周囲を煙に巻いてばかりの大雲が、金太に対して芸術論を真顔で諭す場面があります。作者の内実に触れるような深淵で烈しい台詞であるのだけれど、その際に大雲はここぞとばかりに大きく鼻をほじり、臆することなくその指を口に含んでいきます。


 悪魔的な部分を常に胚胎する絵描きの生理と世間ではタブー視される鼻くそ喰いがここでは昏く共振していて、とんでもない迫力を産んでいるのです。“食事”ではない“食”の在るところに“情念”がある、その方程式を如実に描き切った見事な演出です。(*7)


 そしてまた、視力を突如失ってしまった画家は妻の運び置く“食事”を拒絶します。誰にも気付かれぬようにして自死の道を選択するのです。二階の仕事部屋で画紙におかずやご飯を手探りにて膳から移し、くるり包むや球と丸めて隣家の飼い犬へと放ってやるのですが、それは「“食事”を遠ざけて、かぼそくする」ことで「情念の高潮や心境の錯綜」を盛り立てる究極の幕引きを演じて見せた、ということなのです。
  
 上村さんのロマンチシズムや人生の理想が完全に重なると共に、上村劇画の“決めごと”がすっかり集約なっていることがうががえるのです。(*8)






(*1):「関東平野」 上村一夫 1976-1978 双葉社 初出は「ヤングコミック」
(*2):特に銀子の愛らしさ、可愛らしさと言ったらない。真っ直ぐな想いが目尻、口もとにぽっと灯る際の何とも言い得ぬ瞬間がたまりません。実に蠱惑的で魅了されてしまうのです。
(*3):「「クセ」の日本文化」 神埼宣武 日本経済新聞社 1988
(*4):VOL.1 チューイン・ガム
(*5):VOL.3 鬼灯(ほおずき)
(*6):VOL.45 夏の引越し
(*7):VOL.27 ゲイ志願
(*8):VOL.42 花の歌

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