この年齢でそれはないよ、と恥らいつつ、時折、劇場に足を運んではのんびりと極彩色のマンガ映画を楽しんでいます。極端な絵空事にはもはや付いていけなくって、現実に深く拮抗しているものか、発達し続けるテクノロジーが社会や家庭をどう変えていくかをシミュレートする、そんな指先が届きそうな“近しい物語”に限られるのですけどね──。この夏は『借りぐらしのアリエッティ』(*1)と『カラフル』(*2)を観ました。(*3)
いとけない少年少女のお話で、いずれも身近な日本の風景を舞台に選んでいます。あれこれ語るのは年輩者の役割ではないでしょうから、例によって話題を絞ります。『借りぐらしのアリエッティ』は古い西洋風の家屋の床下に小人の家族がこっそり住み着いていて、夜になると忍び出ては食品や雑貨を盗んでいく、そんな一種のおとぎ話、妖精譚です。
原作はイギリスの児童文学らしく、Youtubeには海外でドラマ化されたものの一部が載せられていますね。上で“妖精”と書いたのは原作の持つイメージがきっとこの映像に近しいと思うからです。赤毛のちんちくりんな頭とずんぐりした体躯、甲高い声とバタバタした動きは人間ばなれして見える。コロボックル、座敷童(わらし)、キジムナー、そんな感じです。
映画はそんな奇矯なキャラクターをきれいに捨て去って、寡黙で知的な家長を主軸と為して懸命に団結し、生き残りをかけて手堅い日常を送っている“人間たち”が描かれる。“人間”であれば出逢いもあり、胸の奥につかえて鈍痛を覚える悩みの思いがけぬ吐露だって起きてしまうものだし、密やかな感情の交錯もそっと生じていく流れ。
重い病気をかかえた少年とそわそわして自立を模索する少女が出逢って、雲母のような薄く儚(はかな)い“きらめき”を反射していきます。大胆この上ない換骨奪胎の演出が面白かったですね。
悪い意味ではなくって“可笑しさ”のひとつとして脳裏を駆け巡ったのは、彼ら床下の小人たちの“食生活”についてでした。階上のテーブルでは茶碗にごはんが盛られ、また、味噌汁椀も見受けられます。箸を使ってのささやかな食事が淡々と描かれている。
そのような日本的な食事の“おこぼれ”にあずかっているはずの小人たちの栄養補給の仕方は、どう見ても頑固な洋食主体であって、その段差が僕には相当に意図的に見えたのです。彼らはビスケットを台所からくすねると、それを持ち帰っては苦労してゴツゴツと細かく砕き、ようやっと粉にしてから、どうやらそれをさらに加工してパンか何かに仕上げて主食とするらしい。どうしてまた、そんな回りくどいことを!
海外の原作を採用したことの歪みにも見えますが、それだけでなくって、わたしたちを取り巻く日本食がにちゃにちゃと粘性が高く、扱いにくいという点もあるやもしれません。実際、日本語のなかの食感に関わる形容で、ベタつく感じを表現するものの数は世界でも稀な多さらしい。(*5)
ごはん粒など拾おうものなら、カーマインの素敵なワンピースは澱粉でごわごわとなってしまうでしょう。床下の多湿な空間に濡れたものを持ち込みたくない、というのも理に適っている。思考の末に小人達はビスケットに狙いを定め、カサカサと袋をまさぐる階上の物音に耳をそばだてていくのでしょう。
加えて、いや、実はこっちの方がたぶん本筋なんでしょうけど、納豆や味噌臭い風体で少女が徘徊しては百年の恋も覚めるということじゃあないか。恋情と和食文化とのすれ違いが、意図的にか偶然かは知りませんが二重三重に、けれど、実にさりげなく劇中に起こっているようで、僕は少し面白く思ったのでした。僕たちの胸奥に巣食ったこころの化身のようにアリエッティは見えるのです。
(*1):「借りぐらしのアリエッティ」 監督 米林宏昌 2010 原作はメアリー・ノートン「床下の小人たち」The Borrowers
(*2):「カラフル」 監督 原恵一 2010
こちらの映画では「丸大豆しょうゆ」の容器が幾度か目に飛び込んできます。家族の再生を描く物語の常套として台所脇の食卓が登場するのだけど、彼らの背後にある流しの上のちょっとしたスペースに「丸大豆しょうゆ」がふんぞり返って僕たちを睨んでいます。演出の意図は何か、各人各様に受け止めるしかありませんが、のびのびとした風景とはなっていませんね。“しょうゆ”というのはなかなかに重苦しいもので、現実世界の覚醒を後押しするような役回りが多いのですが、ここの“しょうゆ”もそんな負の気配を纏(まと)って見えます。
(*3):マンガという世界は、思えば瑣末な背景描写のいちいちにさえも取捨選択を迫られる、言わば無制限に“決断”を迫られる場であって、作り手の意識や認識がべろりとさらけ出されてしまう仕組みです。カメラでもって現実の空間を掠(かす)め取る、いわゆる通常の映画と比べて随分と“批評的”に成らざるを得ない。(*4)
現在作られているマンガ映画であるならば、それは間違いなくこの時代を僕たちと共に生きている人間の、リアルこの上ない個人的な“世界観”がスクリーンにつぶさに塗布されていくわけで、観客の抱える“世界観”と衝突したり交合(まぐ)わったり、実は相当に激しい時間になっていく。もしも嘲り笑われるとしたら、その対象は表現手段にとどまらず、いきなり作り手の観察眼や見識といった真髄、真価に向けられる。逃げの利かない勝負を迫られているように見えますね。そんな独特の緊迫感が僕を捉えている、そんなところはアリマスね。
(*4):劇画出身の石井隆さんのように全方位的に目線がゆきとどいて統一した世界観を構築できる実写の監督さんもおられるけれど、そういう人はごくごく稀であるように思われます。
早川文代 (独)農研機構 食品総合研究所 食品機能研究領域 主任研究員 博士(学術) 「日本語のテクスチャー表現から見えてくること」 東洋クリエート株式会社発行「創造 №36」平成22年8月1日発行
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