15メートルとも20メートルとも言われている巨大な津波に襲われ、押し潰された太平洋沿岸の街を訪ねました。支援の行き届かない小さな避難所に足繁く通い、状況をその目で把握し、生の声や要望を直に耳に入れた上で物資を調達、搬入しているボランティアグループがあって、僕の友人のひとりがそれに加わっております。先週、彼らより声を掛けられたものですから、二、三の物資を準備して微力ながら隊列に加わった次第です。
この二ヶ月弱の間に違う小さな町、苺畑と海水浴場で知られた美しい町であったのですが、そこを二度ばかり僕は訪問してはおりました。今回の災害の質が常識をはるかに超えたものであることを実感してはいたのです。
たとえば、ビニールハウスの細い骨だけが1メートル程に断ち切られて、ひゅんひゅんと砂礫(されき)から突き立ち、強風になびく冬枯れの葦(あし)の群生のようになって延々と連なっている悪夢のごとき光景や、
ばりばりに割れたコンクリートの土台だけをかろうじて残し、上にあるべき全てを消失させた家屋跡が見渡す限りに広がっている様子や、墓石が土台から何からごちゃごちゃになって、まるで碁石(ごいし)が盤上に敷き並べられたように真っ平らになっている広大な墓所や、
その隣りにあって壁を壊され窓を破られ、床が跳ね上がり、天井からあれこれの配線や板やパイプがだらだらと垂れ落ちた学校の、その校庭に寄せ集められた五十台あまりの車たちの、これが1ヶ月前には人の夢や暮らしを乗せて走り回っていたとは信じられぬほどに目茶目茶になって、完全に事切れているのが累々と並んでいる様子や、
道端に置かれた泥に染まったプラスチック駕籠(かご)にピンク色のぬいぐるみや途中から折れたトロフィーや、卒業記念のアルバムや漫画のプリントされたバックなどがまだ微かに息づくように顔を覗かせていて、主(あるじ)が帰って来るのをひたすら待ち続けているのに衝撃を受け、ささやかな日常の一瞬で奪われたことの酷さを思い、熱く苦しいものが胸奥にひたひた溜まるようであり、
やがてナビゲーション上では踏み切りのはずが、あるべき場所に鉄路が陰も形もなくなり、7メートルほども過ぎてから飴細工の失敗したようにしてぐねぐねになったレールの成れの果てが土砂に見え隠れしていて、波の力のどれほどであるかを思いながら行けば、大きく遮るものがあり、目を凝らすが、それは黄色の大きな大きな箱であり、しばらく理解不能で何が立ち塞がっているか思いつかない、
ようやくそれは横倒しになった家屋の二階部分であると分かり、裂け目から中を見やれば生活道具が狂ったように渦巻き散乱したままとなり、ハンドルを切って迂回してようやく通過し、そのまま進めば突然に道は切れ落ちて崖となり、その先にあるべき道は消えてしまって青黒い海が広がり、突き出たあばら骨のように橋脚が遥か向うの砂地にあって、その辺りから道は再び形を成すようであるのだが人影も車も一切なく、ずっと向うには小さくクレーンや煙突があってあそこは湾岸施設であるらしい、けれど、動くものとてなく現世には元々なかった蜃気楼を望むような心細さであり、
ナンバーと服装を見れば、この地で暮らしてきたと思われる人たちが一台の車に三人、四人と乗り込み、連れ立って再訪に来た様子であるのが、ぽつりぽつりと背後から現われてはこの崖の手前で停まって、一言も発することなく誰もが、男もおんなも、老人も子供も押し黙って、けれど口元や姿勢に力がこもらず、まるで紙で出来た相撲人形のようにふわふわ、とことこと崖の近くまで歩み寄ると、じっと海原と対岸のおぼろに霞む様子を見つめ、やがて、やはり男もおんなも、老人も子供も黙ったまま車に乗り込んで帰っていく、
点々と自衛隊の皆さんがたたずみ、瓦礫(がれき)の撤去をされている姿以外には人っ子一人おらずに沈黙に覆われた荒れ野に夕陽が赤赤と沈んでいく、目を転じた反対の海からは乳白色の満月が幽かに音もなく浮上していくのが見えて、
つまり、電信柱や街路樹や家屋や行き交う人の姿や車が何もかもが喪われて遮るものが無くなったからなのだけど、そうして赤と蒼に染まった大地によくよく見れば細い角材が無数に突き立ち、その先に白い布切れが結ばれてゆらゆらとしているのは捜索完了の印らしく、それらのほとんど声も音もしない光景を僕は一生忘れようがないと感じたのですが、
町でなく大きな“街”であった場所に今度踏み込んでみれば、こちらもきっと忘れようがない破壊の有り様なのでした。“町”のあちこちに積まれた瓦礫の山にも、あのとき声もありませんでしたが、“街”が津波に襲われるということは夢と希望の打ち砕かれる量も数百倍になっているということで、
イメージとして上手く伝達出来ればいいのだけれど、新聞や雑誌に載っている被災地の写真を残らず切り抜き、今いるその部屋と隣の部屋、トイレから台所から寝室から、廊下から玄関から、すべての空間の四方の壁に、天井から床下までそれら瓦礫の写真を隙間なく貼りつめてそこで歩き、見渡し、座って過ごすと想像すれば、なんとなく感じは掴めるのではないか。とても雑誌や液晶モニターで収まる規模ではないのです。
かつて家屋らしきものが在ったのだろうと、かろうじて想像される泥土に覆われたこんもりと高くなった場所に、菊の花束を抱え、地面に膝を付き泣き崩れている若々しい丸い背中があり、両肩から手を添えて懸命に支えようとする、老いたふたつの影がありました。そのような悲鳴や慟哭をわんわんと残響させた、見渡す限り破壊し尽くされた極限の世界がありました。
災害の既成概念が吹き飛ばされる、そのような険しさが潜む現場です。比較できるものをずっと探しているのだけど、僕の生まれ育った時代に類似する光景はないように感じます。65年以上を遡ってみれば、もしかしたらと思う写真に突き当たるのですが、その忌まわしき過去を実際に見ていない以上、事の性格から言って、これ以上言葉を継ぐ資格は僕にはない。そんな凄まじい現場なのだけど、だからこそ、多くの若い目に見ておいてもらいたい、そんな気がしています。
何百人、何千人が命を落とされた災害の現場に、部外者の身でありながら足を踏み入れることに僕は最初のうちは随分と躊躇していました。それは恥ずべき行為であり、このような事態においては厳に慎むべき事の筆頭に置かれると思っていました。軽率に思えて“町”の話もほとんどしないできました。
けれど、物事の問い詰め方や捉え方がとても参考になると感じ、僕が常日頃読ませてもらっているあるジャーナリストのブログに“自分の問題として考えるために「見学」に行く”ことの強い奨励の言葉があり、また、別な友人の“テレビや映画、与えられた情報に甘んじないで「現実を見せてもらう」”ことの大切さを経験に則して訴える文章を読んだりして、背中を押されるようにして足を踏み出したのでした。それは正しかったと思っています。
見て感じ、血肉と為して自らとその家族、次の世代を守っていく。大切な学びの機会を与えられているように、僕は今の被災地を捉えています。
2011年5月2日月曜日
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