2011年5月31日火曜日
豊田徹也「アンダーカレント」(2004)~買ってきたよ~
悟(幻影)「醤油もうなかったよね ついでに買ってきたよ」
かなえ「………」
悟(幻影)「や ごめん 心配かけたね」
かなえ「……」
木島「かなちゃん!?」
かなえ「……あっ おばさん」
木島「どおしたの ボォーっとしちゃって
ロール紙も買っといたわよ もうあまりないでしょ」
かなえ「うん ありがと」
木島「あんた 本当に大丈夫かい?」
かなえ「大丈夫 大丈夫」(*1)
学生だった頃と就職してからの数年間、住まいと場所をかえて通いつめたこともあって、僕の中には“銭湯(せんとう)”に対するセンチメンタルな思いが燻(くす)ぶっています。タイル張りの床、裸の男たちのたくましい背中や角ばった尻の並んだ様子、飛沫(しぶき)が飛び、泡のざわめく盛んな音と濛々(もうもう)たる白い湯気、からん、ことん、さぶりと反響する天井といったものが忘れえぬ思い出となっている。
今こうして住まう町に銭湯の影を見なくなって久しいのだけど、代わりに温泉が、それもかけ流しで多彩な泉質のそれが身近にいくつかあって(温泉と銭湯は違うのです)、気分がささくれたり心に重石が乗ってくる気配がすると、早めに訪ねては気晴らしするようになっています。湯上りに何か飲んでも500円でお釣りが来る、いわゆる日帰り温泉ってやつです。
お湯は濃い翡翠色であったり、乳白色だったり、まどろむような薄緑であったり、匂いも強烈なものからあえかなものとさまざまで興味深いのですが、何か大地の底に吸い込まれていくような、はたまた見上げる夜空にすっと捕り込まれるような、身体もこころも境界を失い溶けていく感じがたまらない。でも、一方ではあの銭湯の、まっさらの湯となんとも人間臭い時空も棄てがたいものがあって懐かしく振り返るのです。
豊田徹也(とよだてつや)さんの「アンダーカレント」は単行本一冊に収まった小品で、偶然にも温泉帰りに寄った古書店で手にした本だったのですが、家業である銭湯を継いだ“関口かなえ”という名の三十代の女性が魂に深傷(ふかで)を負い、そこから再生していく話です。
父親を看取り、精神的にも体力的にも心もとなく感じられていたとき、後に夫となる男“悟”と出会います。男はあっさり勤めをやめて銭湯を手伝い始め、頼もしい「共同経営者」となって主人公を支えていくのでしたが、ある日、同業者組合の慰安旅行に出かけた際にそのまま失踪して音信を断ってしまうのです。衝撃になんとか耐え、探偵を雇って夫の行方を追わせることを話の主軸としながら、己のこころの底流(アンダーカレント)にじっと向き合い、徐々に快復して行くおんなの魂の道程が緻密な筆致と抑制のきいたコマ運びで描かれている。なかなか読ませる内容なのでした。
ここに醤油が登場していたのです。清掃の手を休めてぼうっと放心しているおんなの目の前に、突如夫が現われます。白いレジ袋を手に持ち、満面の笑みで留守を詫びる言葉のなかに「醤油を買ってきた」という言葉が交じるのでした。一瞬の後、夫の影は日頃手伝いに来てくれている中年女性の立ち姿とすり替わり、主人公が懊悩するあまり白昼夢を見てしまった事を読者は読み解きます。
夢、幻覚のたぐいは支離滅裂なものであって、意味など寄り添わないものが大半だし(*2)、「醤油を買ってきた」という言葉は中年女性の発した単なる連絡事項だったかもしれず、ならば特段の意味は篭(こ)められていないと捉えるのが普通かもしれません。しかし、もう一箇所、作者の執着が垣間見える描写が「アンダーカレント」にはありました。
同業者組合の紹介で働くことになった“堀”という男が開幕早々に登場するのですが、風来坊の男はアパートが見つかるまで裏の物置に寝泊りをさせて欲しいと主人公に懇願します。ほんのしばらくとは言え、若い男がすぐ近くに寝泊りする訳です。緊張するのは仕方ありません。子どものいないおんなにとっては、ひさしぶりの“同居人”でもあったのです。翌朝目覚めてすぐに朝食の支度をしますが、そこで丹念に描かれるのは味噌汁の調理風景でした。ご丁寧なことに鍋の脇には、ボトルに入った醤油も置かれているのが見えます。
住み込みの職人に対し、ささやかな朝食(鮭の切り身を焼いたもの、味噌汁、ごはん、梅干)を雇い主たるおんなが用意するのは至極日本的で自然な振る舞いです。けれど、表情や物腰には柔和なときめきが灯っているのは明々白々であって、この不意の展開を歓迎しているところがある。(*3)
作者の豊田さんは“味噌汁”の面立ちを「家族」と直結させ、とり残された主人公の淋しさや嬉しさを強調しようと試みています。小説空間、劇空間において味噌汁が母親像に連結し、家庭の団欒を彩るパーツに採用されることは特段目新しい表現ではないのだけど、最初に上げた「醤油を買いにいく」という行為はどうでしょう。「家族」と連なるのでしょうか、それとももっと微妙な何かと結ばれるものでしょうか。少し面白い流れです。
ひとたび食卓に置かれてしまえば、むしろ厳格な父親像を浮き彫りにしたり恋情に水を差したりと悪役に回りがちな醤油なのだけど、“醤油を買いにいく”という行為や響きには僕たちの深層に光明をもたらす独特の作用があるようです。サランラップでも爪楊枝でも、シャンプーでも構わないところを、確信を持って作者は“醤油”を選んで見えます。
醤油、味噌といった細々したものすら大切に登用して物語の推進力に加えていく豊田さんは、日常を真摯に捉え、かなり綿密に思案して仕事をこなすタイプに思えます。寡作であられるので世に出ているのはこの「アンダーカレント」以外にはもう一冊だけのようですが、何か発見があるかもしれない。近日中に入手して拝読したいと思っています。
湯に口元までどっぷり漬かっていると、自分が無くなる瞬間と自分と向き合う時間が交互に訪れますね。傍目からは素裸でぼんやりしているだけで、非生産性を極めたひどい在り様なのだけど、人間にとってはとてもとても大事なものみたい。あまり意識させられた事はこれまでありませんでしたが、ああいった弛緩した時間が全くなければ、今の僕たちはきっと別な人間になっていたろうとも思えます。手近な内と外に湯殿があって、僕はずいぶんと恵まれていますね。どうか皆さんも充実したお風呂ライフをお続けください。
善き夜を、好きお湯を。
(*1): 「アンダーカレント」 豊田徹也 講談社 2005 初出は「アフタヌーン」2004年10月号から2005年10月号に連載。引用箇所は7-8頁
(*2):全てがそうとは言わない
(*3):同上48頁
2011年5月27日金曜日
江國香織「「おみそ」の矜持」(2010)~じっと、ちゃんと、~
「おみそ」でいることは、私の性に合っていた。それはおそらく、
私にとって、周囲となんとか折り合いをつける術だった。
以来、いまに至るまでずっと「おみそ」だ。(中略)
こうなったら「おみそ」の矜持を持ち、それを貫くほかにない。
「おみそ」の矜持とは何かといえば、それは「最後まで観察者たること」
だと私は思う。ときどき参加させてもらえるとしても、それはほんとうの
ことじゃない(子供の遊びで言うところのノー・カウント)。「おみそ」は
そこにいるのにいない者であり、その本分は、あくまでも世界の観察に
あるのだ。じっと、ちゃんと、観察し続けることに。
小説家は、だから「おみそ」向きの職業である。(*1)
会合が7時過ぎに終わり、予定していた映画のレイトショーまでちょっと時間が出来ました。幹線道路沿いの書店に飛び込み、ふわふわ回遊して過ごします。新刊コーナーで後ろ髪引かれる題名の本を手に取って覗いているうちに、江國香織(えくにかおり)さんのエッセイ集と出会いました。食べものをめぐっての小文を一冊にまとめたものです。
料理レシピ本や食べ歩きのリポートを否定するのではありません。写真にときめき、涎(よだれ)を誘い、胃袋を刺激して楽しいのだけれど、こっそりと下意識に左右したり、魂を官能から情動へと橋渡しする、そんなやや奥まった食物(味噌、醤油)の役割を僕は追い求めてしまっている。だから、この手の食べもの系エッセイは自然と避けているのだったし、普段は買い求めてまで読むことはありません。
目次のなかに「おみそ」とあって、そんな訳であまり期待せずに頁を開くとなかなかどうして悪くない内容だったのです。味噌を引き合いに出しながら江國さん自身の記憶や哲学が述べられていて、これは名文ではないかと思いました。
「注文したお味噌がきょう届いた」。江國さんはこんな言葉で口火を切ったのでした。気に入りの味噌が無くなると困るから、時折取り寄せなければならないが、この取り寄せがなかなか難しい。そんな不器用な自分を振り返り、「子供同士で遊ぶとき、年下で、みんなと完全におなじことができず、いろいろと大目にみてやる必要のある子のことを、「おみそ」と呼んだ」ことを唐突に思い出します。支離滅裂なんて書くと叱られそうですが、イメージが横すべりして次々と発光していく感じがちょっと可笑しい。
どんどん連想は膨らみます。「おみそ」が「みそっかす」の短縮形と知らぬうちは意味がまるで分からなかったと振り返り、いつしか当時の味噌屋の店頭風景が頭に浮かび、「おみそ」という言葉が身近にあったがゆえに味噌自体が好きで、なにかしら親近感を抱いていたと懐旧します。
そうして江國さんは今の自分は「おみそ」ではないか、友人知人より許されて共に居させてもらう、そんな一歩半程度距離を置いた自分の性分は「おみそ」になっていると考え、けれど、それを爽やかに肯定してみせるのでした。引用したのは締めの部分ですが、「おみそ」を語ってここまで凛とし、誇らしげなものを僕はこれまで読んだ記憶がない。
もちろん、ここでの「おみそ」は味噌でも味噌汁ではない。「みそっかす」という愛称と蔑称の中間にある愛らしく、妙にこころに響く呼び名なのだけど、僕にはそれ以上のイメージが湧いて止まらないのです。“味噌”という地味で目立たない存在が、料理においても、さらには日本という国にあっても確かに「そこにいるのにいない者であり」、その本分は、「最後まで観察者たること」ではないか。世界を食卓や台所からそっと観察して、尽きぬ想いを見えない言葉に綴って届けている「小説家」ではなかろうか。
辞書で“矜持(きょうじ)”を引くと「自負、プライド」とあります。まなざしに強さと厚みをもたらす素晴らしいタイトルですね。元気をもらえた気がします。
(*1):「「おみそ」の矜持」」 江國香織 初出は「週刊文春」号数は把握していません 「やわらかなレシピ」 文藝春秋 2011所収 引用は115-116頁
2011年5月26日木曜日
季節前の海水浴場に
2011年5月25日水曜日
岡本かの子「戦地の兄へ-町家の妹より-」(1938)~みんな元気です~
兄上様、その後御元気ですか。うちではみんなして兄上の御武運を
毎日祈り続けてゐます。兄上がご出征なさつてから早や半歳、
もう秋になりましたのね。その間の御苦労も大抵ではなかつたことと
お察しいたします。(中略)
日本はたとへ戦が長期に亙(わた)つても食料は心配ないといふことです。
でも私たちは手づから野菜を作つて新鮮なものを食べるのもこの際何となく
気を引き立てるものですから、私とお母さんで先頃家の裏の狭い空地ね、
あそこを掘り返して根三つ葉や茗荷の根を植ゑ込んだり、二十日大根の種子を
蒔きました。今では結構それで毎日の味噌汁の実ぐらゐ間に合ひます。
こんな具合ひでうちでも兎に角、みんな元気です。安心して下さいまし。(中略)
兄上様!あなたの好い印象はこの町内の全部の人達の脳裡に深く刻まれて
ゐますよ。何卒、心残りなく専念に闘って下さいませ。敵にも、気温にも、
飲食物にも決して油断なさらぬよう。 妹より(*1)
岡本かの子さんの晩年は日中戦争が起こって大陸への派兵が相次ぎ、事態が泥沼化しつつあった頃でした。林芙美子(はやしふみこ)さんを主人公に据えた桐野夏生(きりのなつお)さんの小説「ナニカアル」(2010 新潮社)なんかを読むと時の軍部は積極的に女流作家を登用し、従軍記事を続々と書かせて国民の昂揚を煽ったことがよく分かりますが、岡本さんとて当然その獰猛な歴史の渦中から逃れることが出来なかったのです。全集をめくる間には戦争に関する文章、それも肯定的な内容のものを幾つも見止めることになります。随筆や論評などに顕著です。
引用したのは昭和13年に月刊誌に発表されたもので、末尾の解題を読むと“「参考慰問文」として掲載”とあります。出兵した家族に向けての手紙はこう書いたら良いのじゃないか、と岡本さんが創作したものであって実際の私信ではありません。食糧事情が悪化する前のどこか呑気な感じがする内容となっていますが、この見本のなかに“味噌汁”が忽然と、ややしたり顔で書かれておりました。
重心は「裏の狭い空地」や茗荷だの大根といった野菜に置かれているにしても、日本のいたる所で懸命に真似て書かれた膨大な数の手紙に“味噌汁”という文字が再現なり、大陸の土を軍靴で踏みしめていた男たちの郷愁を大いに誘ったであろうことが想像されて、ちょっと悲しくなって溜め息をついてしまいました。
文筆業とて生業(なりわい)の一種である以上、意に添わぬものでも我慢して書かねばなりませんし、世情の潮目を読んでおもねった文章を果敢に書くことだってあるでしょう。仕事というものの奥底には必ずそういったものが潜んでいるから、岡本さんの言葉を見ても特段の驚きはなかったのです。でもね、手紙の“見本”とその中の味噌汁という組み合わせは、なんとも言えぬ厭なそぐわない味を口中に残します。苦いというか酸っぱいというか、妙に寒々しい。
僕たちが“その後”をよく知るからです。多くの兵士とその家族、政治を預かる議員や軍人の誰ひとりとして、七年間に渡ってその後起きた殺戮と悲憤の日々を想像し得なかった。穏やかに湯気を立てる嵐の前の“味噌汁”が描かれていて、なんとも物悲しい気分になるのです。
岡本さんを責める訳には誰もいかないでしょう。間違った仕事、恥しい仕事だったと僕は単純には思わない。世相に組み敷かれていく作家の苦渋が生々しく伝わるようだし、それとも岡本さんほどの才覚や観察力を持ちながらも予感出来ずに浮かれてしまったのかは実際のところ分からないけれど、歴史という怪物の先行きのまるで見えぬ怖さ、無慈悲さが体感される貴重な記録と今はなっている。痛痛しくむごたらしい岡本さんの創作ではあったけれど、歴史と拮抗した本物の足跡であって、学ばされるものは多い。
話は少しそれますが、ご長男が大阪万国博覧会の“太陽の塔”をデザインした美術家、岡本太郎さんであることは誰もが知るところです。JRの渋谷駅には黙示録然とした彼の作品「明日の神話」が展示されていて、先日、発電所事故を描いたパーツが第三者によって作られ、作品の片隅に寄り添うようにして貼られて話題になりました。売名であるとか落書きであるとか、手厳しく叱る声はとても多いのだけど、僕は単純に感動してしまいました。生きていれば100歳になっていただろう芸術家はもしかしたら自ら筆を握って同じものを描き足したかもしれない、そんな夢想もしました。だってあの絵は世界の苦悩や矛盾や怒りと向き合っている、そんな時空を超えた補完のされ方が実にお似合いじゃないですか。
メディアミックスの網に誰も彼も、個人も組織も絡め取られていて、叩かれる暇(いとま)もなく出る釘は引き抜かれて永久追放されてしまう、仕事にあぶれてしまう。発言しにくい複雑さ、切なさを僕たちの世界は確かに増しているから、物言えば唇寒しと作家の皆さんのその多くは自重して、コントロールを日々巧みに取っている努力というか必死なところは成程分かるけれど、それにしても余りに静か過ぎると感じます。
科学神話を後押しするならそれを表現していいのだし、覆面を被り、匿名で何か創っても一向に構わない。創作者の遺伝子を継いだ人たちには、この混沌と不安、見えないものに向けて描くなり歌うなりして、僕ら凡人の足元をそれぞれの色とタッチで照らしてもらいたい、そう切実に思います。“その後”をどうすべきか、“その後”に何が来るのかを想像力を駆使してもっと提示してもらいたい。あの落書きに続いてもらいたい、ですね。
(*1): 「戦地の兄へ──町家の妹より──」 岡本かの子 初出「現代」昭和13年(1938) 9月号。岡本かの子全集 第14巻 冬樹社 1977 所載。引用はその529-530頁
2011年5月24日火曜日
岡本かの子「老主(ろうしゅ)の一時期」(1938)~しまつた!~
或る夜も宗右衛門は眼を覚した。広い十畳の間にひとり宗右衛門は
寝てゐたのである。宵に降つた雨の名残の木雫が、ぽたり/\と
屋根を打つてゐた。蒸し暑いので宗右衛門は夜具をかいのけ、
煙草を喫(す)はうとして起き上つた。床の上に座つて枕元の
煙管(きせる)をとりあげた。引き寄せて見ると生憎、煙草盆の
埋火(うずみび)が消えてゐたので、行燈(あんどん)の方へ
膝を向けた――自然、まつすぐに離れ家の方を彼は向いて
しまつたのである。――
(しまつた!)
彼は喉元で自分を叱つた。宗右衛門にとつては最早や此頃の二人の
娘は妄鬼であつた。離れ家はまさしく妄者の棲家であつた。またしても、
お小夜とお里と、それに時たまの例となつて、死んだお辻さへ異形の
なかの一例となつて宗右衛門の眼前をぐる/\とめぐつた。
宗右衛門は煙草を置いて、夏のはじめ泰松寺の老師から伝授された
うろ覚えの懺悔文(さんげもん)をあわてゝ中音に唱へ始めた。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
この口唱が一しきり済んで、娘達のまぼろしの一めぐりしたあとへ、
屋敷内のありとあらゆる倉々の俤(おもかげ)が彼の眼の前で躍り始めた。
黒塗りに光る醤油倉、腰板鎧(こしいたよろい)の味噌倉、そのほか
厳丈(がんじょう)な石作りの米倉、豆倉。
彼は、今度は少し大きな声で経を誦(ず)し続けた。だが、
まばたき一つで、また娘達のまぼろしがかへつて来た。(*1)
市の図書館に行き、カウンターで岡本かの子さんの全集を見せてもらえないか頼みます。しばらくして職員の女性が両手いっぱいに本を抱えて戻って来ました。頬がひくひく痙攣しています。受け取るとかなりの重量、わあ、ごめんなさいね、無理言って。閲覧用の机を借り、自学にいそしむ中学生、高校生に雑じって頁をめくります。
小説に没入した時期は遅かったのだけど、岡本さんの文筆活動は十代の中頃には始まっていました。和歌や仏教に関する文章、随筆が膨大にあり、作家人生の全容を収めたものは別巻、補巻を合わせれば18冊にもなるのです。全集は長男、太郎さんの筆による華麗な装丁も相まってなかなかの風貌を具えています。
岡本さんの創作世界はびっくりするほど多種多彩であり、個別化がどんどん進む僕たちともいまだに接点を作って共振を誘う訳ですが、こうして全集にでんと向き合ってしまうと当然ながら反りの合わないものも中には含まれ、話題の弾まぬ相手と食事を無理強いさせられている気分も湧きます。正直言ってしまえば、最初の熱い思いはやや冷却に向かうところがありました。引く手あまたの人気作家の難しいところかもしれませんね。全てが全てシンクロする間柄がそう無いように、作家と読者の関係だって大抵はちぐはぐなものです。
それでもこころ揺さぶられるものが幾編かあり、味噌や醤油に関する記述も新たに見つかって地平が拡がりもしましたから悪くない休日でした。どのような指痕や切り傷が出来ようと、未知の分野に手を伸ばし触れるのは嬉しく心踊るものがあります。
上に引いた「老主(ろうしゅ)の一時期」は岡本さんの深奥を形成する仏教観が全面に出た小編で、末尾の解題を読むと初出発表誌未詳とあります。昭和13年11月刊行の単行本に収められたので表題もこれに従い1938年としていますが、39年2月に亡くなった岡本さんからすればやはり最晩年の作品のひとつと呼べそうです。
主人公の山城屋宗右衛門は江戸諸大名の御用商人であり、一代にして巨万の富をかち得ました。他人を陥れて成り上がった冷酷非情なタイプではなくって、偉(すぐ)れた彼の商魂によって店の繁栄は磨き出されたと紹介されています。不幸な生い立ちであるのを小僧として雇われたのが最初でしたが、主人夫婦が悪疫で相次いで亡くなってしまい、店は急速に傾いていく。逃げず残って懸命に支え続け、遺児であるひとり娘を妻に迎えて今に至りました。途中切々と訴えている台詞が物語るように「人の命をあやめたことも、人の品物をかすめた覚えも」なく、「覇気と頑強と、精力」で乗り切って来た男なのです。
その山城屋を突然の不幸が襲うのでした。美しい娘ふたりが病に罹り、共に揃って足に重い障害を負ってしまうのです。ひどく悲観した妻は心労がたたって体調を崩し、家族を置いてあっけなく世を去ってしまいます。どうして自分のような実直な男の身にかくも残酷な仕打ちが次々に起こるのかと宗右衛門は烈しく懊悩し、商いにさっぱり身が入らなくなって寺の境内で時間をやり過ごすことが多くなってしまうのでした。その寺で男の身に起きたことと住職との対話を通じて、老境にある男が運命と向き合い、不幸を真っ向から受け止めていく様子が描かれます。絶望の淵から生還し現実を克服していく過程が淡々と、厳かな感動をこめて展開されるのでした。
“生きる”という事は“選択”の連続です。すべきこと、強いられることは多々あって、その一瞬一瞬に真顔で立ち向かわねばいけません。けれど同時に“受容”を強いられ、忍んでいかねばならない局面も実に多い。岡本さんはうねり狂う恋情の波に翻弄され、我が子を喪い、また世相的にも激しい時代を生きた人でありましたから、この選択と受容についての哲学を自分なりに構築したのでしょう。両者の均衡を崩したり、悪戯にどちらか一方に加担して傾けた場合の、魂の損耗し破壊されていくさまを体験的に学んでいる。
「老妓抄(ろうぎしょう)」と同格の、内実が具わったもの、物語を越えたものだと感じました。末尾で示される光景をどう捉えるかは読者それぞれでしょうが、僕にはずいぶんと頷かされるものがあったのでした。
さて、引用した箇所は物語の中盤に置かれた“狂い”の描写です。男は亡き妻のこと、世間の目を避けて屋敷奥に隠栖(いんせい)してしまったふたりの娘のこと、仕事の諸事といった何もかもに真向かう気持ちが失せてしまい、意識から追い払おうと苦心しています。昼間は寺で世俗を離れて鬱々と過ごし、暗くなってから寝に帰ってくる半病人みたいな毎日なのですが、眠りは浅く、夜中に目覚めてつい外を見やった瞬間に、むすめたちが住まう奥の部屋が目に飛び込んでしまったのです。男の心に突如として大波が荒れ立ち、風が吹きすさびます。
堰を切ったようにして立ち現われるイメージの数々。亡き妻と娘たちの面影、嘲笑や困惑を隠せないでいる使用人たちの顔立ちなんかに混じって醤油倉、味噌倉が登場しています。とても作為的で面白い描写です。
山城屋宗右衛門の屋敷がどのようなものかを岡本さんは物語の冒頭、こんな具合に紹介しています。「広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人宛(ずつ)でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。」い、ろ、は、に、ほ、へ、と、という具合に延々と連なる倉が山城屋の特徴だったのです。中には諸国から買い寄せた衣食住に関わる物品が溢れんばかりに収められ、大名屋敷へ買われていくのを待っていたものでしょう。
“屋敷内のありとあらゆる倉”が踊り始めるなかで、醤油と味噌と、穀物倉だけがぶわぶわと目の前に押し寄せてくるのでした。一瞬のイメージに多くの読者は圧倒されてしまい、何が起きたのかゆっくり反芻する余裕はないのだけれど、明らかに岡本さんは僕たちへの心理的作用を狙って数多い倉のなかから醤油や味噌のそれを選んで見えます。
ここで醤油、味噌の担うものは“生きる”という事、かもしれません。“受容”ということかもしれません。“夢を封印するもの”の象徴だったかもしれません。“内側の安定”を示すものだったかもしれませんし、“境界杭”としての役割だったかもしれません。読者それぞれの内奥に巣食うものとガチャンと連結させて、壁に突き当たって身悶えしている男に血肉を与え、実体化させることに見事成功しています。
(*1):「老主の一時期」 岡本かの子 手元にあるのは 岡本かの子全集 第四巻 冬樹社 1974 読みにくいけど「青空文庫」でもアップされていますね
2011年5月21日土曜日
岡本かの子「老妓抄(ろうぎしょう)」(1938)~その頃は嫌だった~
柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。
むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして
気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この
界隈(かいわい)に噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕(つばめ)と
いうそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。
何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。(中略)
縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、
池を埋めた渚の残り石から、いちはつやつつじの花が虻(あぶ)を呼んでいる。
空は凝(こご)って青く澄み、大陸のような雲が少し雨気で色を
濁しながらゆるゆる移って行く。隣の乾物の陰に桐の花が咲いている。
柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の
黴(かび)臭い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、
主婦や女中に昼の煮物を分けて貰って弁当を使ったことや、その頃は
嫌(いや)だった事が今ではむしろなつかしく想い出される。(中略)
彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのでは
ないかと考え始めたりした。(*1)
岡本かの子さんの短編集「家霊(かれい)」(*2)に収まっていた別の作品から引用しています。「永年の辛苦で一通りの財産も出来、座敷の勤めも自由な選択が許されるようになった十年ほど前から、何となく健康で常識的な生活を望むようになった」(*2)ひとりの老妓が、大工に連れられ家に来た柚木という若い電気工に住まいと資金を提供しようと申し出ます。「発明をして、専売特許を取って、金を儲け」たいという男の言葉に気持ちが動き、突然に思い立ったのです。
親子ほども年齢の違うふたりのやりとりに、ちょうど年頃となった老妓のひとり娘が加わって、何とはなしに華やいだ時間が連なります。目立って凄いことが起きるでもなく、陽射しはゆるやかに明暗して夢のごとき時間が過ぎていく。
しかし、発明で食べていくという夢想がどうやら現実的でないと分かってきた男の、そんな幼い精神はやがて時間を持て余して蒙昧し、徐々に生彩を失っていくのでした。いつしか住居兼仕事場から街中へと出奔する日が目立って増えていく。奇妙でぼうっとした連帯は当然に瓦解していき、朝露のそっと消えなくなるように終わりを告げるのでしたが、それで三人のこころに救いがたい傷痕が残るではありませんでした。なんて静かな幕引き。
若やいだ気分に包まれたり、上を向いて過ごすことがここ数年に渡って僕には在ったと振り返る訳なのですが、3月11日の午後以降(こころに)降り注ぐ雨に打たれ過ぎたものか、背中は丸まり目線は下がった感じがします。
岡本さんの描く老境の男女にそんな気分も重なるのでしょう、共振しちゃうところがあって、このお話の抱える淡い影、微かな震え、沈んだ月の残照が浮き立たせる航跡の次第に見えなくなっていく、そんなしっとりと淋しい面持ちが随分胸に来るのでした。
上に紹介した場面は男の心変わりした瞬間を表わしたところで、そこに“醤油”がほんの僅かに、けれど強烈な薫りをともなって使われていました。老妓の世話になる前の、電線を張ったり電球を交換したりした細々とした仕事を懐かしく思い出していく。「こんなつまらない仕事、パッションが起らない」と散々うそぶいていた癖して、板敷きの湿った床に這いつくばって半身を突っ込み突っ込みした台所の棚の奥での、醤油とカビの匂いが入り混じって重くのたうつのを鼻腔の奥にありありと再現してしまって、若い男は大いに動揺しています。
僕たちの思い出に巣食い、時に勇気付け、時には哀憫(あいびん)の淵に突き落とすのが嗅覚の記憶です。ここでの“醤油”の臭いは単調な日常、愉楽や欲望の封殺、無私の時間、派手ではなく地道、無視出来ぬ生計といった、硬性ガチガチの言葉を山のように想起させ、ややネガティヴな印象をもたらしています。さらには「覚醒」という文字も明滅しますね。醤油は恋情に陥ったこころを覚醒させるための小道具として小説世界に多用されるのだけど、ここでも男の妄念をすっかり振り払う局面にまざまざと薫って、目覚ましの役割を果たして見えます。
隷属を嫌って飛び出した農奴が走り疲れて立ち止まり、思い返して暗い林をとぼとぼと農園に引き返していくように、男は“醤油”の香りを追い求めておんな(老妓)の視線の届かぬ場処へと帰っていく。うーむ、どうにも色香のない、くそったれの結末です。
洒脱な会話、自律した時間、注がれる視線と交わる想い、そういったものから逃げ帰って「生活」の現場に戻っていく男は、果たして目覚めたと言えるのか。やはり逆だったように思えます。真に追い求めるべきものを見失い、本質的な覚醒へ至ることなく男はステレオタイプのしがない現世に戻っていく。これから恋愛をしていく若い人には見習って欲しくない顛末ですね。
人生の終幕近くにあった岡本さんらしい、諦観と狂おしさに満ちた男女観が花咲いている。語り口の上手下手を越えた、なんとも深いものがテーマに選ばれていて堪能しました。
(*1): 「老妓抄」 岡本かの子 初出は昭和十三年(1938)の「中央公論」十一月号
(*2): ハルキ文庫 2011 引用箇所はその27-28頁
2011年5月18日水曜日
岡本かの子「家霊(かれい)」(1939)~ふらりふらり~
くめ子は、われとしもなく帳場を立上った。妙なものに酔わされた気持で
ふらりふらり料理場に向った。料理人は引上げて誰もいなかった。
生洲(いけす)に落ちる水の滴りだけが聴える。(中略)
握った指の中で小魚はたまさか蠢(うご)めく。すると、その顫動(せんどう)が
電波のように心に伝わって刹那に不思議な意味が仄かに囁(ささや)かれる
――いのちの呼応。
くめ子は柄鍋に出汁と味噌汁とを注いで、ささがし牛蒡を抓(つま)み入れる。
瓦斯(ガス)こんろで掻き立てた。くめ子は小魚が白い腹を浮かして熱く
出来上った汁を朱塗の大椀に盛った。山椒一つまみ蓋の把手(とって)に乗せて、
飯櫃(めしびつ)と一緒に窓から差し出した。
「御飯はいくらか冷たいかも知れないわよ」
老人は見栄も外聞もない悦び方で、コールテンの足袋の裏を弾ね上げて受取り、
仕出しの岡持(おかもち)を借りて大事に中へ入れると、潜り戸を開けて盗人の
ように姿を消した。(*1)
怪しげな表紙画と題名が目に止まり、書店の通路で足が停まります。しばし迷った末に買うことにしました。小説や映画といったフィクションに気持ちが少し傾くようになって来たのは、“いつもの日常”が戻ってきている証拠でしょうか。いえいえ、事態はまるで収束していないのだし、耳に飛び入る情報は胃袋をぎゅうっと収縮させるに十分な怖い話ばかりです。
異常な状況や恐怖に慣れていくに従い、快感や弛緩に再び手が伸びていってしまう、弱くていい加減なところがすっかり露呈していくようで、書くのが少し恥しい。のだけれど、向かう視線や飛び交う妄念を自分なりにつぶさに解析すれば、幽霊だの死者だの、冥界や狂気、失踪や殺人といった日頃は覗く気になかなかならない分野になびいているところがあって、何かしらの余震が心の奥で起きているのは間違いない。“いつもの日常”とはどこか違っているようです。
「家霊」は“かれい”と呼ばせるのですが、題名通りの中身であるなら屋敷に潜む霊的なるものが題材になっている。怨霊や化け物、狂人がひょいと顔を覗かせ跋扈する楳図かずおさんや諸星大二郎さん、伊藤潤二さんなんかのおどろおどろした漫画を想像してしまいます。唖然として背筋が凍り付く瞬間を待ち望んだ訳でしたが、あにはからんや読み終えてみれば実にしっとりと湿り寄る、巧緻な人情噺になっていて驚かされた次第です。所収された他の短編のどれもこれもが愛らしく、レイモンド・カーヴァーさんの作品をふと思い出したりもしたのです。
岡本かの子さんがその短い人生(享年49)で小説に打ち込んだのは大変遅く、“晩節”と呼んでも可笑しくない時期です。秀作ばかりを選んだせいもあるでしょうが、作品に独特の厚みの感じるのはその為かもしれませんね。ボートを漕ぐといったような激しい動作をともなう場面ですら愁いある影と澄んだ風が付き添い、磨き抜かれた光沢のある風情に世界のすみずみまでが染まっているようであって、まるで良質の映画をゆったりと眺めている気分になる。
夫婦生活の破綻、貧窮、相次ぐ幼子の死といった凄絶な苦闘や、欧州遊学、歌作、仏教による魂の救済といったあえかな、しかし着実な仕合わせを、幾重にも我が身とこころに堆積させて遂に完成の域に至った女性ならではの、密度ある多層が秘められている。言葉の数々が結晶体となって、きらめき溢れて見える。いや、本当の話、頷かされるところが随分と多かったのです。
代表作のひとつがこの「家霊(かれい)」であって、“いのち”と名付けられた店が舞台となっています。「どじょう、鯰(なまず)、鼈(すっぽん)、河豚(ふぐ)、夏はさらし鯨――この種の食品は身体の精分になるということから、昔この店の創始者が素晴らしい思い付きの積りで店名を「いのち」とつけた」(*2)のでしたが、七八ヶ月ほど前から「いのち」に帰って来て、病気の母親に代って帳場に坐りはじめた娘のくめ子はくすぶりの日々に囚われていました。「女学校へ通っているうちから、この洞窟のような家は嫌で嫌で仕方がなかった」(*3)ために、存在感のまるで希薄なままに、毎日を只ぼんやりとやり過ごしているのでした。
気乗りしない理由は母親の面立ちにもあります。遊蕩癖のあった夫に去られた後、ひとりで店を支え、娘を育て、今は病床にある母親なのでしたが、娘の目から見るとその人生と風貌にまるで魅力を感じなかった。「自分は一人娘である以上、いずれは平凡な婿を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。それを忠実に勤めて来た母親の、家職のためにあの無性格にまで晒されてしまった便(たよ)りない様子、能の小面(こおもて)のように白さと鼠色の陰影だけの顔。やがて自分もそうなるのかと思うと」、くめ子は思わず身慄いしてしまうのでした。(*4)
仕事や暮らしといったものに人生を捧げる意味を見失って茫然とする、そんな曇天(どんてん)の時間が誰の胸にもあります。これからの時間や生活がひどくみすぼらしく感じられ、もはや“余生”ではなかろうか、と、どうにもやるせなくなって独り嘆いてしまう、そんな苦しくつらい魔の刻(とき)。僕たちの抱えるそんな惑いや不安に対し、最終コーナーに佇んだ在りし日の岡本さんから明確なメッセージが送信されて来る。具体的な言葉の数々をここで開陳するのはルール違反なので止めておきますが、どれもこれもが胸によく響きました。
上に引いた箇所はこころがくすんでいた娘が開眼する瞬間です。物乞いのように店に日参しては“どじょう汁”を無心する年老いた彫金職人がおり、その話を一対一で聞くうちに仕事の本質や人生の機微の何たるかを娘は悟っていくのでした。
あくまでも小道具に登用されたのは“どじょう汁”なのですが、出汁(だし)のよく利いた「味噌汁」が絶対に欠かせぬ土台となっていて、優しい湯気と香気を立ち昇らせています。神々しいと言えばやや言い過ぎですが、幽幽とした調理場にほのかに暖かい、目には見えぬ何ものかのそっと息づいているのが感じ取れて、確かに「家霊」というのはいるよな、そんな事ってあるよな、と、題名がすとんとお腹に納まったのでした。
入手したのは280円の文庫版です。お釣りが山ほど来る、そんな素敵な本でした。
(*1):「家霊」 岡本かの子 初出は「新潮」昭和14年1月号 手元にあるのはハルキ文庫 2011 引用は87‐88頁
(*2):同72頁
(*3):同74頁
(*4):同75頁
2011年5月6日金曜日
山内久「若者たち」(1967)~ツケで食わしたのか~
6 佐藤家(朝)
モリモリ飯を食う太郎、三郎、末吉の口、口、口。
オリエ「サブちゃん、先週の食費頂戴。八百四十円」
太郎「(ハッと)ツケで食わしたのか」
オリエ「だって、アルバイトのお金まだ入んないっていうんだもの」
太郎「サブッ!」
ミソ汁のお代りをしようとする三郎の手からお玉を取り上げ、
太郎「すぐ出せ。金を」
三郎、冷然と末吉の汁を飲み、食い続ける。
末吉「よせヨ!」
太郎「規律に従えない奴は出ていけ!」
ガンガンと壁を叩く──。
定「朝食四十五円、晩食七十五円、昼食又は弁当七十円」と
書いて貼ってある。(*1)
遅い夕食を取りながらコントローラーでテレビを付けると、長距離トラックの運転手が助手席の相棒に向かって何か怒鳴っているところです。どうやら映画が始まったばかりのようで、題名も分からぬまま目の端っこで追っていると、やがて上に紹介した朝食の光景に切り替わりました。今は絶滅してしまったように思える貪欲この上ない食べっぷりで、椀に盛られた味噌汁を奪い、奪われしながら、こちらもぐびぐびと威勢よく飲み干されていくのです。卓袱台(ちゃぶだい)を挟んで田中邦衛さんと山本圭さん、それに松山省二さんの顔が見えて、あっ、これは「若者たち」だと気付きました。ちょっと胸がどきどきします。
これまで僕はこの作品を疎(うと)んじていた、と言うか、もっと端的に白状してしまえば政治色が濃厚に想えてひどく警戒していたのです。どこかの団体のプロパガンダだと思い、誰がその手に乗るものかと一方的に回路を遮断していました。あれこれ日頃世話になって敬愛している人の口から何かの拍子にタイトル名が転がり出たりすると、おや、この人は思想が偏向しているのじゃないか、こちらの気持ちを酌んではもらえない頑なで困った一面を抱えているのじゃないかと不安を覚えたりしました。そのような訳ですから、どうしても斜め目線はしょうがないのです。タブーを侵すみたいでもあり、据(す)わりの悪いまま見つめることになりました。
早い時期に親を失って、戦災に耐え、貧窮に苦しみ、偏見と闘ってきた五人兄弟の物語です。立ちふさがる様々なハードルを越えていく様子が感動をもって描かれるのですが、膨大な台詞に続いてけたたましい口論が起こり、組んず解れつの大喧嘩に至るというお約束がある。机や座布団が宙に舞い、器や食べものが飛び、人の身体さえばっと跳びかって痛快です。
論議の対象は深刻なものです。経営破綻と仲間割れ、被爆と結婚、労働災害と弱者切り捨て。畳み掛けてくる討論の内容に耳を奪われ、いつしか気持ちが引き込まれてしまいました。製作当時は題材の暗さから配給会社がこぞって難色を示し、公開さえ危ぶまれた作品だそうだけど、コンピューターを駆使した複雑な編集と特殊効果、重奏し混濁する音曲にすっかり慣れ親しんだ今(2011年)の視聴者目線からすれば、むしろしっくり来る分量と盛り付けになっている。時代が追いついて、娯楽作品としての趣きが具わって見えます。
ひとつの事象を五つの方向から見つめて、お互いの感じたまま、思うままを開陳して兄弟は議論を重ねていくのですが、最後の最後まで一方向のみに傾斜を強めたりしません。バランスが取れているのも見事です。片方が劣勢になって追いつめられ、狭い茶の間にひゅうと風が吹き抜けた感じになると、これまで隅で沈黙を守っていた兄弟がおもむろに口を開き加勢してぐいっと平衡を取り戻していく。満々と水を湛(たた)えた大きな水盤を、皆で支えて上手く運んでいるような案配(あんばい)で実に気持ちがいいのです。
社会であれ会社であれ、もわもわとした矛盾を潜み、奥底には泣けてくるよな不合理を孕んでいるものですが、それを単純に断罪するのでなくって、非難する側、弁護する役を兄弟のそれぞれが担って全力でぶつかっていく。当然の事として波は立ち、飛沫(しぶき)は跳ねてずぶ濡れになるのですが、盆を引っくり返して台無しにすることはない。目指す方向はすこぶる建設的であって、基調となる色彩も日本人好みにとことん浪花節的であるから劇中の実生活から乖離したり空転したりしないのです。
つまり、これまで僕の抱いていたイメージこそが余程偏向し、頑なで困ったものだったのです。大いに反省を促がされると共に、急ぎ脚本を担当されていた山内久(やまうちひさし)さんのシナリオ集を探して噛み締めるようにして読みました。
本のなかには「若者たち」の他に続編にあたる「若者はゆく」(*2)、および「若者の旗」(*3)も収められていて、年数を経て兄弟の成長していく様子がたいへん興味深く、面白く拝読しました。学園闘争、労働争議、公害、夢の島、交通戦争といった当時の世相は直接僕たちの日常にリンクするのでないけれど、問題に向き合う姿勢や規範となる型のような普遍的で大事なものを教わったように感じます。
川面(かわも)を呆然と見守るだけでなく、渦中(かちゅう)に身を投ずる気構えで見据え、討論を導き、大丈夫なのか、本当にそうなのか、後で後悔しないのかと納得するまで何度でも蒸し返していくことの重要性を山内さんは訴えてくれている。今回起きてしまった原子力発電所の事故にしたって面倒な討議を排して、楽な方へ楽な方へと流れてしまった国策のツケが回ってきたように感じますし、爆発後はパニックを恐れる余りに情報を統制して自由な論争を封じた結果、ちょっと回復が難しいほどにも不信の念が国中を覆ってしまった。
ほとんどの国民が蚊帳の外に置かれ、曖昧な言葉ではぐらかされ、新たな基準値を押し付けられ、良心の呵責に悩んで飛び出た人には守秘義務の名目でもって口を封じ、金持ち喧嘩せずといった事なのか分からないけれど、ディスカッションはまるで見えぬままに時間ばかりが過ぎていく。
安直に決め付けるのはおかしいし、なによりも危険だよね。話の輪から皆を外して本当にいいのかな、もっと僕たちは丹念に話し合う癖を身に付けた方が良いのじゃないかと、懸命に、親身になって“44年前の若者たち”が語り掛けている。
NHKの電波を介してあの夜、あの時間に同じようにして食い入るように観ながら、僕と近しい思いを抱いたひとは少なくなかったのではなかろうか。羨ましい感じが凄くするんですよね。僕たちはディスカッションをとても希求している。密度があって、誰もが納得できる討論が面前で展開され、意見が尽くされるのを心待ちにしている。
次々に椀に盛られ、奪い合い飲み干されていった「若者たち」冒頭の味噌汁は、ぜいたくな具が入っていない薄っぺらなものだったかもしれないけれど、とても豊かで健康なものに映りました。いくらか貧乏の象徴として登用された気もしなくはないけれど、個食(孤食)を避け、顔付き合わせる仕組みを作り、腹を割った話し合いを誘導してなかなかに味わい深い役柄だったと思うのです。
(*1):「若者たち」 監督 森川時久 1967 引用はシナリオ集「若者たち」 山内久 汐分社 1984
(*2):「若者はゆく 続若者たち」 監督 森川時久 1969
(*3):「若者の旗」 監督 森川時久 1970 たとえばこんな台詞がありました。「生きることの意味は、環境の改善と、生命の再生産だぞ。その二つには誰だって喜びを感じるだろう。だから誰もがそれを円滑に出来るように保証してゆくことが、生きることの意義だし目的だろう」
2011年5月2日月曜日
「現実を見せてもらう」
15メートルとも20メートルとも言われている巨大な津波に襲われ、押し潰された太平洋沿岸の街を訪ねました。支援の行き届かない小さな避難所に足繁く通い、状況をその目で把握し、生の声や要望を直に耳に入れた上で物資を調達、搬入しているボランティアグループがあって、僕の友人のひとりがそれに加わっております。先週、彼らより声を掛けられたものですから、二、三の物資を準備して微力ながら隊列に加わった次第です。
この二ヶ月弱の間に違う小さな町、苺畑と海水浴場で知られた美しい町であったのですが、そこを二度ばかり僕は訪問してはおりました。今回の災害の質が常識をはるかに超えたものであることを実感してはいたのです。
たとえば、ビニールハウスの細い骨だけが1メートル程に断ち切られて、ひゅんひゅんと砂礫(されき)から突き立ち、強風になびく冬枯れの葦(あし)の群生のようになって延々と連なっている悪夢のごとき光景や、
ばりばりに割れたコンクリートの土台だけをかろうじて残し、上にあるべき全てを消失させた家屋跡が見渡す限りに広がっている様子や、墓石が土台から何からごちゃごちゃになって、まるで碁石(ごいし)が盤上に敷き並べられたように真っ平らになっている広大な墓所や、
その隣りにあって壁を壊され窓を破られ、床が跳ね上がり、天井からあれこれの配線や板やパイプがだらだらと垂れ落ちた学校の、その校庭に寄せ集められた五十台あまりの車たちの、これが1ヶ月前には人の夢や暮らしを乗せて走り回っていたとは信じられぬほどに目茶目茶になって、完全に事切れているのが累々と並んでいる様子や、
道端に置かれた泥に染まったプラスチック駕籠(かご)にピンク色のぬいぐるみや途中から折れたトロフィーや、卒業記念のアルバムや漫画のプリントされたバックなどがまだ微かに息づくように顔を覗かせていて、主(あるじ)が帰って来るのをひたすら待ち続けているのに衝撃を受け、ささやかな日常の一瞬で奪われたことの酷さを思い、熱く苦しいものが胸奥にひたひた溜まるようであり、
やがてナビゲーション上では踏み切りのはずが、あるべき場所に鉄路が陰も形もなくなり、7メートルほども過ぎてから飴細工の失敗したようにしてぐねぐねになったレールの成れの果てが土砂に見え隠れしていて、波の力のどれほどであるかを思いながら行けば、大きく遮るものがあり、目を凝らすが、それは黄色の大きな大きな箱であり、しばらく理解不能で何が立ち塞がっているか思いつかない、
ようやくそれは横倒しになった家屋の二階部分であると分かり、裂け目から中を見やれば生活道具が狂ったように渦巻き散乱したままとなり、ハンドルを切って迂回してようやく通過し、そのまま進めば突然に道は切れ落ちて崖となり、その先にあるべき道は消えてしまって青黒い海が広がり、突き出たあばら骨のように橋脚が遥か向うの砂地にあって、その辺りから道は再び形を成すようであるのだが人影も車も一切なく、ずっと向うには小さくクレーンや煙突があってあそこは湾岸施設であるらしい、けれど、動くものとてなく現世には元々なかった蜃気楼を望むような心細さであり、
ナンバーと服装を見れば、この地で暮らしてきたと思われる人たちが一台の車に三人、四人と乗り込み、連れ立って再訪に来た様子であるのが、ぽつりぽつりと背後から現われてはこの崖の手前で停まって、一言も発することなく誰もが、男もおんなも、老人も子供も押し黙って、けれど口元や姿勢に力がこもらず、まるで紙で出来た相撲人形のようにふわふわ、とことこと崖の近くまで歩み寄ると、じっと海原と対岸のおぼろに霞む様子を見つめ、やがて、やはり男もおんなも、老人も子供も黙ったまま車に乗り込んで帰っていく、
点々と自衛隊の皆さんがたたずみ、瓦礫(がれき)の撤去をされている姿以外には人っ子一人おらずに沈黙に覆われた荒れ野に夕陽が赤赤と沈んでいく、目を転じた反対の海からは乳白色の満月が幽かに音もなく浮上していくのが見えて、
つまり、電信柱や街路樹や家屋や行き交う人の姿や車が何もかもが喪われて遮るものが無くなったからなのだけど、そうして赤と蒼に染まった大地によくよく見れば細い角材が無数に突き立ち、その先に白い布切れが結ばれてゆらゆらとしているのは捜索完了の印らしく、それらのほとんど声も音もしない光景を僕は一生忘れようがないと感じたのですが、
町でなく大きな“街”であった場所に今度踏み込んでみれば、こちらもきっと忘れようがない破壊の有り様なのでした。“町”のあちこちに積まれた瓦礫の山にも、あのとき声もありませんでしたが、“街”が津波に襲われるということは夢と希望の打ち砕かれる量も数百倍になっているということで、
イメージとして上手く伝達出来ればいいのだけれど、新聞や雑誌に載っている被災地の写真を残らず切り抜き、今いるその部屋と隣の部屋、トイレから台所から寝室から、廊下から玄関から、すべての空間の四方の壁に、天井から床下までそれら瓦礫の写真を隙間なく貼りつめてそこで歩き、見渡し、座って過ごすと想像すれば、なんとなく感じは掴めるのではないか。とても雑誌や液晶モニターで収まる規模ではないのです。
かつて家屋らしきものが在ったのだろうと、かろうじて想像される泥土に覆われたこんもりと高くなった場所に、菊の花束を抱え、地面に膝を付き泣き崩れている若々しい丸い背中があり、両肩から手を添えて懸命に支えようとする、老いたふたつの影がありました。そのような悲鳴や慟哭をわんわんと残響させた、見渡す限り破壊し尽くされた極限の世界がありました。
災害の既成概念が吹き飛ばされる、そのような険しさが潜む現場です。比較できるものをずっと探しているのだけど、僕の生まれ育った時代に類似する光景はないように感じます。65年以上を遡ってみれば、もしかしたらと思う写真に突き当たるのですが、その忌まわしき過去を実際に見ていない以上、事の性格から言って、これ以上言葉を継ぐ資格は僕にはない。そんな凄まじい現場なのだけど、だからこそ、多くの若い目に見ておいてもらいたい、そんな気がしています。
何百人、何千人が命を落とされた災害の現場に、部外者の身でありながら足を踏み入れることに僕は最初のうちは随分と躊躇していました。それは恥ずべき行為であり、このような事態においては厳に慎むべき事の筆頭に置かれると思っていました。軽率に思えて“町”の話もほとんどしないできました。
けれど、物事の問い詰め方や捉え方がとても参考になると感じ、僕が常日頃読ませてもらっているあるジャーナリストのブログに“自分の問題として考えるために「見学」に行く”ことの強い奨励の言葉があり、また、別な友人の“テレビや映画、与えられた情報に甘んじないで「現実を見せてもらう」”ことの大切さを経験に則して訴える文章を読んだりして、背中を押されるようにして足を踏み出したのでした。それは正しかったと思っています。
見て感じ、血肉と為して自らとその家族、次の世代を守っていく。大切な学びの機会を与えられているように、僕は今の被災地を捉えています。
この二ヶ月弱の間に違う小さな町、苺畑と海水浴場で知られた美しい町であったのですが、そこを二度ばかり僕は訪問してはおりました。今回の災害の質が常識をはるかに超えたものであることを実感してはいたのです。
たとえば、ビニールハウスの細い骨だけが1メートル程に断ち切られて、ひゅんひゅんと砂礫(されき)から突き立ち、強風になびく冬枯れの葦(あし)の群生のようになって延々と連なっている悪夢のごとき光景や、
ばりばりに割れたコンクリートの土台だけをかろうじて残し、上にあるべき全てを消失させた家屋跡が見渡す限りに広がっている様子や、墓石が土台から何からごちゃごちゃになって、まるで碁石(ごいし)が盤上に敷き並べられたように真っ平らになっている広大な墓所や、
その隣りにあって壁を壊され窓を破られ、床が跳ね上がり、天井からあれこれの配線や板やパイプがだらだらと垂れ落ちた学校の、その校庭に寄せ集められた五十台あまりの車たちの、これが1ヶ月前には人の夢や暮らしを乗せて走り回っていたとは信じられぬほどに目茶目茶になって、完全に事切れているのが累々と並んでいる様子や、
道端に置かれた泥に染まったプラスチック駕籠(かご)にピンク色のぬいぐるみや途中から折れたトロフィーや、卒業記念のアルバムや漫画のプリントされたバックなどがまだ微かに息づくように顔を覗かせていて、主(あるじ)が帰って来るのをひたすら待ち続けているのに衝撃を受け、ささやかな日常の一瞬で奪われたことの酷さを思い、熱く苦しいものが胸奥にひたひた溜まるようであり、
やがてナビゲーション上では踏み切りのはずが、あるべき場所に鉄路が陰も形もなくなり、7メートルほども過ぎてから飴細工の失敗したようにしてぐねぐねになったレールの成れの果てが土砂に見え隠れしていて、波の力のどれほどであるかを思いながら行けば、大きく遮るものがあり、目を凝らすが、それは黄色の大きな大きな箱であり、しばらく理解不能で何が立ち塞がっているか思いつかない、
ようやくそれは横倒しになった家屋の二階部分であると分かり、裂け目から中を見やれば生活道具が狂ったように渦巻き散乱したままとなり、ハンドルを切って迂回してようやく通過し、そのまま進めば突然に道は切れ落ちて崖となり、その先にあるべき道は消えてしまって青黒い海が広がり、突き出たあばら骨のように橋脚が遥か向うの砂地にあって、その辺りから道は再び形を成すようであるのだが人影も車も一切なく、ずっと向うには小さくクレーンや煙突があってあそこは湾岸施設であるらしい、けれど、動くものとてなく現世には元々なかった蜃気楼を望むような心細さであり、
ナンバーと服装を見れば、この地で暮らしてきたと思われる人たちが一台の車に三人、四人と乗り込み、連れ立って再訪に来た様子であるのが、ぽつりぽつりと背後から現われてはこの崖の手前で停まって、一言も発することなく誰もが、男もおんなも、老人も子供も押し黙って、けれど口元や姿勢に力がこもらず、まるで紙で出来た相撲人形のようにふわふわ、とことこと崖の近くまで歩み寄ると、じっと海原と対岸のおぼろに霞む様子を見つめ、やがて、やはり男もおんなも、老人も子供も黙ったまま車に乗り込んで帰っていく、
点々と自衛隊の皆さんがたたずみ、瓦礫(がれき)の撤去をされている姿以外には人っ子一人おらずに沈黙に覆われた荒れ野に夕陽が赤赤と沈んでいく、目を転じた反対の海からは乳白色の満月が幽かに音もなく浮上していくのが見えて、
つまり、電信柱や街路樹や家屋や行き交う人の姿や車が何もかもが喪われて遮るものが無くなったからなのだけど、そうして赤と蒼に染まった大地によくよく見れば細い角材が無数に突き立ち、その先に白い布切れが結ばれてゆらゆらとしているのは捜索完了の印らしく、それらのほとんど声も音もしない光景を僕は一生忘れようがないと感じたのですが、
町でなく大きな“街”であった場所に今度踏み込んでみれば、こちらもきっと忘れようがない破壊の有り様なのでした。“町”のあちこちに積まれた瓦礫の山にも、あのとき声もありませんでしたが、“街”が津波に襲われるということは夢と希望の打ち砕かれる量も数百倍になっているということで、
イメージとして上手く伝達出来ればいいのだけれど、新聞や雑誌に載っている被災地の写真を残らず切り抜き、今いるその部屋と隣の部屋、トイレから台所から寝室から、廊下から玄関から、すべての空間の四方の壁に、天井から床下までそれら瓦礫の写真を隙間なく貼りつめてそこで歩き、見渡し、座って過ごすと想像すれば、なんとなく感じは掴めるのではないか。とても雑誌や液晶モニターで収まる規模ではないのです。
かつて家屋らしきものが在ったのだろうと、かろうじて想像される泥土に覆われたこんもりと高くなった場所に、菊の花束を抱え、地面に膝を付き泣き崩れている若々しい丸い背中があり、両肩から手を添えて懸命に支えようとする、老いたふたつの影がありました。そのような悲鳴や慟哭をわんわんと残響させた、見渡す限り破壊し尽くされた極限の世界がありました。
災害の既成概念が吹き飛ばされる、そのような険しさが潜む現場です。比較できるものをずっと探しているのだけど、僕の生まれ育った時代に類似する光景はないように感じます。65年以上を遡ってみれば、もしかしたらと思う写真に突き当たるのですが、その忌まわしき過去を実際に見ていない以上、事の性格から言って、これ以上言葉を継ぐ資格は僕にはない。そんな凄まじい現場なのだけど、だからこそ、多くの若い目に見ておいてもらいたい、そんな気がしています。
何百人、何千人が命を落とされた災害の現場に、部外者の身でありながら足を踏み入れることに僕は最初のうちは随分と躊躇していました。それは恥ずべき行為であり、このような事態においては厳に慎むべき事の筆頭に置かれると思っていました。軽率に思えて“町”の話もほとんどしないできました。
けれど、物事の問い詰め方や捉え方がとても参考になると感じ、僕が常日頃読ませてもらっているあるジャーナリストのブログに“自分の問題として考えるために「見学」に行く”ことの強い奨励の言葉があり、また、別な友人の“テレビや映画、与えられた情報に甘んじないで「現実を見せてもらう」”ことの大切さを経験に則して訴える文章を読んだりして、背中を押されるようにして足を踏み出したのでした。それは正しかったと思っています。
見て感じ、血肉と為して自らとその家族、次の世代を守っていく。大切な学びの機会を与えられているように、僕は今の被災地を捉えています。
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