2011年5月18日水曜日

岡本かの子「家霊(かれい)」(1939)~ふらりふらり~



 くめ子は、われとしもなく帳場を立上った。妙なものに酔わされた気持で

ふらりふらり料理場に向った。料理人は引上げて誰もいなかった。

生洲(いけす)に落ちる水の滴りだけが聴える。(中略)

握った指の中で小魚はたまさか蠢(うご)めく。すると、その顫動(せんどう)が

電波のように心に伝わって刹那に不思議な意味が仄かに囁(ささや)かれる

――いのちの呼応。

 くめ子は柄鍋に出汁と味噌汁とを注いで、ささがし牛蒡を抓(つま)み入れる。

瓦斯(ガス)こんろで掻き立てた。くめ子は小魚が白い腹を浮かして熱く

出来上った汁を朱塗の大椀に盛った。山椒一つまみ蓋の把手(とって)に乗せて、

飯櫃(めしびつ)と一緒に窓から差し出した。

「御飯はいくらか冷たいかも知れないわよ」

 老人は見栄も外聞もない悦び方で、コールテンの足袋の裏を弾ね上げて受取り、

仕出しの岡持(おかもち)を借りて大事に中へ入れると、潜り戸を開けて盗人の

ように姿を消した。(*1)


怪しげな表紙画と題名が目に止まり、書店の通路で足が停まります。しばし迷った末に買うことにしました。小説や映画といったフィクションに気持ちが少し傾くようになって来たのは、“いつもの日常”が戻ってきている証拠でしょうか。いえいえ、事態はまるで収束していないのだし、耳に飛び入る情報は胃袋をぎゅうっと収縮させるに十分な怖い話ばかりです。


異常な状況や恐怖に慣れていくに従い、快感や弛緩に再び手が伸びていってしまう、弱くていい加減なところがすっかり露呈していくようで、書くのが少し恥しい。のだけれど、向かう視線や飛び交う妄念を自分なりにつぶさに解析すれば、幽霊だの死者だの、冥界や狂気、失踪や殺人といった日頃は覗く気になかなかならない分野になびいているところがあって、何かしらの余震が心の奥で起きているのは間違いない。“いつもの日常”とはどこか違っているようです。


「家霊」は“かれい”と呼ばせるのですが、題名通りの中身であるなら屋敷に潜む霊的なるものが題材になっている。怨霊や化け物、狂人がひょいと顔を覗かせ跋扈する楳図かずおさんや諸星大二郎さん、伊藤潤二さんなんかのおどろおどろした漫画を想像してしまいます。唖然として背筋が凍り付く瞬間を待ち望んだ訳でしたが、あにはからんや読み終えてみれば実にしっとりと湿り寄る、巧緻な人情噺になっていて驚かされた次第です。所収された他の短編のどれもこれもが愛らしく、レイモンド・カーヴァーさんの作品をふと思い出したりもしたのです。
 

岡本かの子さんがその短い人生(享年49)で小説に打ち込んだのは大変遅く、“晩節”と呼んでも可笑しくない時期です。秀作ばかりを選んだせいもあるでしょうが、作品に独特の厚みの感じるのはその為かもしれませんね。ボートを漕ぐといったような激しい動作をともなう場面ですら愁いある影と澄んだ風が付き添い、磨き抜かれた光沢のある風情に世界のすみずみまでが染まっているようであって、まるで良質の映画をゆったりと眺めている気分になる。


夫婦生活の破綻、貧窮、相次ぐ幼子の死といった凄絶な苦闘や、欧州遊学、歌作、仏教による魂の救済といったあえかな、しかし着実な仕合わせを、幾重にも我が身とこころに堆積させて遂に完成の域に至った女性ならではの、密度ある多層が秘められている。言葉の数々が結晶体となって、きらめき溢れて見える。いや、本当の話、頷かされるところが随分と多かったのです。


 代表作のひとつがこの「家霊(かれい)」であって、“いのち”と名付けられた店が舞台となっています。「どじょう、鯰(なまず)、鼈(すっぽん)、河豚(ふぐ)、夏はさらし鯨――この種の食品は身体の精分になるということから、昔この店の創始者が素晴らしい思い付きの積りで店名を「いのち」とつけた」(*2)のでしたが、七八ヶ月ほど前から「いのち」に帰って来て、病気の母親に代って帳場に坐りはじめた娘のくめ子はくすぶりの日々に囚われていました。「女学校へ通っているうちから、この洞窟のような家は嫌で嫌で仕方がなかった」(*3)ために、存在感のまるで希薄なままに、毎日を只ぼんやりとやり過ごしているのでした。


 気乗りしない理由は母親の面立ちにもあります。遊蕩癖のあった夫に去られた後、ひとりで店を支え、娘を育て、今は病床にある母親なのでしたが、娘の目から見るとその人生と風貌にまるで魅力を感じなかった。「自分は一人娘である以上、いずれは平凡な婿を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。それを忠実に勤めて来た母親の、家職のためにあの無性格にまで晒されてしまった便(たよ)りない様子、能の小面(こおもて)のように白さと鼠色の陰影だけの顔。やがて自分もそうなるのかと思うと」、くめ子は思わず身慄いしてしまうのでした。(*4)


 仕事や暮らしといったものに人生を捧げる意味を見失って茫然とする、そんな曇天(どんてん)の時間が誰の胸にもあります。これからの時間や生活がひどくみすぼらしく感じられ、もはや“余生”ではなかろうか、と、どうにもやるせなくなって独り嘆いてしまう、そんな苦しくつらい魔の刻(とき)。僕たちの抱えるそんな惑いや不安に対し、最終コーナーに佇んだ在りし日の岡本さんから明確なメッセージが送信されて来る。具体的な言葉の数々をここで開陳するのはルール違反なので止めておきますが、どれもこれもが胸によく響きました。


 上に引いた箇所はこころがくすんでいた娘が開眼する瞬間です。物乞いのように店に日参しては“どじょう汁”を無心する年老いた彫金職人がおり、その話を一対一で聞くうちに仕事の本質や人生の機微の何たるかを娘は悟っていくのでした。


 あくまでも小道具に登用されたのは“どじょう汁”なのですが、出汁(だし)のよく利いた「味噌汁」が絶対に欠かせぬ土台となっていて、優しい湯気と香気を立ち昇らせています。神々しいと言えばやや言い過ぎですが、幽幽とした調理場にほのかに暖かい、目には見えぬ何ものかのそっと息づいているのが感じ取れて、確かに「家霊」というのはいるよな、そんな事ってあるよな、と、題名がすとんとお腹に納まったのでした。


 入手したのは280円の文庫版です。お釣りが山ほど来る、そんな素敵な本でした。

(*1):「家霊」 岡本かの子 初出は「新潮」昭和14年1月号 手元にあるのはハルキ文庫 2011 引用は87‐88頁
(*2):同72頁 
(*3):同74頁
(*4):同75頁

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