2010年3月23日火曜日

上村一夫「60センチの女」(1977)~上村一夫作品における味噌汁(10)~



健二「おばさん………」

大家「(テレビに釘付け)クキキキッ!」

健二「おばさん!」

大家「何か用かい?」

健二「お味噌いりませんか?」

大家「いるいる さっきあんたのところへ送られてきたやつだね」

健二「全部あげます……俺は味噌は使いませんから……」

大家「そうかい そうかい じゃあ遠慮なくちょうだいしますよ」

健二「あの……そのかわり………」

大家「かわり!?」

健二「今月の家賃…少し 待ってもらえないでしょうか?」(*1)


 世間では上村一夫(かみむらかずお)さんを、首尾一貫した単色の作家と捉えがちです。四十代半ばでの夭逝が理由としてまず大きいですし、歳月は記憶の枝葉を伐(き)り揃えていき、いつしか故人の印象を整理してしまいます。亡くなったのが1986年でしたから、もう24年も経っている。どうしてもイメージを括(くく)りたくなる気持ちもよく分かるのです。


 けれども、最近出された単行本には、当時の連載に携わった原作者や編集者の親情溢れる文章が寄せられていて、そこでは世相や時流を敏感に察知する能力に上村さんが長けており、技法なり題材なりを難なく替えていくありし日の姿が懐旧されているのです。首尾一貫どころか、どんどん変わっていったということですね。実際一歩、二歩と作品に顔を寄せて観るならば、幹を伸ばす方角を訪れる節目ごとにぐいぐいっと曲げていったのがなるほど分かります。


 例えば──1974年にユリ・ゲラー Uri Gellerさんが来日しました。ブラウン管の前で親も子もスプーンの柄(え)をしきりに撫ぜてみたり、壊れた時計が今にも動き出しやしないかドキドキと見守ったりと大騒ぎでしたね。南山宏(みなみやまひろし)さんの空飛ぶ円盤、中岡俊哉(なかおかとしや)さんの幽霊をテーマとするミステリー本が売れに売れた頃でもあります。上村さんはそんな奇怪な流行りものを果敢に取り込んで、ぐいぐいっと方向を曲げた作品をこの頃に編んでいるのです。「60センチの女」(*1)と「星をまちがった女」(*2)と題された連作です。



 どちらの主人公も宇宙から来訪したおんなで、はた目には人間とあまり変わりません。「60センチの女」が移り住んだ金星荘は今ではあまり見られなくなった古い木造のアパートで、隣接した貸家には漫画家志望の健二が暮らしていました。ふたりの部屋はそろって二階にあって隙間は60センチメートル程度しかなく、双方の窓を開くと伸ばした手と手が届く、いや、それどころか部屋から部屋への往来すら可能という舞台設定でした。奇妙なタイトルはこの舞台設定に由来しています。(*3) 


 自然に言葉を交わし始めた男女は、やがて生活物資の貸し借りや散歩などの日常行動を共にしていきます。高橋留美子さんの「うる星やつら」(*4)とちょっと似た感じだけれど、それより先行していた点からは上村さんの器用さ、商業デザイナーとしての攻めの姿勢や職人らしいさらさらした血流が窺えます。


 “根暗”とか“ネアカ”という形容が娯楽媒体を席巻し始めた時期とも、調度その頃は重なっていますね。どおくまんさんの「嗚呼!!花の応援団」(1975)、江口寿史さんの「すすめパイレーツ」(1977)、鳥山明さんの「Drスランプ」(1980)といった作品に宿る、乾いた描線と明るいお話が読者に好まれました。上村さんはそんな世情もよく汲んで、絵柄はいつにも増して淡々としたものになっていく。



  胸底にゆらゆら灯(とも)る情炎と葛藤をひたすら内観する時間が影を潜めています。これまでの定石だった、立ち止まって手探りするような余白や間合いがずいぶんと減じられているのです。弾みが付いて転がるボールみたいです。幼く甲高い嬌声をきゃあきゃあ上げながら、ポンポンころころと転がっていく感じ。


 “奇怪な流行りもの”にひたすらおもねった“ネアカ”の“乾いた”作品として二作は見えなくもなく、ファンの間でも熱心には語られることがない半ば忘れられた作品となっている訳です。けれど、僕の観方は逆なんですね。上村さんらしい内実を満々と湛(たた)えていて、むしろ集大成に近しい重要な位置にこの連作は在る。




 「うる星やつら」や「Drスランプ」の根幹とは起承転結を区切らずに延々と繰り返されるドタバタ、なんて書くとファンの方から謗(そし)りを免れないだろうけれど、あの時代をあまねく覆い尽くしたスラップスティック‐コメディ群の、それこそ何でもありのハチャメチャな状況が上村さんと「60センチの女」に跳躍の自在を与えたのは違いなく、結果としてそれが作者の抱く哲学、人生観を最短距離でかたちに成すことに繋がっている。


 つまり、リアルでありたい、映画的でありたい、息継ぎやまなざしを生きた人間に重ねたいと腐心した“劇画”の自縄自縛から脱しているのです。天空より舞い降りたふたりの別世界のおんなは思うがままに行動し、歯に衣着せぬ言葉を周囲に投じて一歩も引かぬ構えです。そんな彼女たちの言動からは、上村さんの生々しくも毅然とした想いが透けて見えてくる。



 “食(べもの)”の不自然な登用とさりげない胸中の吐露、その独特の手法も「60センチの女」ではより突き抜けたものになりました。皆に“ムー”とあだ名されたおんなは、ラーメンだろうとフランス料理だろうと何でもござれの消化機能を持っているのですが、原則的には異世界から持ち込んだキャベツ(によく似た植物)を裏の空き地で育ててはこっそり収穫し、その葉をぴりぴりと千切っては口に運んで暮らしている。「かぼそき“食”」もいよいよ此処に極まれり、といったところです。



 これに対しておんなに懸想する青年健二に、どんな“食(べもの)”が寄り添ったものか。身体ひとつで越して来ては炊事も何もないだろうと朝食を勧めると、ムーは臆することなく健二の部屋にやって来ます
。「パンとコーヒーとミルクか──日本では 朝食にお味噌汁がつくんじゃないの?」 そんな質問をムーは(意味ありげに)投げ掛けるのでした。健二は答えを濁しています。


 礼を述べて去ったおんなと入れ替わるようにして男のもとに郵便小包が届くのですが、それは故郷の母親が送って来たもので、がさごそ包装を解いてみれば中身はでんと箱に詰まった“味噌”の固まりなのでした。「
味噌か……こんなものより 金が先だってのに…」健二はそれを階下の大家へ献上して、代わりに家賃の延滞を申し出るのです。



 外宇宙から来たおんながキャベツの葉ばかりをがりがり齧るのも、田舎から上京した漫画青年が母親の差し入れを煙たがるのもありふれた話に見えます、が、はたして易々(やすやす)と受け流して構わないものかどうか。どう考えたって可笑しいですよね、かなり作為的で不自然な事象です。このようにして上村さんは「かぼそき“食”」、「遠ざけられる“食事”」という作劇上の“決めごと”をより極端な顔付きで、これまで以上に断固たる風貌にて物語に挿し込んでいる。


 いつもの流れならおんなと男の気持ちは共振を始める道理ですが、これまでのルーティンは起動しない。「情念の高潮を惹き起こし、胸の奥の洞窟に潜むものを覚醒」させることはない。まるで回路が破断したかのような感じで、一向に熱情がたぎって来ない。これは一体全体どういう事なのか。


 先に引いた「すみれ白書」において、“家庭的でない時空”においてのみ、そして、“生活の場を遠く離れた”そのような場処においてのみ愛というものが極限まで開花し、本当の意味での“食”の充足もあると明言してみせた上村さんでしたが、その流れを踏まえての“愛の不在”を真正面から訴えて僕には見えます。


 “愛の不在”は、これまでも遠回しに述べられてきた上村恋愛劇の“結論”であったのだけれど、それを直球勝負で具象化する舞台やキャストに恵まれて来なかった。家庭を知らず、生活を憎む“すみれ”という突飛な造形が先にあったことは有ったけれど、それを遥かに上回る強い存在を創出しなければ想うところを描き切れない。そこで、はたと上村さんは気付いたのではないか、そうか“宇宙人”という手が今なら許される、そんな時代じゃないかと。まあ、僕なりの推論に過ぎないのだけれど、そのように考えると潮目は明瞭になって滔々(とうとう)と眼前を流れ始めるのです。


 「日本では 朝食にお味噌汁がつくんじゃないの?」と問われた矢先に土着的で生活臭の沁み付いた山盛りの“味噌”が郷里から届けられたことも象徴的だったのだけど、その後で金策に走り回ったものの成果まるでなく、空腹で舞い戻った健二が「(大家に味噌を)やるんじゃなかった……パンに味噌塗れば……味噌パンか………」と天を仰いで嘆息するのも、思えば異様にしつこい台詞の畳み掛けでした。青年健二には“味噌”が寄り添っていて、こってり包み込むようにしてここで描かれているのは「家庭」「日常」「生活」にまみれ、郷里を引きずり翻弄されるままの不甲斐ない男の姿です。“食事”を決然と「遠ざける」ことの出来ぬ、生活者の本音です。


 男自らの手で味噌をどっち付かずの場処に葬(ほう)むってしまったことで、当然おんなは味噌汁を口にすることはなかった、と共にキャベツをふたりして食(は)んで暮らしていくでもない。実に意味深な“すれちがい”が描かれ、上村さんらしい“食”の光景になっています。(*5)


 男(生活者)のおんなへの必死の懇願や愛の囁きに対して上村さんは、「非家庭、非日常」の化身たる“ムー”という宇宙人という絵柄のカードを切って断固「拒絶」している。そして、かえし返しおんなの口を借りるかたちで、男やその家族に向けて「愛はいけない」誤った現象なのだ、男女間の狭苦しい“愛”は人類皆が自覚すべき病魔だと説き続けるのです。


 喜劇のふりをしているけれど、もはや笑っているどころの騒ぎではなくなった。延々とおんなと男の宿命的なすれ違い、違和感、そして孤独が謳われるばかりです。くちづけを交わし、音楽を奏でて共有し、時に声がけして励まして笑顔を贈り合った仲のおんなと男でしたが、わずか空隙を遂に埋めることが出来ません。それが「60センチの女」と「星をまちがった女」に託された作者の宣言であり、上村さんが描き続けた数々の恋愛劇の頂(いただき)なのです。


「情念の高潮や心境の錯綜が“食事”を遠ざけて、かぼそくする」(マリア)

「かぼそき“食”が情念の高潮を惹き起こし、胸の奥の洞窟に潜むものを
覚醒させていく」(狂人関係、関東平野)

「家庭的でない時空においてのみ、情念の高潮や心境の錯綜は手を携えて
新たな次元に踏み出すことが可能となり、その時“食事”もまた喜悦に
加担する」(すみれ白書)
 
「しかし、おんなと男の関係の帰結は家庭である以上、情念の持続は終息
へ向かう。そこでは“食”の効力はまるで薄れて、埋没するか孤絶する
ばかりで記号としてもはや共振することはない。与えるべきものが奪い
合うものへと変質し、互いを憎しみと哀しみに染めていく。男女間の
“愛”は過ちに満ちたもので、忌避すべきか乗り越えていくべきものだ。」
(60センチの女)


 ──上村さんの道程をじっくり辿って来るならば、このような“決めごと”が綺麗に順序良く並んでいく。マリア、捨八、お七、金太、大雲、すみれ、ムー……。姿かたちや性別を変えながら与えられた試練に立ち向かい、その都度生まれ出る“句読点”にて少しずつ少しずつ岩肌を穿(うが)って彫り進めたその末に、上村世界の核心たるものの輪郭が露わになっていく。あくまでひとりの作家の創造し得た虚構を土台として成り立ってはいるのだけれど、幾度となく入念にシミュレートを重ねて到達したものだけに相応の説得力に満ちていて、今の僕をしずかに頷かせるものがあります。




(*1): 「60センチの女」上村一夫 1977-1978 連載は漫画アクション 最上段で紹介したのは「VOL.2盗人の種子(たね)は…?」より
(*2):「星をまちがえた女」上村一夫 1978-1979
(*3): そうそう、僕の青春時代は確かにこんな貸し家が当たり前のように有りました。なんか懐かしいですね。窓越しに恋愛劇が巻き起こるスタイルは、みやわき心太郎さんの作品にもあります。1975年春に「平凡パンチ増刊号」に掲載なった「窓」を起点とする「捜愛記」という連作です。翌年76年にかけて4回に渡って描かれ、朝日ソノラマから出された単行本「あたたかい朝」に所載されています。「60センチの女」の発想と関わりがあるのかどうかは不明だけど、みやわきさんの「窓」の方が発表時期は先行していますね。けれど状況の相似は認められても、内容の段差がすこぶる大きい。竹取物語や鶴女房のバリエーションとはいえ、ずいぶんと淋しくきびしいお話です。
(*4): 「うる星やつら」 高橋留美子 1978-1987 宇宙人の娘が現代社会に降り立つ話自体にはそんなに奇抜さはありません。「コメットさん」(1967-1968)もありますしね。



(*5):「星をまちがった女」では“隠喩”を盛り込む手法は世相に馴染まないと判断されたものでしょうか、“食(べもの)”は光を放つこともなくなり、生活の断片としてすっかり埋没しています。空飛ぶ円盤から連れてこられた卵形の万能ロボットが洗濯や掃除を行ない、味噌汁も器用に作って皆に振る舞う始末です。(VOL.25生活の意味) ひとの気持ちとは乖離した、ありきたりのものに“食(べもの)”は堕して見えます。続けて1979年に発表された「やっちゃれトマト」では、“隠喩”の回避はさらに顕著に行なわれました。



 「星をまちがった女」は「60センチの女」と設定そのものが似ています。漫画家のところに異星人が飛び込んで来るという状況もそっくり受け継がれていて、セルフリメイクの様相を呈している。けれど、それゆえに興味深いのは、「60センチの女」では健二という男のもとを訪れたものが、「星をまちがった女」でのコンマというおんなは女流作家の松井スマ子を急襲していることですね。おんなと男の間にだけ恋が萌え起つとは思いませんが、異性を実質的に排除して生活喜劇に努めようとしています。“愛の不在”の徹底振りに拍車がかかっており、“終着駅”に降り立って以降の上村さんの作劇に対する決定的な姿勢が窺えるわけです。

 上村さんにとっても、日本の「劇画界」にとっても、ひとつの時代が終息したことが如実に示されているように思いますね。線路の終わりでレールがぐにゃっと曲げられ立ち上がり、空を虚しく切り裂いているのがありますよね。あれと感じはどこか似ています。ちょっとさびしい、ぼんやりしたそんな感慨に囚われているところです。

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