「なんもないなあ」
台所の棚を開いても、食材はおろか、鍋や食器もろくにそろっていない。
いつでも山のように食材が積まれ、鍋が温かさそうな湯気を立ち上げていた
飯田家の台所とは比べるべくもなかった。(中略)
「男の人の一人住まいって、こげなもんなのかなあ」
布美枝が台所で味噌壷を開けて中を確かめていると、玄関戸をノックする音と
ともに、「おーい、おるか」と男の声が聞こえてきた。(*1)
「ゲゲゲの女房」(*2)の視聴率が悪くないらしい。放送時間が15分間繰り上がったことが功を奏したという意見もあるけれど、多くの出来事の勝因や敗因というのは様々なことが複雑に絡み合ったもの。漫画に関心を寄せる層の取り込みが数字に繋がったのかもしれないし、それより何より、景気の足踏み感がドラマ注目の背景として大きいように感じられます。
水木しげるさんは誰もが認める漫画界の覇者です。この連続ドラマは彼の半生を主軸にしていますから、僕たちは物語の幕が“勝ち戦”で終わることを既に知ってしまっている。いくら暗雲が行く手を遮ってゴロゴロと雷鳴が轟いても、怖いものは一切ありません。この安定感が、先ずもって視聴率に貢献しているのは違いないのです。
リアルな成功譚をがっしり据えながらも、祝杯に至るまでの赤貧の諸相をオモシロ可笑しく綴ってみせる懐旧型の構成は、大財閥を築いた男が新聞記者相手に回想談義してみせる日曜夜の大河ドラマとも近似しているし、かつて大ブームを巻き起こした「おしん」(*3)にも通底するものがあります。
一から十までフィクションで構築されたサクセスストーリーに対しては、ふん、そんな夢みたいなこと起きゃしないよ、寝むたいコト言うんじゃないと嫌悪をもよおし、しかし失敗談はと言えば観ていてどうにも息苦しい、とてもじゃないが居たたまれない。そんな苛立ちと焦りを懐胎した僕たち視聴者がぞろりモニターの前に陣取っている。ちょっとでも反発を覚えたら即座に、容赦なくチャンネルを回さんと決め込んで、リモコンのボタンに載せられた人差し指はピクピクと痙攣すらしている。そんな手厳しい取捨選択の網を「ゲゲゲの女房」は、まんまとすり抜けて見えます。
また、昭和30年代後半の生活事情をうまく醸し出そうと奮闘する衣裳担当者によって、人物の羽織るセーターやシャツはモノトーンにいずれも染まっていて、これが昨今の安売り衣料量販店の送り出す原色を主体とする服と重なって見えなくもない。
かくして、僕たち平成のサバイバーたちは主人公夫婦にすんなり気持ちを託していくのです。いつかは脱却されるはずの、爪に火を点すが如き極貧の生活へと舞い戻ることに苦痛を覚えずに済む訳ですね。送り手と受け手のコンビネーションはだから抜群、とてもうまく出来ている。企画の勝利といったところです。
事実を根底とする以上は、悪戯にお話を拡げる余白はそう残されていない。観ていて驚きはあまりないのだけれど、角か取れて至極まろやかなノド越しなのです。新しいふりして実は古酒並みに熟成している。老いた職人の手わざを横でのんびり見学しているような、くすぐったいような愉しさが何処からともなく湧いてくる。そんな感じの15分間になっています。
さて、僕が個人的に関心を寄せているのが、脚本家山本むつみさん(単身によるのか、制作者、原作者が総出で知恵を寄せているのか定かでないのだけれど)──が送り出す生活臭の強さと、いくらか誇張気味に描かれる“味噌”なのです。
上に引いた場面は調布の水木さん(向井理)の家に新妻の布美枝(松下奈緒)が引っ越して来た初日の光景だけれど、ここでは底を突きかけて、内側に黄金色の味噌がぺたぺたとこびり付いた“味噌壷”がクローズアップされていました。
この場面と対峙する光景が放送初回には描かれていますね。同じく台本をノベライズしたものから書き写してみましょう。まだ幼い時分の布美枝が祖母に命じられて自宅奥の蔵に足を踏み入れる場面です。
登志から味噌蔵に味噌を取りにいってくるようにいわれて布美枝は肩を落とした。
(中略)漬物樽などが並ぶ味噌蔵はシンとして薄暗く、空気はひんやりと湿っていて
少しばかりカビくさかった。ドズンドスン!不意に天井から音が聞こえ、一瞬にして
布美枝の体がこわばった。続いて……バラバラバラと怪しげな音がした。
何かおるん?薄闇の中を見回した。目には見えない何かが闇の中でふくふくと息づき、
布美枝を見つめている気がした。(*4 )
谷崎潤一郎の「少年」(*5)と似たシチュエーションがここでは組み立てられています。醤油や味噌の振りまく芳香と物置独特の湿度と暗がりが密接に連なって僕たちに提示され、非日常の空間に手を引き誘(いざな)っていく。それと同時に布美枝の育った家の、金銭的、物質的な充足、生活基盤の安定が重量感を具えた大きな味噌樽によって明確に謳われていました。
貧富のバロメーターとして味噌の量目が採用されていて、山本むつみさんはそれを露骨に増減して見せるのだけど、味噌自体への眼差しにはフラットなものが感じ取れる。そこがなかなか面白いと僕は思うのです。
例えば石原裕次郎と浅丘ルリ子の「赤いハンカチ」(*6)は昭和39年(1964)公開の映画であって、「ゲゲゲの女房」と描かれる時代はピタリ重なっているのですが、「赤いハンカチ」での“味噌汁”にはいくらか時代遅れのもの、無垢なもの、困窮のイメージといった複雑な光が賦与されていました。どちらかと言えば負の視線が突き刺さっていたのです。対して「ゲゲゲの女房」の“味噌”は堅実と安息の目盛りとして素直に活かされており、随分と良い席におさまって見えます。
ひとつの事象でも百人百様の捉えかたがあるのは当然のことですが、僕は単に脚本家の生理がぼんやりと形を成したとは思えないのです。
物事のいちいちの色彩は、その折々に住まう人間の精神状態に大きく影響され変化し、身に纏う明度はまったく異なってしまう。時にはみすぼらしく、時には晴れがましく描かれ、物語で割り当てられる“意味”がまるで違っていく。東京オリンピック開催を目前とする成長期とリーマンショックの痛手から回復出来ぬままに下降を続ける今では、世界の見え方がこうまで違う、ということではないかしらん。
“味噌”は大衆の心理に即応して明瞭に担う役割を変えていく、そんな極めて心理的食物であることを山本さんの台本が証し立てている。
今後、水木家で味噌がどのような役割を果たすものか、しばらく目が離せそうにありません。僕たちが僕たちの今の暮らし向きをどう捉えているか、それが確実に反射して来るでしょう。何気なく流されるドラマもそうして観れば、なかなか奥深いものです。
(*1):「ゲゲゲの女房」(上) 原案 武良布枝 脚本 山本むつみ ノベライズ 五十嵐佳子
NHK出版 第2章 さよなら故郷
(*2):NHK連続テレビ小説 朝8時より放送中 挿入した画像はホームページから引用
http://www9.nhk.or.jp/gegege/
(*3):「おしん」 NHK 1983-1984
(*4):「ゲゲゲの女房」(上) NHK出版 第1章 ふるさとは安来
(*5):「少年」 谷崎潤一郎 1911
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1911_23.html
(*6):「赤いハンカチ」 監督 舛田利雄 1964
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964.html
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_25.html
http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_30.html