2009年5月23日土曜日

谷崎潤一郎「少年」(1911)~醤油樽(しょうゆだる)のある場処~


二人はひそひそと示し合わせて、息を殺し、跫音(あいおと)を忍ばせ、

そうっと小屋の中へ這入った。併し仙吉は何処に隠れたものか姿が見えない。

そうして糠味噌だの醤油樽だのゝ咽せ返るような古臭い匂いが、薄暗い小屋の

中にこもって、わらじ虫がぞろぞろと蜘蛛の巣だらけの屋根裏や樽の周囲に

這って居る有様が、何か不思議な面白い徒らを幼い者にそゝのかすようであった。



 髪を切ってきたところです。襟足がすっきりして気持ちが軽く、爽やかになりました。いまはネットラジオで「ラ・ボエーム」を聞きながらこれを書いています。 ささやかな整理整頓の時間、といったところです。

 さて、このところ集中して(といっても寝る前のちょっとした時間ですけど)谷崎潤一郎を読んでいます。僕のこころの師匠である舞台演出家さんが谷崎作品を台本にすべく格闘していると聞いたからで、矢も盾もたまらずに小説や評論を探しては、ちょこちょこ読み進めています。

 明治44年(*1)に書かれた「少年」のなかに“醤油”の二文字が見つかります。正式には“醤油樽”なんですけどね。

 尋常四年生の主人公の“私”は素封家に住む姉弟と友だちになります。彼らの家に招かれて遊んでいるうちに、戯れは徐々にエスカレートしていきます。子どもであるがゆえの歯止めが利かぬ、直線的で残酷な要求が次々押し出されます。縛られたり踏まれたり、どうしようもなく翻弄されているうちに、“私”は深い恍惚を感じていく。そんなお話です。


 獣性の剥き出しになった要求は人目につかない納屋や、洋館の奥の密室で発生しています。人間のこころの奥に潜むものが、そんな暗い闇のなかで開花することが示されているのですが、これって何もマイナスのことばかりではないでしょう。プラスであれ、マイナスであれ、人間のこころの仕組みとはそんなものでしょう。真に燃え上がるものは、存外インドアなものです。

 こんなことを聞いたことがあります。夜にはお酒もふるまう飲食店で、酒屋と醤油屋に注文の電話を入れます。 悪いけれど今日中に持ってきてくれる。ちなみにここは地方都市で、おしょう油の蔵元が自分たちでお客さんまでお届けする仕組みね。

 しょう油屋の店員は新米で、このお店への納品は始めてです。まだ開店前で店内は照明を落として薄暗く、カウンター辺りで店主がのんびり仕込みをしているのが見て取れます。入口から挨拶をして入ろうとしたら、あ、悪いけど裏から回ってくれる、と店主からの一言。重たい思いをしながらも“そりゃ当然だ、失礼しました”と謙虚な気持ちでやり直します。

 狭苦しい裏口からごとごと入ってカウンター奥の収納庫に納品をしていると、そこに酒屋が到着したのが流し場越しに見えるじゃないですか。すんなり正面から荷物を抱えて入ってきて、カウンターで店主と談笑を始めています。“酒は正面から、おしょう油は裏口から”同じ醸造元でも明暗が大きく分かたれます。しょう油は裏舞台を支える、そんな地味な存在だと印象づけられる話です。


 しかし、谷崎の「少年」の世界に香ったものは“裏口”の匂いでありました。裏口に置かれていればこそ、見える世界が確かにあります。情念の世界、真心の世界、解放された世界には裏口から入っていかなければなりません。
 
 マルキ・ド・サドを三島由紀夫は「天国への裏階段をつけた」(戯曲「サド侯爵夫人」 第三幕)と捉えましたが、そういった言い方をなぞるならば、おしょう油は「こころの扉に最も近い場処にある」ということでしょうか。 (え~~、いくらなんでも、ちょっと、そりゃ無理じゃないかぁ)


(*1):谷崎潤一郎ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E



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