さち「チカあんたね なんにでも しょうゆ かけんのやめなさいよ
僕ぐらいの年齢で“吉田秋生(よしだあきみ)”の名を聞けば、たぶん似たような感慨を誰もが抱くんじゃないかな。最近の「YASHA 夜叉」(1996‐2002)はゴメンナサイ、見てないからノーコメントという感じではありますが、青春の甘い記憶と共に幾つかの作品がまざまざと蘇えります。
高血圧になるわよ! おばあちゃんみたいに!」
チカ「だってー さち姉のつけもの 浅すぎるよ── 味しないじゃん」
さち「浅づけなんだから いーの!」
チカ「だってー さち姉のつけもの 浅すぎるよ── 味しないじゃん」
さち「浅づけなんだから いーの!」
僕ぐらいの年齢で“吉田秋生(よしだあきみ)”の名を聞けば、たぶん似たような感慨を誰もが抱くんじゃないかな。最近の「YASHA 夜叉」(1996‐2002)はゴメンナサイ、見てないからノーコメントという感じではありますが、青春の甘い記憶と共に幾つかの作品がまざまざと蘇えります。
「河よりも長くゆるやかに」(1983-85)や「吉祥天女」(1983-84)であったり、「桜の園」(1985-86)での抑制の効いた構図が鮮明に浮かびます。 「BANANA FISH」(1985-94)は途中から退場、プツンと暗転しちゃった。就職と同時にアッシュや英二とさよならをしたのだったなあ。だから、ちょっと後ろめたい感じが今もしているわけね。
中篇や短篇の得難い名手なのは間違いない。そうそう、そうだった。「河よりも─」や「桜の園」の、さわさわした静電気で背中をすっと引きずられるような、静かな余韻を湛えた幕引きにはいつも感嘆して見惚れたものです。
書店で目に留まりパラパラめくったこの「海街diary」には、そんな初期の短篇の息吹がありました。海風のように吹き寄せてふんわり香りました。その澄んだ世界を思い切り胸の奥に吸ってみたくなり、年甲斐もなく買っちゃいましたよ、ハハハ。
しっかり者の長女・幸(さち)と酒好きで年下の男に弱い次女・佳乃(よしの)、いつもマイペースな三女・千佳(ちか)。
鎌倉の祖母の残した家で暮らしていた3人のもとに、
幼いころに別れたきりだった父が残した“異母姉妹”を迎えることになり…。
海の見える町に暮らす姉妹たちの織り成す清新でリアルな家族の絆の物語。
第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。
(小学館『月刊flowers』ホームページより抜粋)(*1)
父親が妻と幼い三姉妹を置いて浮気相手と行方をくらまし、数年後には母親すらも男を作って背中を向けます。残された香田姉妹は鎌倉の祖母の家で育ち、各々年頃になり恋愛などもちらほら始めて、実人生との直面と選択を余儀なくされていく。人間としてもおんなとしても“開花の時期”に差し掛かっていく。
そんな折に父親の病死を告げる連絡が、遠く山形の湯治場から伝えられます。出向いた姉妹はそこで異母妹にあたる“すず”という娘に対面し、彼女を鎌倉に引き取っての共棲が幕を開けます。
吉田秋生版「細雪」「阿修羅のごとく」なのですが、姉妹の心理描写や展開に気負いやムリがいよいよ無くって、「河よりも─」のリズムをホウフツさせる自然体があります。肩ひじ張らずに、豊かで柔らかい触り心地です。 とっても好感が持てました。
現時点では二巻までしか出ていませんが、これまで脇役であった次女のチカちゃんがどんな活躍や成長を遂げるのか、登山家の恋人とは上手くいくのか、よくドラマにありがちな常套手段の怖いこと、哀しいことは待っていないだろうか、と、ハラハラしながら追いかけたいと思っています。
このチカちゃんが“お醤油っ子”なんですね。お料理に滅多やたらにお醤油をかけまくります!そのたびに食卓ではひと騒動起こるんです。
お姉さん! 最近の研究結果では塩分の摂取と高血圧には単純な相関はないらしいっすよ。今度“しょうゆ情報センター”発行の「しょうゆを科学する」(*2)をコピーして送ってあげましょう。わざわざ購入した貴重な僕の虎の巻です。あ、あ~~、そうか、お姉さんは看護師でしたね、失礼しました!余計な口出しはやめますね。
考えてみれば食卓の上に置かれて出番を待つ“おしょう油差し”というのは、不思議な役割を担っています。調理した側からすれば、味見もしないでちゃぷちゃぷと醤油を垂らされるのは口惜しい話です。失礼しちゃう、わたしの苦労を台無しにして! けれど、結局のところはそれを黙認し、緩やかに受容するわけですね。
ソースは通常“仕上げ”じゃないですか。とんかつにしてもキャベツの千切りにしても、かけることで完成です。ケチャップなんかもそうかな。おひたしや湯豆腐にかける場合には同じかもしれないけれど、醤油の場合は案外チカちゃんみたいな“オレ様の味にしてやる”式の使われ方が多いよね。
家族ひとりひとりに味覚と嗅覚の段差があり、「ひとつのもの」では到底埋められない。しょう油の後差しによる変幻自在を通じて“自分とは違う個性”を容認していく無言劇が、緊張と弛緩をサンドイッチしながら繰り返されていきます。家族各々がいずれはバラバラになる前兆をはらんだシンボリックなもの、精神的なものを懐胎しているように感じます。(え~~、そうかあ~?)
庭には植樹してから半世紀を経た梅の古木が一本あって、姉妹はたわわに生る実を毎年漬け込み、梅酒作りに精を出すのを恒例行事にしているのですが、それにも次女佳乃スペシャルがあったりします。似ていないこと、はみ出る姿勢がすんなりと受け止められています。
巣立ちが迫っていることがアリアリと受け取れますね。バラける覚悟が当初から育っている、ある意味徹底した“家族崩壊劇”であり“自立(自律)の物語”なんだよね。
家屋に縛られたり、まして寺やお墓に縛られて歩みを自ら放棄し、一生の指針を大きく狂わせることは取り返しのつかないこと、間違っていることだと僕は思います。香田家のみなさんの晴れやかな出発の日が、無事に訪れることを祈ります。ガンバってくださいね、応援しています!
さて、現実世界に戻って──。マスクの品切れは深刻ですね。工場や大規模オフィス向けの大量パッケージも品切れで、納品は六月の下旬との話を耳にしました。市販品もそのぐらい迄には店頭に戻ってくるのでしょう。それまでの我慢です。 必要枚数を数えて、それ以外は勇気をもって困っている知り合い、同僚にすすんで分けるべきだと思いますね。
ひとの不幸の上に自分の幸せを築くのは、ちょっとサビシイ。寒々しいミーイズムの世界でなく温かく、笑顔に満ちた社会を作りたいよね。
(*1): 小学館『月刊flowers』ホームページ
http://flowers.shogakukan.co.jp/artists/art_c.html
(*2):「しょうゆを科学する」紹介ページ(PDF)
http://www.soysauce.or.jp/news/files/20041029-22.pdf
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