2009年5月25日月曜日

石原裕次郎「赤いハンカチ」(1964)②~漂泊のはじまり~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。
    私のおみおつけ、とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」

 昭和39年1月に公開されたこの映画を、僕はリアルタイムで観ていない。だから、ここで年長の識者ふたりの意見を仰ぎたいと思う。テキストにするのは関川夏央(せきかわなつお)著「昭和が明るかった頃」(文藝春秋 2002)と、少し年数が経っているけれど矢作俊彦(やはぎとしひこ)の「複雑な彼女と単純な場所」(新潮文庫 1990)の二冊。筆者らの生年月日から足し引きすれば公開当時は十四、五の多感な時期であるから、さぞ思い入れも深かろう。
 
 関川は「赤いハンカチ」に「戦後社会と観客の変質」を読み取っている。昭和39年の公開当時、労働格差、生活環境の段差が加速度を付けて拡がっていた。物狂おしい渇望とその裏返しの憎悪が火勢を強めた野火のように表層化していく。そんな経済背景があっての怨嗟に満ち溢れた「赤いハンカチ」なのだから、当然ながら“私のおみおつけ”はヒロインの純真を描くという単純なものではなく、段差を浮き彫りにするために登用された象徴のひとつだったと位置付けている。
『赤いハンカチ』の前半で特徴的なのは、労働という観念、あるいは
労働者そのものへの強い憧れである。裕次郎が北海道を放浪する
肉体労働者となったのは、たしかに自罰行為ではあるにしろ、工場
で体を動かしているのが好きだといったルリ子と、遠く離れながらも
おなじ地平で立っていたいという願望の表現だった。


それは一方で「ブルジョワ的市民生活」への強い反感としてあらわれる。
その象徴がルリ子の(中略)毛皮のコートである。また彼女と二谷が
住む家のたたずまいである。


 “大衆”という一枚板に亀裂が走り、粉塵をばらばらとまき散らすような、べたべたと口中が苦いような、言い知れぬ不快感を混ぜ込んだ無数の視線がスクリーンを射抜いていたように読める。そういう生臭い解析は、同時代を生きた者にしか出来ないなぁ。


 一方の矢作は浅丘ルリ子演じる玲子という娘が内包する分裂や多層に着目し、「赤いハンカチ」とは社会変遷によって女性の意識、物腰が大きく羽化したことのひとつの顕現であったと断じている。


 「それまでの日本映画のヒロイン像から、あまりにもかけ離れている」玲子というおんなは時代のシンボルとして機能しているから、不自然でおかしな言動が目についたのだと書き留めていて、なるほどと感心する。手のひらでまさぐって得た触感の記憶を、そっと追想するようなやるせない分析であって、やはり同時代人のみが持ち得る意見だと思う。


自分のつくった食べ物を、それも味噌汁なんかを「とっても美味し
いんですよ」と言って、初対面の客に勧める日本人などいるだろうか。
男は、すぐさまそれを「いただきます」と受け取り、一口飲み、
「うまい!ヘソまであったまる」と笑い返す。すくなくとも昭和三十
年代、このやりとりはあまりに絵空、あまりに無国籍だった。
しぐさひとつにしても、この二人のそれは日本人から遠く離れていた。
彼と彼女の肉体がなければ失笑しか買えなかったろう。しかし、
事実、そこにあったのは、十三歳のガキにもぞくっとくるような
幸福感だったのだ。


 ここで彼らふたりの「赤いハンカチ」への(愛すればこその冷徹な)憧憬を“おみおつけ”という視座から見つめ直してみると、実は相当に哀しい気分に引きずり込まれてしまう。オリンピックと万国博覧会を目前とした“現在”ではなく、そこからさかのぼること四年という“過去”に“おみおつけ”は組み込まれている。

 その過去とは観客の目には「あまりに絵空」であった。郷愁に駆られて振り返りはしても、もはや生活の主軸ではない。理想と掲げたり、人生を賭して殉ずるには到底値しない。あたかも夢のようなふわふわと浮ついた「幸福感」でしかなくって、内心密かに渇望する「ブルジョワ的市民生活」とは相容れない。脇に追いやっていくべきものなのだ。フィクションに近しい存在だという「色分け」が、“おみおつけ”にしっかり為されてしまっている。


 裕次郎は自分を虜にした「おトウフ屋さぁん!」「私のおみおつけ」を、もはやルリ子に再現させようとしない。なぜ、あの時、彼女を固く抱きしめ、もう二度と離れるものか、おれのために“トウフのみそ汁”を毎朝作ってくれ、と言えなかったのか。「それまでの日本映画のヒロイン像から、あまりにもかけ離れている」浅丘ルリ子の成熟をよく認め、みそ汁を作らせる行為がもはや甘いフィクション、捨て去るべきフィクションだと気付いているからだ。


 けれども、だからと言って横浜に残って、彼女と共に豪奢な「ブルジョワ的市民生活」を目指すでもない。裕次郎はひたすら絵空の記憶に埋没するようにして、背中を私たちに見せて漂泊を開始してしまった。

 この時点をもって、日本人のこころから“おみおつけ”は乖離してしまった。彼と一緒に当て所ない漂泊を開始したのじゃないか、その漂うままに2009年の今もどこか彷徨って落ち着いていない、と僕は考えている。捨て去れないまま、胸の内に抱えながら歩いているように思う。



 そうそう、そういえば、三月末に頼んでおいたETC端末がようやく来ました。漂泊者の一員になって、北の大地を目的も半端に走ってみようか、と“絵空”に遊んでいるところです。





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