2010年9月12日日曜日

晩夏

 若くして逝った家族を供養するものとして、僕の住まう地方には神社へ“絵馬”を奉納する慣習があります。


 いや、慣習と呼べるほど根付いてはいないのだけど、そういった切実なこころを受け止める装置と成っている社(やしろ)が幾つか点在している。昨日訪れたところはその代表格のような場処でした。車一台がやっと通れる細い道を辿った先の、山ふところに抱かれて小さな堂が佇んでいます。


 黄泉の世界で佳き人とめぐり逢って祝言をあげ、子宝にも恵まれることを遺された家族が祈ります。そのイメージを板絵にしたり紙に描いて寺社の天井や壁に掲げていく。ひとつひとつを眺めていくと、此岸(しがん)と彼岸という境界を越えたささやかな日常や苦闘が透けて見える。共棲した短かった時間、こころの往来が伝わってくるようです。厳かでありながら微笑ましい空間が在ります。


 お社を独り守っている老婦人にご挨拶し、小雨を避けた軒下にて少しの間だけですが立ち話をさせてもらいました。濡れて濃くなった緑の中に、水子供養の地蔵が巻いた赤い前掛けだけが鮮やかに目を射るように浮かんでいます。穏やかな夕刻で嬉しい時間になりました。

 
 寺院であるならば“坊守(ぼうもり)”にあたる方なわけですが、正式には何とお呼びするか分かりません。気さくでおられながらも長い歳月をひとつの事に奉じてこられただけあって、凛とした気配を秘めておられる。どういう訳でこうなったか分からないが、与えられた宿命(さだめ)なのであろう。ここに来て数年で夫を亡くし、ずっと独りでこうしてここを守っている。こんな事は“おんな”であったら出来はしない、気違いか何かでなければ続けられないよ──。


 お堂よりも遙かに高く育って花を幾らかまだ残す百日紅(さるすべり)、正式な名前は知らぬまま自分なりに“昇り露草”と名付けて丹念に植え替え一群と為して今は紫色に広く美しく染まった花壇を話題とし、また、雪の季節の苦労などを尋ねてみたり──。雨の匂いを肺腑に充たしながら静かに過ごしました。ああ、あまり自分のことを話し過ぎてしまいましたね、と微笑む婦人の、けれどまばたきせずに僕を見つめる瞳にも日常のささやかさと苦闘が宿っているように見えて、僕なりに強く反響するものがありました。



 謝して敷石を踏みながら参道をゆっくりと戻りました。紫陽花の葉や苔土の上を僕の大きな影に驚き避けてぴょんぴょん跳ねていく小さな小さな雨蛙たちを見ながら、婦人の言葉を反芻しました。ほんの少しの勇気をもらったように感じました。



 下に並べたのは最近観た映画です。備忘録を兼ねて貼ってみました。

 季節は夏から秋へ── これを読む誰もがお元気で、素敵な時間を重ねられますように。

 ささやかな日常を共に越えていきましょう。












Il papà di Giovanna
Molière
Bright Star
BROTHERS
Synecdoche,New York

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