ひとと話すのは楽しいものです。いや、苦痛を覚える会話も残念ながら中にはあって、機械のように応対マニュアルを読み上げる電話によるセールスなんかがその典型だけど、人生の機微や知恵に溢れたもの、よくよく見知った人との肝胆相照らす静かな空間は実に嬉しいものです。充実します。得難い宝石箱のような感じがします。
先日、とある婦人と話していて、こんな事を言われました。
さしあたりの車、さしあたりの家、さしあたりの暮らしをしていると、
結局、“さしあたりの人生”になってしまうよ
白い閃光を放って、胸にすとんと飛び込みました。う~ん、心臓に突き立ってずいぶんと痛い。同年輩や僕より若いひとから言われたら反撥するものも沸くところでしょうが、ふた回りも年数を重ねてきた彼女の言葉はとても重くて打ち返せない。う~ん。
いや、実際のところ、とても笑ってなどおれない。
本当に痛い。
そのような境地は婦人の内部から派生したものではなくって、よく知るご友人から彼女に告げられたもの──とのこと。詳細を書き連ねるのは控えるけれど、なるほど豪語されても仕方がない。日常を謳歌されていて言葉遊びに終わっていない。例えば足腰が弱ってきたからと蟄居することを潔(いさぎよ)しとせず、絶景を愛(め)で、清澄な大気に直に触れようと熱心に画策する。仲間を募ってヘリコプターをチャーターまでして、堂々と実現に導いていく。経済的な基盤が後押しするにしても、自らの人生のまさに“主人公”として登壇し続けている、その現役であろうとする気概がうかがえて、実際にお目にかかったわけでもないけれど、やたらと眩しい。 天空を高く飛ぶ鳥を仰ぎ見るような感じ。
お茶をご馳走になりつつ、顔は笑顔を保つけれど、かなり身に応(こた)えた。
今もぐるぐると言葉は渦巻いて、洗濯機にでもなった気分だ。
2010年9月18日土曜日
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そんなご婦人と交流があると言うだけで、彼女の舞台で一緒
返信削除にいるということでしょう。自分もそんな舞台に一緒に立ってみたい。