2010年10月14日木曜日

みやわき心太郎「白い日日」(1972)~三十四(みそし)る~


  狭い電話交換室でひとり機械に向かっている章子

  その肩をポンと叩く者あり。三歳年長の同僚が箱を差し出して

同僚「おそまきながら お誕生日おめでとうござんす」

章子「(包みを受け取り)まあ ありがとう」

同僚「そうスンナリ喜ばないでよ 恐怖の三十(サント)リーオールドよォ~~」

章子「あ~~っ ひど~~いん」

同僚「ウイヒヒヒヒ」

章子「いいわ 来年三十四(みそし)るプレゼントしてやるから」

同僚「(笑顔で部屋を出ていく)なんのなんの」

章子「ありがとう……………」

  ドアが音をたてて閉まる。背を向けて押しだまる章子

章子「……… ……… ………」(*1)


 人生には思いがけない出会いがあります。その出会いを通じて未知の本や映画、音楽、風景と見(まみ)えることは実に嬉しく愉しいこと。人からひとへと敬愛するものが伝播していく、そこには生きていることの手応えがあります。

 偶然なのか必然なのか知り合えたひとがいて、彼はある著名な“作り手”のアシスタントとして活躍された方なのでしたが(前にも書きましたね)、思い切ってお家に遊びに行かせてもらった時に教わったのが“みやわき心太郎(しんたろう)”さんでした。

 僕のこれまでの道のりに、みやわきさんは居ないに等しかった。失礼とは思うけど本当のことです。書棚から出していただいた単行本、「花嫁」(*2)だったか「あたたかい朝」(*3)だったかの表紙や最初の数カットを見ただけで、繊細な息づきや天才肌の筆づかいがにわかに感じられて強い焦りを覚えました。この年齢まで知らずにいた、読まずにいたことに対する焦りです。

 駅前や繁華街を流れる雑踏や、絵画教室に集い素描に励む若者たち。背景描写に過ぎないそんなひとりひとりに生命が吹き込まれて見えます。また、カメラに相当する目線が俯瞰気味に主人公を眺めたり、背後にぐるり回ってみたり、足元に降りて地面から見上げるなど自在にコマが展開していながら、いささかも絵に狂いが生じていない。さりげなさを装いながら人物の心象をそうっと託した深慮あふれた構図が続きます。上手だな、凄いな。唖然として見惚れてしまいました。

 原作者を別に置いて作画のみを担当された(扇情的なタイトルの)作品がみやわきさんの代表作にあり、それをもって頑迷に彼の全作品を遠ざけていた自分を恥じました。帰宅後すぐに古書店やオークションを通じ、入手可能なだけの単行本を探し求めた次第です。


 「白い日日」と題された28頁の小編は三十歳になったばかりの独身女性の話です。故郷を強引に飛び出して今はアパート住まい。仕事は会社の電話交換手で、騒音を避けるために重い扉に閉ざされた小部屋に朝から晩までこもって過ごしています。外からの電話を取り次ぐだけで飛ぶように時間が過ぎていく。

 通勤中の彼女を見初める男が現れます。堰き止めていたこころが決壊して寄り添う仲となり、やがて結婚に至ります。空しい時間からようやく解放されるのです。ところが、雑誌編集に携わる働き盛りの夫の帰宅は真夜中になったり泊り込みが常であり、ぽつねんと捨て置かれた章子の状況は形を変えはしても実質は同じだった。

 ある日、風邪をこじらせ早帰りした夫に対して章子は医者を呼び、自身もかいがいしく介抱に努めます。髭(ひげ)を剃るのを手伝い、果物の皮を剥いて食べさせる毎日。診断によれば初期段階の肺炎で数日もすれば快復するはず、なのに、不思議と夫の症状は足踏みを繰り返します。

 処方された薬を章子が隠したのです。空白の日日を埋め戻すために。重篤な状態になるまで二ヶ月間も放置され、遂に夫は絶命します。


 三十歳を過ぎた辺りで肉体的にも精神的にもいよいよ円熟し、花弁を思い切り開くようにして僕たち男を外貌、内実ともに圧倒しまくる現代女性と比べると、章子というおんなはずいぶんと弱々しく自律していない感じがします。隔世の感につくづく襲われる物語なわけですが、男とおんなという枠を外せばどうでしょう。“草食系男子”を擁する当世にも十分に通じる気配があります。このような孤絶感や虚しさは誰の胸にも幾度か去来するものだし、喉を掻きむしられるような“白い日日”は僕の記憶の底に潜んでいる。都会に住まう地方出身者の懊悩や内省ぶりが、実にたよやかに等身大にて描かれていて、あっさり気持ちを持っていかれました。軽々と時代を超えて胸に迫りくる、その普遍性がすばらしい。

 上に掲げた場面は年齢を重ねていくことの不安、疎外感を的確に描いてみせた幕開け直ぐの描写です。“三十四(みそし)る”と発した瞬間に章子というおんなの脳裏に何が瞬(またた)いたのか、その響きはプラスマイナスどちらに針を振ったのか、見た限りにおいては分かりません。三十路(みそじ)と“みそしる”とを重ねる単純な言葉遊びです。気の置けないおんな同士の洒落の応酬であり、特段の意味は含んでいないかもしれない。

 ただ、帰宅後ひとりで呷るしかない酒を贈り贈られ、祝いの品に到底ふさわしくない“みそしる”を(たとえ冗談であったにせよ)口にする独身同士なのです。その乾燥した笑いを交えた応酬は硬直して型にはまってしまった章子の日常を裏打ちしていて、大いに憐れみを誘って見える。実際、押し寄せる無言の波に章子はひとり溺れ沈んでいくようであり、直前に為された会話がなんとも言い難い寂々たる音調となって、交換室の狭い空間でわんわんと残響していくようなコマが連なっていく。

 ですから、ここでの“みそしる”にはややマイナスのイメージが付されている。嘆いているのではありません。うまく魂に喰い込んでいる、役どころとして決して悪くないと思うのです。哀しくて存在感のある“みそしる”が刻まれているのであって、こんな登用は誰でもが出来るものではない。みやわきさんらしい発想だと唸るのです。

 人生の機微を見つめ続け、丁寧に、とても大事にひとコマ、ひとコマを描いていかれた。奇抜さやはったりが無く、仰天させる見開きや突き抜けたものは見当たらないのだけど、上質の和菓子か冷酒をいただいたような充ち足りた読後感がありました。“三十四(みそし)る”に代表される日常の光景の、幸福と不幸せが混濁して同居するような一瞬をさらさらと紙面に残していった行為は、一見のどかに見えながら、自律した大人のきびしいまなざしに貫かれていました。諭されるものがとても多い、骨の通った作風でした。

 同時代的に追いかけることはありませんでしたが、不思議な縁で紹介されてこの時期に深く読み進められたことを感謝しつつ、到底届かない言葉ながら贈らせてもらいます。



みやわきさん、素敵な物語をたくさん有り難うございました。今度は僕が紹介する番ですね。「良い本があるよ、もう君は読んだかな」、そうやって若いひとに薦めていこう。どうぞゆっくりとお休みください。


(*1):「白い日日」 みやわき心太郎 1972 初出「トップコミック」
  「潮風のルフラン」道出版 2004 所載  下段のコマも同作から
(*2):「花嫁」 みやわき心太郎 朝日ソノラマ 1976
(*3):「あたたかい朝」 みやわき心太郎 朝日ソノラマ 1977

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