2009年9月14日月曜日

湖畔にて~日常のこと~


  岩手との県境を越え、八戸自動車道上にある福地(ふくち)パーキングエリアに滑り込んだのは土曜日12日の午前零時まであと少しの時間だった。ペダルを踏み込み過ぎて右足が重い。後部座席には寝室から持ち出した毛布がある。たぐり寄せて身体を包み仮眠を試みたのだけど、案の定とてもじゃないけれど眠れやしない。


 いや、旅に長らく親しんだ人ならどうってことない話に違いない。地面を照射する水銀灯のぎらぎらしたまぶしさと、本州北端のぐっと冷えてきた寒気を凌ぐためにアイドリングを続けて居並ぶトラックや乗用車の、ぶるぶる、がうがうというエンジン音にやられてしまって、慣れぬ僕には熟睡は無理と早々に諦めた。


 それでも一時間半ほどウトウトして気分は晴れたから、ここは思い切って先を急ごうと決めてベルトを硬く締め直す。夜中に目指していい場処ではないよ──という友人の助言を反芻しながらも、少し時間を惜しみ出してもいた。明日はちょっと大事な人と逢う約束があり、いや、それは何か色めくものでは決してなく、僕が懇意にしてもらっているひとと逢う訳なのだけど、弾む話を思い描けば時計の針がにわかに意識されて落ち着きを失った。


 しかし、真夜中の北の町には行き交う車は見当たらず、墨汁にまみれたような真黒い道路を独りぽっちで走る淋しさは尋常のものではない。突如眼前に現われた近代的で巨きな工場のサーチライトに亡霊のように蒼白く佇むのに、慌てふためきカーナビゲーションの暗い画面に目を凝らせば、これが六ヶ所村の原子力燃料処理施設である。「真夜中への招待状」なんていう薄気味の悪い映画をふと思い出して、これはまずいタイミングに走り出したかと俄かに焦る気持ちが湧き起こる。


 鉞(まさかり)のかたちを為した下北半島の、海に挟まれた細い柄(え)の部分をうねうねと北上し始めれば、街頭もない道端の藪に野兎がひゅうひゅう走り、黒い獣がぺたぺたとライトを横切る。あれは絶対に猫ではなかった。横たわる屍骸は歯をにゅうっと剥いたテンである。かえってこの時間ともなれば、ほんの時折すれ違う車も妖しげに見え、一体全体こんな時間にあの男女は何処に向っているのか、色香よりも何か禍々しさを覚えてしまって気色が悪い。もっとも、それは相手側も同様であったろうけれど。


 手のひらに汗が滲んでハンドルを濡らし、タオルを探して拭きたいけれど、速度を落とすのもいよいよ怖い。そういえば大和町を越えた辺りで海から昇って来た半月の、巨大でオレンヂ色に染まったのも凶悪であって、その時は、“月”は僕には大切な女神だからと旅の出迎えを嬉しく想い、昔々の暖かな記憶に酔ってさえいた。けれど、その非日常の風景も思い返すだに不安は駆られて無理だらけの旅程をいまごろ恨んだりしている。


 こういう時には大音量で音楽を掛けるに越したことはない。けれど、もう夜道に停まる勇気はなくなっていて、ハンドル片手にがさごそ助手席を探り、ツタヤの青いビニール袋のなかを必死で探る。家では気兼ねなく鳴らせないCDを思う存分に車内に響かせ走るのは独り旅の愉しさのひとつなのだけれど、今はもうすがり付くような気分である。


 こうして天涯孤独の風にして夜中の闇夜に抱かれていると、なんとまぶしく安らいだ空間であったかとレンタルショップの白い空間を思い出す。どれを道連れにしようかと何枚か手に取り、これとこれは明日逢うひととの話の種になるはず、まだ聞いたことはなかったとカウンターに向ったときの嬉しさといったらなかった。それにこれも聞いておかないと。この歳になって馬鹿みたいだと笑ってしまう。これって中学か高校の教室で級友が貸し借りしていたアルバムじゃないか。僕は完全に周回遅れの“のろまなローラー”だな。あれ、バッハはこれだけか。残念、次回の旅の供にしよう。クラシックの棚は年々片隅に追いやられて見える。


 いつの間にかハンドルがぶれて、危うく木立に突っ込みそうになった。息を整えてCDをかける。ところが、どれもこれもかえって恐怖を煽るばかりでどうしようもないのだった。中村八大の初期のジャズ演奏にしても録音の具合がいかにも昭和30年代であって、間延びした音がぼわんぼわんと反響してスティーブン・キングの恐怖小説のなかに捕り込まれた感じになる。慌てて女性歌手の声に替えてみれば、彼女が熱帯の街のホテルで気管支喘息で息絶えたことを思い出してしまい、その情景がありありと目に浮かぶようでぞっとして居たたまれない。


 目的地はカルデラ湖を中心とした外輪山の内懐にあり、尾根をひとつ越えれば、後は谷底に墜ちてゆくように傾斜はいつまでも尽きることはない。地獄の底に落ちていくようだ──と友人は形容していたが、これは嘘ではなかった。どんどん墜ちていく、どこまでも墜ちていく。車道を囲む杉林の足元は鬱蒼と茂る笹薮で何が潜んでいても不思議はなく、ぐねぐねと蛇ののたうつが如き細い坂道の角々には巡礼者の墓なのか、それとも交通事故死者の慰霊碑でもあるのか、不意にヘッドライトに浮かび上がる地蔵の群に心底悲鳴をあげたくなる。おまけに給油メーターの警告灯がふわふわとオレンジ色に灯ってしまい、心細さは頂点となった。


 無理にでも気勢を上げねば小便でもちびりそうであるから、拝むようにしてCDを替えたのだけれど、そんな頼みの綱のブリティッシュ・ロックを大音量で掛けていけば、あろうことか、おぎゃあ、おぎゃあと赤ん坊の泣き声が挿入されている!ぎゃあ、勘弁してくれ、と別なやつを突っ込むと、今度は、う、おおおーん、と犬の鳴き声がする!何だこれは!遂にはひょえ~ひょえ~とアホウドリが叫び、カラスまでがゲェゲェゲェと群れ鳴くじゃないの。助けてくれよ、おい、こっちは夜中の三時で、ガス欠寸前なんだ。
 
 やれることは限られました。最後のCDは映画のサントラ集だったのだけど、「いそしぎ」の流れるなかで僕は念仏をつぶやき続けたのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。どうか助けてやってください。



 事前に調べたインターネットでは目的地に宿坊があり、泊まり客は早朝の風呂を楽しんでいるらしい。ならば、門前の駐車場は大型バスや県外ナンバーの乗用車がひしめいており、その間に車体をするりと滑り込ませてしまえば、この恐怖からやっと脱却できるはずである。真っ黒い湖面が見えた、ぞっとする光景だけど、もう直ぐ到着。灯かりが見たい、蛍光灯の蒼い光が欲しい。ん、どうして、どうして街灯がないの、どうして土産物屋さんが軒を連ねていないの。これでは横溝正史の映画冒頭に出てくる茫漠たる荒野ではないか。


 砂利道を走る。無数の手に握られた数珠が一斉にじゃちじゃちと泣き響くようでたまらなく厭だ。けれど、もう大丈夫、そこには人がいる、光がある。山号 恐山 宗派 曹洞宗 本尊 延命地蔵菩薩 創建年 貞観4年(862年) 開基 慈覚大師円仁 正式名 恐山 伽羅陀山菩提寺 札所等 津軽三十三観音番外札所 高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つ むつ市田名部より恐山街道(青森県道4号)。山門前に約300台駐車可能の駐車場有り。無料───。


  何でえ!どうしてえ!闇にとざされた大駐車場に車が一台もない!暗闇の奥に山門は固く閉ざされ、食堂、トイレが並んでいるけれど、いずれもしんとして真っ暗で灯かりが一つもない。虫の音もせず、いや、鳴いていたのかもしれないけれど窓を開ける勇気がない。何か別のモノが聞こえて来そうでたまらない。エンジンを落とした無音の闇におのれの息が聞こえるばかりの、まだ午前四時の、たったひとりの恐山の約300台駐車可能の大駐車場の真ん中で、開門までのあと二時間、椅子を倒して毛布にくるまり、目をつぶるしかない。もう怖くって怖くって、どんな音がしようと目を開くことなんか金輪際出来っこない───。



開山期間 毎年5月1日~10月31日  開門時間 午前6時~午後6時
入山料 500円(2009年現在)  大祭典 毎年7月20日~24日
秋祭典 毎年10月第2週の三連休


とても精神的な光景が拡がり、素晴らしいというのではないけれど、考えさせられる場処ですね。どうぞ皆さん、一度は足を運んでみて下さい。お薦めします。


当然ながら帰路に聞いたのも同じCDだったけれど、今度はとても嬉しく聞きました。何度も何度もリピートさせたりして、何度も何度もカラスの声を聞いて(笑)いい加減なもんです、人間なんて。

2009年9月5日土曜日

正岡子規「墨汁一滴」(1901)~黙つてこらへて居るのが一番苦しい~


 僕は子供の時から弱味噌(よわみそ)の泣味噌(なきみそ)と呼ばれ

て小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると

右の方に並んで居た友だちがからかひ半分に僕を押して来る、左へよけ

ようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、

そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ

機会を得て直(ただち)に泣き出すのである。そんな機会はなくても

二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴が

あつた。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕を

いぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりする

のが多かつた。これはどつちがえらいのであらう。(*1)


 「墨汁一滴」は新聞の連載(*2) です。体調と意気の許すがままを前提としていますから、日によって行数の変動も大きいし内容は多種多様となっています。唐突に始まり終わる上の文章もその前後を割愛したものではなくって、とある一日をなんとか生き残った“証し”を刻むものとして形を為している訳です。正岡子規(まさおかしき)さんはこれを明治三十四年の四月八日に書き、およそ一年と五ヵ月後には天に召されます。享年三十六。世界は“どうにもならぬ事”に満ち溢れていることを想わない訳にはいきません。


 どのような気持ちでこのような回想に没入し、なぜに幼少時の醜態を多くの読者の目に曝したものか。憤懣、慙愧、復讐、焦燥、その逆の快活、満足──病人の胸中に去来する複雑な息吹が伺えて、こちらの胸までだんだん重苦しくなりそうです。


 正岡さんの研究者や愛読者には“こじつけ”と笑われそうですが、この四月八日の少し前に別の“味噌”に関する文章を読むことができて、僕はその間にほんの僅かながら結ばれた糸のようなものを感じてしまうのです。


 背中や腰に開いて膿を流す傷口がちょっと動くだけでも激痛を発する過酷な毎日となっていて、よいしょと身体を起こすことすらが儘ならない。“生きること”の主軸に“食べること”を据え替えて、日々をどうにか繫いでいます。二月二十八日に会席料理のもてなしを受け、気の置けない友人に囲まれての愉しい時間を過ごしているのですが、宴席から幾日か経った三月二日に書かれているのが実に面白い内容なのです。「五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し」に続いては、いつも通りに丹念な料理や具材の名称列記となるのですが、その筆頭に“味噌汁”が来るんですね。


 味噌汁は三州(さんしゅう)味噌の煮漉(にごし)、実(み)は

嫁菜(よめな)、二椀代ふ。(中略)飯と味噌汁とはいくらにても

喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちび

やる。(*3)


 順列は偶然ではないのです。宴において“味噌汁”をめぐって引っかかることが起きたのです。翌日の掲載分として随分とボリュームのある記述が境界を経ずして連なっていきます。客人との間で交わされた言葉に正岡さんは驚いて大いに思考が活性したらしく、筆に勢いがあります。少し写しましょう。


 料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁に

ある由(よし)、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まる

といへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでも

なし。味噌を選ぶは勿論(もちろん)、ダシに用ゐる鰹節(かつお

ぶし)は土佐節の上物(じょうもの)三本位、それも善き部分

だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価(あたい)三円以上にも上る

といふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵(こしら)へて

余す例(ためし)なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、

知らざる事とはいへ、山葵(わさび)をまぜて啜(すす)りたるは

余りに心なきわざなりと料理人も呆(あき)れつらん。この話を

聞きて今更に臍(ほぞ)を噬(か)む。(*4)

 ここから正岡さんは茶道、俳句の作法へと想いを展開していきます。病臥する静謐な長き時間に味噌汁談議をふつふつと醗酵させて、あれこれ自問自答を繰り返して得た結論はどのようなものであったのか──


 何事にも半可通(はんかつう)といふ俗人あり。茶の道にても

茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。

茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、

堅魚節(かつおぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を

争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ま

しき事にあらず。凡(すべ)て物は極端に走るは可なれどその

結果の有効なる程度に止めざるべからず。(*4)

 
 僕にはたいした読解力がありませんから、まるで見当違いの読み取りをしていたらゴメンナサイなのですが、この後に連なる言葉も含めて正岡さんの言いたいのは人から与えられた話を鵜呑みにして喋り散らしてはいけない、また悪戯に内心を晒さず韜晦(とうかい)することの清々しさを諭しているらしい。もっともな話です。見落としがちな大事な事ですね。


 この味噌汁談議と後日書かれた(冒頭紹介の)“弱味噌、泣味噌”が、正岡さんのなかで連結するのかどうか、幾らか連想を引き出したりしたものかは、もはや誰にもわかり得ない。ただ共通する反骨の思い、なにくそ、負けんぞ、という“みそっかす”の気概はそこに透けて見える。「我らの毎朝吸ふ味噌汁」のどこが悪いのだ、偉そうに何だという熱気が感じ取れて、ぶるぶる共振するところがあります。


 正岡さんの病状はこの後好転せず、痛々しい記述が目につくようになります。むごたらしいのは、苦しみを減ずる手段はいよいよ限られてしまい、感覚と思いのたけを“泣くこと”に集束していくしか無くなって来ることです。正岡さんは“泣味噌”を否定するような肯定するような微妙な四月八日の記述の後に、“泣くこと”をすっかり受け入れてしまい、それにすがり付いて見えます。


 をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。しかし痛の烈しい時には

仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙つてこら

へて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。

盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(*5)


 “動かしようのない事”に真正面から対峙するには“泣味噌たる自分自身”の受容が是非とも必要になる。そのプロセスとして一連の思念の流れがあったように見て取れます。これまで取り上げてきた“みそっかす”“泣きみそ”と同じですね。(*6)



 媒体も何もかも違うけれど、「墨汁一滴」はおよそ百年前のブログのようなものです。“黙つてこらへて居るのが一番苦しい”という人間の普遍的な性質は昔も今も変わらない。余命一年半の男、三十なかばの男が、現状に諦めず、現状に満足せずに生きて行け、そして泣く時は泣けよとひとりごち、こうして見知らぬ他人である僕たちに声掛けしてくれている。


“まなざし”はぐるぐると世界を包んでいます。こうして地をまたぎ、時を越えて連なっていくひとの思念を僕は不可思議で面白くって、やはり奇蹟の連鎖なのだと信じています。人が懸命に残した言葉を、今このときに読む意味を少し考えたりしています。


(*1): (四月八日)
(*2):正岡子規「墨汁一滴」 1901年1月16日より新聞「日本」にて連載 中4日だけ除き連載は164回。なお引用は青空文庫さんの頁を参考にしています。http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html
(*3): (三月二日)
(*4): (三月三日)
(*5): (四月十九日)
(*6): さらに僕がたいへん揺さぶられたのは、次の日記でした。

 昨夜の夢に動物ばかり沢山遊んで居る処に来た。その動物の中に
もう死期が近づいたかころげまはつて煩悶(はんもん)して居る奴が
ある。すると一匹の親切な兎(うさぎ)があつてその煩悶して居る
動物の辺に往て自分の手を出した。かの動物は直(ただち)に兎の
手を自分の両手で持つて自分の口にあて嬉しさうにそれを吸ふかと
思ふと今までの煩悶はやんで甚だ愉快げに眠るやうに死んでしまふた。
またほかの動物が死に狂ひに狂ふて居ると例の兎は前と同じ事をする、
その動物もまた愉快さうに眠るやうに死んでしまふ。余は夢がさめて後
いつまでもこの兎の事が忘られない。(四月二十四日)

 ファイティング・ポーズを崩すことなく、“泣くこと”にしても“死ぬこと”にしても遠回しに間接的に想いを伝えていく正岡さんの、現実世界に向う姿勢には感服してしまう。このような夢の光景を書き留めてから、さらに長い長い闘いを為し遂げた男に対して、ただただ唸り、そして慎ましく頭を垂れる気になるのです。


なお正岡さんの“弱味噌、泣味噌”への言及は坪内稔典(つぼうちとしのり)さんの「子規のココア・漱石のカステラ」(2006 NHKライブラリー)で知りました。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」にも在ったわけですが完全に忘れてましたねえ、歳ですねえ。こちらの坪内さんのも良い本でしたね。最期は病気を楽しもうとした子規の「共生の思想」や、単独で生まれ単独で死ぬ人間ではあるけれど、生きるということは他の人々と「類として生きる」のだ、独りではないよ、というマルクスの言葉などで綾織られて気持ちが和みます。NHKの出版物に適うわけですから色彩は推して知るべし、といったところですが、合わせてご紹介申し上げます。

最上段の写真は正岡さんの自筆画像。自分の墓碑銘を考えて指示しています。四十を越えられないと悟っていて哀しい内容ですね。こちらから拝借しています。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/cat334/



2009年9月1日火曜日

壺井栄「二十四の瞳」(1952)~うてばひびくように~



 仁太(にた)がいればいまごろはもう、十人の新入生の家庭事情は

さらけだされ、めいめいのよび名やあだ名までわかっているだろう。

その仁太や竹一(たけいち)や正(ただし)は、そして、磯吉や

松江や富士子(ふじこ)は、と思うと、かれらのときと同様、いちず

な信頼をみせて、きょうあたらしく門をくぐってきた十人の一年生の

顔が、一本松の下にあつまったことのある十二人の子どものすがたに

かわった。(中略)


 大石先生はそっと運動場のすみにいき、ひそかに顔をととのえねば

ならなかった。そういうかの女に、早くもあだ名ができたのを、かの女は

まだ知らずにいた。岬の村に仁太はやっぱりいたのである。だれが

先生の指一本のうごきから目をはなそう。

かの女のあだ名は、なきみそ先生であった。(*1)


 舞台となる小豆島は地勢的にも経済的にも関西に取り込まれており、教え子のひとりも大阪の親戚に引き取られて島を去っています。そんな関西圏にある小さな町の分校で、女性教師に“なきみそ”のあだ名が付けられました。“なきみそ”という蔑称が関東に限らず、列島にあまねく分布し使われていたことを示しています。


 原作が世に出て間もない1954年には映画化(*2)されるのですが、劇場にこぞって足を運んだ観客が暗闇の中で瞳を濡らし、涙を縷々流し続けたことはよく知られたところです。子どもたちの涙、彼らが長じてからの涙と共に、女性教師の嗚咽する様が涙腺を決壊させる呼び水となって働きました。


 もちろん、泣いてどうなる事ってほとんどありません。気持ちのもつれが生じても、そこで泣いてすがったところで醜悪さが増すばかりです。目覚めて剥がれ落ちかけた魂のフレスコ画が、涙を糊と為して修復出来ることはそうそう有りません。人を元気づけ陽気にし、動かしていくものはやはり笑顔と決まっているものです。泣くぐらいなら動かないといけません。笑わないといけません。


 おなじような夫の墓を思いながら、あちこちと春草のもえだした

中からタンポポやスミレをつんでそなえると、ふたりはだまって

墓地を出た。もうないてはいなかったが、うしろからぞろぞろつい

てくる子どもたちは、あいかわらずよびかけた。

「なきみそ、せんせえ。」

すると、うてばひびくように、大石先生はふりかえりざまこたえた。

「はあいい。」

 おどろいたのはミサ子だけではなかった。子どもたちのやんやと

わらう声をうしろに、先生もわらいながら、まだ知らぬらしいミサ子

にいった。

「どうも、へんなあだ名よ。こんどはなきみそ先生らしい。」(*1)


 子どもたちに晴れやかな笑顔を差し示す女性教諭の姿があります。笑いを第一と考え、明日を繋いで行こうとしています。笑おう、笑うことが人生。


 と同時に“なきみそ”を受容する態度もしっかり提示されています。ここで幸田文さんの「みそっかす」を引き合いに出したくなる訳ですが、“なきみそ”を拒絶するのでなく、受け止め、そんな自分を積極的に慈しもうという気概が透けて見えます。



 確かに人を元気づけ陽気にし、動かしていくものは笑顔と決まっていますが、もはや人を元気づけられもせず、陽気にすることもならず、どうにも動かし難いことに対峙した際には泣くしかない、という一種の安全弁が示されているのでしょう。


 貧困から家族と散り散りとなる生徒、戦地で息絶え、あるいは傷つき眼球を失う男子。遊里に流れ着き、独り孤高の闘いを強いられる女子。始終お腹を空かして歩き回り、未熟な果実を口にしたあげくに病んで死んでいった我が娘───。人生にめぐり来てしまう動かし難いことに対して唯一残される所作が“泣くこと”なのだ、それは恥ずかしいことではないのだよ、そのように人生というものの断面を捉えて見えます。子どもたちのからかいを臆することなく「はあいい」と肯定する笑顔には、僕たち誰の胸にも隠れ潜む“なきみそ”をゆるやかに抱き止めてくれる明確で揺るがない眼差しがあります。


 “泣き虫”先生、であったなら、つまり、はさんで捨てなければならぬ“泣き虫”の先生であったなら、幾らか物語の面持ちは違っていたろうと僕は想像します。“なきみそ”であるがゆえに、子どもたちと教師は対等になれる。生きていく限りにおいて誰もがいつでも道の半ばにあり、何らかのかたちで“みそっかす”なのだという強い信念が女教師の笑い声には描かれているようで、見事と言うしかない凝縮した一瞬だと感じています。


(*1): 「二十四の瞳」 壺井栄  光文社 1952
(*2): 「二十四の瞳」 監督 木下恵介  1954  上段の写真も


2009年8月31日月曜日

谷崎潤一郎「少将滋幹(しげもと)の母」(1949-50)~泣きみそ詩人~



 従来藤原時平と云うと、あの車曳(くるまびき)の舞台に

出る公卿悪(くげあく)の標本のような青隈(あおくま)の顔を

想い浮かべがちで、何となく奸佞(かんねい)邪智な人物の

ように考えられて来たけれども、それは世人が道真に同情する

余りそうなったので、多分実際はそれ程の悪党ではなかったで

あろう。嘗て高山樗牛(ちょぎゅう)は菅公論を著わして、

道真が彼を登用して藤原氏の専横を抑えようとし給うた

宇多上皇の優握(ゆうあく)な寄託に背いたのを批難し、

菅公の如きは意気地なしの泣きみそ詩人で、政治家でも何でも

ないと云ったことがあるが、そう云う点では時平の方が

却(かえ)って政治的実行力に富んでいたかも知れない。(*1)


 これまで漠然と避けていた谷崎潤一郎さんの作品を、思うところがあって今更ながら読んでいます。こんな齢になるまで放っておいたのは明らかに間違い。いや、それともこれでいいのかな。本との出逢い、昔観た映画との再会、不意討ちを喰らわせ胸に飛び込む音楽──まみえるべき時期を何故か知るようにして突如彼らは立ち現われます。この世にはそんな不思議って、確かにあるみたい。


 絶世の美女と噂される“北の方”をめぐって、複数の男たちの想いと行ないが衝突していきます。いくらかお伽話じみた箇所もありますが史実に基づくお話しで、悲喜こもごもが絡み合う様子は祭事空間の狂熱を想起させるものがあります。人がひとに激しく惹かれていく、そして別れていくことのどうしようもない顛末が描かれており、随分と考えさせられるものがありました。


 こころを奪われ、その後、手の届かぬ場処へと背を向けて去っていった愛しいおんなの面影をなんとか振り切ろうと煩悩にまみれた男どもが模索します。仏法の“不浄観”を支えとして記憶からの脱出を試みたりするのですが、結果的には上手くいきません。じたばたと奔走しまくる後半部分は、読んでいる此方の気持ちもざわざわと泡立ち狂ってしまうぐらいに凄絶です。



 無理だよ、そんなことしたってさ、出来ないものはできないものだよ、と谷崎は僕たちにつぶやいてみせます。そうかもしれませんね。ひとの心とは相当に我がままで不器用なものです。


 最初に引いたのは冒頭近くの一部です。物語で重要な役回りを担う、時の左大臣藤原時平を紹介するにあたって、好敵手であった右大臣の菅原道真を引き合いに出して評しています。“泣きみそ”という表現が使われていました。


 高山樗牛(たかやま ちょぎゅう *2)さんの「菅公伝」は「樗牛全集」の3巻にも収められており、どちらも現在国会図書館のウェブ上のアーカイブで見ることが出来ます。読みにくい字を辿ってみたのですが、僕の目が節穴であり見逃した可能性も皆無ではないけれども、“泣きみそ詩人”という言い回しは見つかりません。似たような文章はあります。例えばこんなくだりです。


 公や静に往時を懐慕し、現況を思料し、咏嘆によりて其の哀情を遣るべき也。天は公に授くるに詩人の天分を以てし、而して先ず公に與ふるに政治家の境遇を以てせりき。公の政治家たりしや煩悩内に公を苦め、●奸外に公を陥れ、遂に公をして無告の流人たらしめき。然れども悲し哉是の如くするに非ざれば公は遂に詩人たる能はざりし也。而かも公は死に至るまで是の天分の地に居るを悲み、静に春秋の榮楽を観じて何時かは昔日の榮華に踊る有らむ事を望みたりき。(*3 ●読めません!)


 どうも谷崎さんが独自に登用した表現ということらしい。東京の日本橋に生まれ、関東大震災後に神戸に移り済んだ谷崎さんの口から“泣きみそ”という言葉が出ていることからするならば、どうやら絞りこまれた地方、区域でしか通用しない特殊な蔑称ではなさそうです。“泣きみそ”と言い著わす情景は昭和二十年代の日本の津々浦々で普通に展開されていた、と捉えて良いのでしょう。


 あえて別項で取り上げるほどにも感じない内容なのでこの場に連記してしまえば、池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」には「泣き味噌屋」(*4)という題名の一篇があります。鬼平こと長谷川平蔵のフィールドはご承知の通り江戸八百八町であり、地方出身者の坩堝であります。今ではほとんど耳にしない“泣きみそ”はやはり全国区の蔑称であった可能性が高い。



 ここで例によって辞引きを手元に寄せてみましょうか。なき-みそ【泣(き)味噌】「泣き虫」に同じえっ、これだけなんだ。おやおや。では、次に「泣き虫」を開いてみましょう。なき-むし【泣(き)虫】ちょっとしたことにもすぐ泣くこと。また、その人。泣き味噌。泣きべそ。(小学館「大辞泉」)


 “泣きみそ”は“泣き虫”と同意語ということになり、垣根はまるで無いようです。けれど、どうでしょう。“泣きみそ”は“泣き虫”なんでしょうか。



 かつて幼少のころ、僕は随分と涙をこぼす子どもでした。泣いてヒクヒクとしゃくりあげることを烈しく恥じて、こうなった事態に赤面してさらに泣くという悪循環にいつも悩んだものです。そのようにして咽喉をウクウクといつまでも引きつらせる情けない僕を、級友たちは困り顔で取り囲むばかりで小馬鹿にすることなく見守ってくれたのですが、その優しさがまた身に堪え、目にひりひりと沁みて更なる涙を誘うのでした。可愛らしい同級生の女の子もどうしたものかと遠巻きにして見ている。ああ、恥ずかしい、泣けてくる、ウクウク…


 僕はその時、自分のことを“泣き虫”であると定めていた気がします。そんな己自身をとことん嫌悪し、この世界から消してしまいたいと深く願ったものでした。泣き虫、毛虫、はさんで捨てろ、という訳です。ムカデ、ゴキブリ、ダンゴムシ、泣き虫、毛虫、はさんで捨てろ、おまえはクラスメイトの末席に座る価値ない敗北者だ。


 そのような自意識過剰の実体験を踏まえて言うならば、“泣きみそ”という響きは随分とやさしく耳朶を打ち、いい言葉だなと思うのです。“泣きみそ”とは、すなわち“泣いてばかりいるみそっかす”です。言葉の構成、骨格を見据えれば、この泣きじゃくる子どもの現時点は成長の過程の大事なひとつなのだと判ります。いつかこの児もいっぱしの味噌汁になる、自分たちの仲間になるのだと誰もが思い、ゆったりと受忍していく雰囲気が自ずと生まれてくる。


 泣いている当人はとことん情けなく悔しさに身悶えするのは変わりませんが、どんなに恥ずかしくても決して“虫”ではない。少なくとも“半人前”として“人”の地位を保つことが出来ます。なにくそ、負けるものかという気持ちが湧く、そんな余裕が生まれてくる。


 いつ頃から“泣き虫”が“泣きみそ”と入れ替わってしまったものか。湿度の高い、薫り立つミストのような趣きが対人関係から喪われて、その分、僕たちを取り巻く世界は騒々しくって乾いた、とても厭な空気が流入し、きつきつに充満した感じを受けます。


 “みそっかす”を受け入れ、“泣きみそ”を見守る大らかさを保っていきたいものだ、と、かつて間違いなく“みそっかす”だった僕は、谷崎本を一冊また読み終えて密やかに思っているところなのです。



(*1):「少将滋幹(しげもと)の母」 谷崎潤一郎 1949-50
(*2): 高山樗牛 1871~1902 「菅公伝」は1900年上梓
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/285.html(国会図書館)
(*3): 第九章 詩人菅公 より
(*4):「泣き味噌屋」 池波正太郎  初出「オール読物」1974年2月号
  「鬼平犯科帳(十一)」文春文庫 所載 なお抜粋したものがこちらにあります。
   http://www.asahi-net.or.jp/~an4s-okd/private/bungaku/buo14.htm
※最上段の写真は坂東玉三郎さん演じる北の方 玉三郎さんのファンの方の頁から拝借しました。http://chikotyan.blog84.fc2.com/blog-entry-41.html さすがに綺麗ですね。


2009年8月29日土曜日

望月三起也「ワイルド7」(1969-79)~みそっかすのユキ~


 当然のことながら“みそっかす”は末尾の“かす”に重心が置かれています。再び「大辞泉」(小学館)をここで引き寄せて“かす”について調べてみれば、③、役に立たないつまらないもの。最も下等なもの。くず。「人間の─」──とありました。やっぱり良い感じはしません。言われた当人は少なからず傷付くに違いなく、どのように声色を変えてみたって嫌な響きであることは避けられない。


 しかしながら、犬や家畜、唐変木に代表されるような“人に非ざるもの”に例えて相手を侮蔑するときとは若干趣きが異なるように感じます。おまえは負け犬だ、と蔑むとき、オレは勝ち犬だぜ、とは思っていないでしょう。あいつは豚よ、とあざけるとき、わたしは麒麟なのよ、とは思わない。言った側はすべからく自分を“人間さま”と思っているものです。貴様のような奴とは質も階層も違うのだと突き放した表現、人間という舞台からの抹殺が図られている。


 対して“みそっかす”は“味噌汁にならざるもの”の意です。“みそっかす”が半人前を指す蔑称ならば一人前に仕上がった者は“みそ”となる。口にする人間は己を“みそ”または“味噌汁”と同一視しており、“みそっかす”と呼んだ者とは似た者どうしになる理屈です。両者は階層を連ねて並んでいる。そこには多少の疎外感は生じても、拒絶反応じみた違和感はないのです。(ここでも日本人が“味噌(汁)”に自身を重ねていますね。とても興味深い形容です!)


 また、酒粕(さけかす)、粕漬(かすづ)けといった日本酒の生産工程で派生する残滓を上手く活用した調味料や料理法もある訳です。カスという言葉には徹底して忌み嫌う風の烈しい感情は付随しない、そんな生活面での寄り添いも見て取れます。英語の卑語で盛んに用いられる尾篭(びろう)な単語とは一線を画するものでしょう。


 ちばてつやさんの描く少女、茜(あかね)はタイトルをもって、幸田文さん自身は具体的に親戚からの声をもって“みそっかす”という響きに打ちのめされはしたけれど、彼女たちの表情が総じて明るく、劇の終幕では大きな仕事を成し遂げて晴れがましさに包まれます。そして、ここが重要なのですが、大いに傷付きはしたけれど自分が“みそっかす”であったことを彼女たちは否定していないように見えます。つまり“みそっかす”とは成長にともなう局面に過ぎないわけです。ひとは誰でも一度は“みそっかす”であらねばならぬ、ということなのでしょう。


 このように全否定ではなくって一部否定、もしくは一部肯定のニュアンスを帯びた柔らかさを内包する表現ゆえに、「わたしはみそっかすだから」と自分から笑顔で名乗ってしまう者すら出て来てしまうのです。たとえば──



 少年漫画誌に連載された望月三起也さんの「ワイルド7(セブン)」(*1)は、僕の世代の、特に男子にとっては欠くことの出来ない漫画でありました。小学校、中学校時分、教室にひそかに持ち込まれた単行本はとても人気があり、「アストロ球団」(*2)と共によく回し読みされましたね。


 選び抜かれた数名の元死刑囚が白バイチームを組まされます。続発する凶悪事件、組織犯罪と対抗するために編制された超法規集団です。捨て身の潜入捜査に端を発し、血ふぶき、粉塵、黒い煙にまみれた壮烈な闘いが延々と続きます。僕たちは完全に捕り込まれてしまい、固唾を呑んで頁をめくったものでした。


  息を呑んだ理由にはもう一つあって、望月さんの描く人物が独特の色気を放って目を射抜いたせいもあるでしょう。チームリーダーは二十歳そこそこの飛葉(ひば)という若者であって、いま読み返せば随分と青臭い会話が続くのですが、その当時は彼らの伸びやかな四肢や諦観を湛えた眼差しに大人の薫りを感じて恍惚となったものです。



 家族を殺された恨みを晴らすために単身オートバイを駆り、ショットガンを放って復讐の殺戮を繰り返していたユキという娘が「コンクリート・ゲリラ」という物語で捕まり、その度胸を買われて途中からチームに参入することになるのですが、彼女は自分で自分のことを“みそっかす”と称しています。



みそっかすでもワイルド7

みそこなっちゃ いやだわよ(*3)



 見損なったりしませんよ。八面六臂の働きに多くの少年がめろめろでした。ユキの気風、容貌、ファッションにうっとりと見惚れたものでした。


 十年間に渡った連載は、実にそんなユキの遠く去っていく姿で閉じられます。愛するひとの生還を願い、百にひとつの奇蹟を信じて天空に身を躍らせる。蒼い海原に身を投げて消えていくラストカットは胸に刻まれて、いまだに鮮烈です。


 もはやそこには“みそっかす”の片鱗は見当たりません。成長し切った人間、成熟したおんなとして大長編の物語を完結に導いたのでした。僕たちはただただ陶然として目を潤ませるばかりでした。そんな最終回が載った雑誌は黙々と休み時間に回し読まれ、誰もが感想を口にせず、ぶっきらぼうに、ほらよ、と隣りの机へ手渡されました。


 何につけても、どう足掻いても、誰もが最初は“みそっかす”。でも、大丈夫。羨望にまばゆく見える先輩諸氏は神さまでも偉人でもない、“味噌汁”に過ぎません。
 いつか自分も“味噌汁”になれれば、それで十分、それで上等。

 
 季節はいよいよ夏から秋へ。共に挫けず、騒がず、四季を駆けていきましょう。


(*1): 「ワイルド7」 望月三起也 「週刊少年キング」連載 1969-79
(*2):「アストロ球団」原作遠崎史朗 作画中島徳博 「週刊少年ジャンプ」連載 1972-76
(*3):第15話「運命の七星」より
最上段の見開きは第9話「緑の墓」、カラーイラストは第4話「コンクリート・ゲリラ」より。

2009年8月28日金曜日

幸田文「みそっかす」(1948-49)~棄てがたい~


 
 とうとう或る朝、正直にいやだといって廊下へとことこ逃げだした。

虫のいどころが悪かったのか父はおこって迫って来る始末に、家内中が

総(そう)に立って遂に便所の前でつかまえられた。(中略)


 強情っ張りのみそっかすは、この事件からオバ公さんによって文子の

冠詞として定着された。(*1)



 ちばてつやさんの漫画に先行すること十五年、別の「みそっかす」が上梓されています。明治から大正にかけて活躍した小説家幸田露伴の娘、文(あや)さんにより描かれたのは、ちばてつやさんの世界とどこか通底するひとつの家族の生々しい実相でありました。


 胸を病んで早世する母、河の氾濫により泥に浸かる住宅、祖母や叔母への愛着と重圧、美しかった姉の病死、継母との同居で一気に緊迫していく日常、いがみ合う父と母、火鉢から投げ付けられる鉄瓶、かかる熱湯、白く蒸気をあげる着物、露に濡れ茂る庭に独りきりで横たわる夜──。



 選び抜かれた言い回しがうつくしく、胸に迫る内容となっています。武家の末裔、文人の家といった特殊性はもちろんありますが、おとなたちの都合で翻弄され続ける子どもの苦痛や哀しみ、男女が一つ家に寝起きすることの難しさなど人生の普遍が切々と詠われていて、あれこれと考えさせられることしきりでした。


 幸田さんのこの本が、ちば漫画の原動力のひとつとして恐らくは機能したのでしょう。上条茜(あかね)という少女と幼い日々の文さんの姿が随分と重なって見えます。
もっとも、こちらの少女は叔母さんから“みそっかす”と具体的に呼ばわれる日々です。活きた言葉として“みそっかす”は頑然として在って、それが叔母さんの喉もとから発せられる度に少女はひどく萎縮し、かなしみの絵具で胸中を暗く染めていきます。



 アメリカの映画を観ていると卑語を随分と耳にしますよね。会話に抑揚を付けることが目的のように狂ったように連射されることもあり、意味らしい意味をすっかり失って聞こえます。大概の場合、字幕だって直訳を避けます。何てこった、ふざけんな、馬鹿やろう──と文字は並びますが、実際はとんでもない言葉が舞い踊っている訳です。例えば、そうですね───いや、止めておきましょう。まあ、ご承知の通りです。


 そのようにして卑語、蔑称は本来の意味合いを徐々に薄めていくものかもしれません。生き残っていくうちに叱責や侮辱、嘲笑する際の記号や刻印に化けてしまい、口にする方も聞かされる方も字面にいちいち左右されなくなる。

 ですからこの日本独特の“みそっかす”という蔑称を四角四面に受け止め、その意味や生い立ちを探ることは滑稽なことかもしれません。ほとんどの人は気にも留めないものでしょう。“馬鹿”と言われて馬と鹿はどっちがより馬鹿なんだろ、その頭や脚力の順列にうんうん頭を悩ます人はいません。


 ですが、幸田さんは血の所以なのか、当時も、そして、長じてからも大切にこれを自問し続けたのですね。連載されたものを単行本としてまとめる際に書かれた文章でしょうか。題名の由来に触れて幸田さんは、かなり実直な表現で“みそっかす”という言葉への印象を語っています。書き写してみます。


 『大言海(だいげんかい)』をあけて見た。そこにはみそっかすという

ことばは載っていなかった。そうか、無いのか、──重いその本をもとの

棚へかえして、なお余情がたゆたい纏(まと)わり、鐘の尾に聞きいると

きに似ていた。(中略)



 みそっかすなんていうことばは、もう無い方がいい。辞引(じびき)に

もない方がいいし、なくしてしまいたい。ほんとうに私はそう願う。現在

すでにこのことばは消えている。(*2)


 記憶を辿り、辞書を繰ってまで何かを掴もうとするなんて──。ちいさな胸をどれだけ痛め、どれほど悶々と苦しんだかがうかがい知れる何気なくも厚味のある所作です。口にした叔母さんにしても、まさかここまで姪っ子が思い悩んでいくとは想像もつかなかったでしょう。


 言葉はとてつもなく重たいものです。未来は幾らかなりとも変えられるかもしれませんが、過ぎ去りし過去は訂正がきかない。後悔先に立たず。心して暮らしたいものです。


 さて、それでは幸田文さんは怨嗟と苦渋に満ちた回想を繰り返すばかりだったものでしょうか。“みそっかす”は忌まわしき濁点となって彼女の記憶に残り、僕たち読者の気持ちも暗く捕えていくものでしょうか。呪われた言葉として文学史を汚したものでしょうか。


 とはいえ、──と暗く考える。そういう扱われかたでいじける児が一人

もいなくて済む世の中が、はたしていつ来るものだろうと思うと、私は

みそっかすの響に棄てがたい愛を感じる。はるかに遠く鐘を惜しむ心を

もって、あえてこの題をえらんで送るのである。(*2)



 味噌っかすはかすなりに味噌漉(みそこし)の目に生きのこって、から

くも父をみとり終り、強情っ張りはどうやらこうやら浮世に棹(さお)を

突っ張り通してやって来たとは、われながらめでたいことだったと、

みそっかすの弁である。(*1)



 幸田さんがめくった辞書には見つかりませんでしたが、その代わり見事に僕たちの国で育まれた“みそっかす”という言葉への立ち位置を示してくれている。身をもって証し立ててくれている。


 「落ちこぼれ」といった断定的で冷酷な口調でもなければ、たとえば「負け“犬”」と称して人をひととも思わない差別的で屈辱を上塗りするような響きを含まない。“みそっかす”は存在を真っ向から全否定する表現ではない。


 判官贔屓と笑われそうですが、僕は悪い印象を抱けないのです。慎ましく、独特の眼差しを含んだ言葉が“みそっかす”なのだと幸田さんは教えてくれています。

 
(*1):「みそっかす」 幸田文  単行本は岩波書店から出された 1951 
(*2): 「みそっかすのことば」 幸田文 1951
なお最上段の写真の出自は以下の頁 
http://oak.way-nifty.com/radical_imagination/2005/07/post_3d10.html

2009年8月27日木曜日

ちばてつや「みそっかす」(1966-67)~獣みたいな子~

 「あしたのジョー」(*1)、「のたり松太郎」(*2)等で知られる漫画家ちばてつやさんの作品に「みそっかす」(*3)というのがあります。


 お話はふたつの軸で貫かれています。ひとつは家族の集合離散、のたうつ葛藤の様子です。 病弱に産まれて長期療養を必要とされ、親元から四歳のときに引き離されてしまったひとりの少女、茜(あかね)が主人公です。紀伊半島の海辺の寒村で伯父草介(そうすけ)の手により育てられたのですが、放浪画家である草介の自由奔放な性格が茜に野性味を付与し、天性の利発さ、自由闊達さに磨きがかかっていきます。


 烈しさと慈愛、歓びと淋しさを交互に瞳に宿す少女の表情を作者は丹念に描いており、やはり子どもを描かせると上手いな、と感心させられます。いつしかこちらも気持ちがぐんぐん入って目が離せなくなっていく。


 そんな茜が久しぶりに上条家の大きな屋敷に戻ってきます。誰もが嬉しいはずの帰宅なのですが、実に六年間も音信や往来が満足にありませんでしたからね、茜と両親や姉妹とはいつまでも馴染むことが出来ずに衝突を繰り返してしまうのです。


 そうこうする中で上条家の営む商船業は破綻し、自殺を図って父親は海に飛び込みます。助けようとした育ての親たる草介も溺れた挙句に衰弱死して、残された家族は大混乱のなかで経済的苦境に立たされ解体寸前となるのです。茜はひとり悩み苦しみ、育った海辺を目指して家を出ます─────

 もう一つは茜が通うことになった学校での騒動です。折りしもその白樺学園には経営乗っ取りの陰謀があり、偶然にも謀議を耳にしてしまった茜が孤軍奮闘していくこととなります。



 家族やクラスメイトから煙たがられて孤立しつつも、少女は持ち前の気丈さで窮地を切り抜けていきます。手作りの人形や相手にされない老犬を友とし、泥で作った家族に語り掛け、学校ではやはり嘲笑の的となっているパッとしない男の子を援けながら懸命に考え、必死になって生きていく姿には静かな感動を覚えます。


 ところで面白いのは、タイトルに冠された語句が会話にもト書きにも現われて来ないことです。『大辞泉』(小学館)をあけて見ます。そこにはみそっかすということばが次のように載っていました。

みそっかす【味噌×滓】①すった味噌をこしたかす。②子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。みそっこ。


 母親の口からは「へんくつな子」「おりからはなたれた獣みたいな子」「敵意にみちた獣」と揶揄されるのですが、“みそっかす”とは呼ばれていません。誰もそのように少女のことを言い表さない。

 ひとつの興味深い現象が確認できます。この作品はアニメーション化されてテレビ放映されたのですが、そのタイトルは『あかねちゃん』(*4)と変えられているのですね。



 当時“みそっかす”という言葉が活きた言葉であったことの“証し”となるのか、それとも世間で通じない死語として却下されたものなのか、僕には正確な判断が付きません。でも恐らくは前者でないのかな。アンダーな印象を避けるために改変されたのじゃないかしらん。この作品が描かれた1966年には、十二分にそのタイトルの意が読者に酌まれていたことが推し量れる訳です。読者の身近にも“みそっかす”がいた、いや読み手自身がそもそも“みそっかす”であった。他人と違う自分、劣等意識にさいなまれる自分自身を田舎育ちの孤独な少女に投影して声援を送ったのでしょう


 思えば60年代後半から1970年代にかけて少年少女誌を彩った漫画作品の多くが、何かしらの黒い影を帯びていたように振り返ります。欠陥、不具、倒錯、精神異常、片親、身体的な傷などなど。実に奇態なデフォルメを定着させられ、世間からそれを包み隠そうと苦悩し、時に露わにされて絶叫し暴走していった主人公たちの姿はさながら百鬼夜行図のようで美しくも妖しい光芒が感じられました。

 読者がすんなりそこに自分を投影し得たことは“時代”なのでしょうか、それとも僕たちが真っ黒な影にまみれた鬼のごときものを抱えていたのでしょうか。振り返れば奇妙で懐かしい思いを抱きます。

 とにかくここでの“みそっかす”という題名には相当にウェットなものが潜んでおり、お世辞にも胸を張れるような言い回しではなかったのです。日陰者の宿命が刷り込まれていたことは違いありません。


 さて、目を現在に転じて僕たちの日常を眺めてみましょう。“みそっかす”という言葉はどうなっているのでしょうか。皆さんの周囲に“みそっかす”はおられますでしょうか。

 茜は四人姉妹の三番目でしたが、現在の家族において兄弟姉妹の数はいよいよ少なく、さまざまな年齢の子供たちが一同に会して遊ぶことは稀有な出来事になってもいます。僕の世代より下の人たちには“みそっかす”のイメージを固めること自体が困難で、首をひねってしまう方も多いでしょうね。

 地表にてパタパタパタと羽ばたくも飛び立つ力がなくなっている、そんな夏の終わりの蝉たちのように、“みそっかす”はもはや何処かに姿を消そうとしているものでしょうか。


 もう少しこの事については考えてみようと思います。


(*1):「あしたのジョー」 ちばてつや  原作 高森朝雄  1968-73
(*2):「のたり松太郎」 ちばてつや  1973-98
(*3):「みそっかす」ちばてつや  1966-67
(*4):「あかねちゃん」 東映動画 1968 フジテレビ系列で放映
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93