2010年7月1日木曜日

小泉徳宏「Flowers フラワーズ」(2010)~懐かしい看板~


 
 知人宅を訪ねた折りに、外国製のチョコレートをご馳走になりました。ほどほどの甘さとあえかなバニラの匂いが口腔にふわりと拡がります。少し儚(はかな)げな印象を刻む上品な香味に仕上がっている。何でも旅行のお土産だということで、その折に撮られた写真を何葉か見せていただきました。


 場所は北米の太平洋岸の街、シアトルです。穏やかな笑顔をカメラレンズに向ける老夫婦の姿やマリナーズの本拠地である野球場などを微笑ましく眺めながら、徐々に成長して手堅いものとなる想いがあります。しっとりした落ち着きが街のあちこちから滲み出ている、これはなんだろう──。


 山の上なのか高層ビルの最上階なのか分かりませんが、広々とした眺望が眼下に広がっています。海へ向けて傾斜を強めていく大地に、悠然と街並みが連なっていく。微妙な違和感を抱えながら再度しげしげと見返すならば、それら林立する建物が実にしっくりと地面の傾斜と足並みを揃えているのです。つまり、背丈を合わせて綺麗に列をなしており、眺望を邪魔する“でっぱり”が一切ないんですね。真新しい外壁のビルディングばかりなのに、そのどこにも看板が見当たらないことにもやがて気付きます。何かしらの強固な規制が働いていることは明らかです。


 独裁政権を敷く首長のもと、大胆なグランドデザインが実行に移されたかのような、実に力強いものを透かし見ることが出来る。きらめく欧州の古都ならばまだしも、歴史的にまだ浅い北米の都市がここまで美しく展開している。凄いな、これは。


 ウェブ(*1)で検索して調べてみると、景観規制が市民レベルで根付いていることが分かります。市民の意見に折れた末にスケールダウンしてオープンした海岸沿いのホテルなども見れますが、日本じゃとても考えられない“落としどころ”です。人生の舞台となる自分たちの街を本気で愛している人たちがいるのでしょうね。


 “街並み”“景観”“看板”といったものに気持ちが傾いているのは、先日劇場で観た日本映画(*2)のせいでもあります。昭和初期から今日に至る七十五年の長く重い歳月を、三世代の女性群像を巧みに組み合わせて提示していく意欲作でした。そこにはシアトルとは対照的な風景がありました。



 大手化粧品会社と共闘してのイメージ戦略が生い立ちである以上、女性の装いや美しさを過剰に描いていくことは素人目にも回避出来そうにない。それは観る前からわかり切ったことで、案の定、人生の機微たる“老い”“戦禍”“格差”という翳(かげ)の部分をすっかり削ぎ落としてしまい、立体感の乏しい単調な顛末になっているのですが、それはまあ、仕方のないこと。前の席に座っていたご婦人は終始すすり泣きでしたし、ひとときの娯楽を求める気持ちには十分応えている。浮世離れの数々も“ご愛嬌”と笑って許してあげるべきでしょう。


 興味深かったのは、それぞれの年代のコントラストを思想の変転や流行り言葉をもって表わすのではなく、その時時に作られた映画の色調を徹底して再現して提示しているところで、その情熱と言うか固執の様子は呆れるほどでありました。(*3) 服装や髪型、小道具を駆使して年代に肉迫することは当然ながら、照明やカット割り、音質までも丸ごと動員してタイムスリップを目論んでいる。地味を装いながらも大胆不敵な演出です。その実験的な作業は観ていて気持ちの良いものでした。


 そのようにしてスクリーンに映じられた“過去”の街並みには看板がひしめいており、中でも随分と目立つ位置に“醤油”のイメージが刻まれていたのです。竹内結子さんと大沢たかおさんが演じる若い夫婦が旅行で訪れる海辺の町。その駅舎の前に置かれたベンチには、ありありと醤油メーカー(群馬に拠点を置く)の亀甲型のマークと名前がホーロー看板に描かれ貼られていたのだったし、また、東京の出版社で孤軍奮闘する田中麗奈さんを描くパートでは、上司より呼び出されて説教を受けた屋上から望むビル群のなかに、排気ガスに曇ってやや輪郭がほどけているにしても随分と巨大な(こちらは千葉本社の)、やはり亀甲型の目に馴染んだマークと社名とが赤々と浮かんで目に飛び込んで来るのです。


 物語の進行とはまったく無関係の登用であるのだけれど、この作品の“時代再現”への凄まじい粘着を想うとき、果たして意図なき偶然の産物であったか疑問が湧いてきます。1964年、1969年という過去のランドマークとして亀甲の印が選び取られたというのが正しい読み解きでしょう。


 もちろん醤油の看板だけでなく、余白の隅々を埋めるものが実に懐かしい光彩を放っていて、例えば壁にかかった東郷青児さんの女性画であるとか、紫煙にまみれ果て黄色い脂(やに)でベタついた柱の時計とか、ウィスキーのロゴの刻まれた平たい灰皿とか、谷崎潤一郎さんの著作の背表紙とか、美術スタッフの熱意が結晶化したものが点在して目を愉しませるのですが、そうやって僕たちを過去に誘(いざな)うイメージの一端に亀甲型のマークが含まれていたことに、わずかながらも衝撃があったのでした。


 “醤油”もまた“昔のもの”となりつつあり、今や忘却とのせめぎ合いの域に軸足を踏み込んだのかな、少なくともこの映画の送り手の幾人かはそのように“醤油”という存在を解析しているに違いなかろう。“懐かしいもの、過去のもの”に直結するものとして、ここでは“醤油”が使われている───。




 僕たちの住まう街はシアトルとは違い、乱雑で節操のない広告に埋まっている。美しい眺望なんて、だから望むべくもなく、破壊と再生を細かく繰り返しながら無秩序な街並みと看板の乱立が果てしなく続いていくでしょう。毎日が清々しい気分だろうと想像を巡らせる、そんな場所で暮らすことは僕にはやはり難しそうだ。


 それでも意識的に街路を見直す機会にこうして恵まれてみれば、看板であれ何であれ構成するそのひとつひとつが短命であることが分かります。それらが懐かしい人、懐かしい家族の記憶といずれ直結するのかもしれず、そんな回想の仕掛け作りを僕たちは日々しつらえているのかな、なんて考えたりもするのです。混沌とした儚い風景であればこそ、その時々の変転する人の気持ちや、逆にいつまでも変わらぬ想いなんかを寄り添わせることが可能なのじゃないか。


 日常にくたびれ、懐かしさに抗い切れずに足を止めて振り返ったときには、次々と入れ替わっていった看板たちや消え去った商品たちがその想いを受け止めて手を振り、きっと助けてくれるはず。僕たちの住まうこの街は時間旅行を可能たらしめる場処なんですね。ちょっと見苦しくても“ご愛嬌”と笑って許してあげるべきなのかもしれません。




(*1):「斜面都市における眺望景観保全政策の特性評価とview corridor施策の適用に関する研究」 栗山尚子 平成18年9月
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis/d2/D2002896.pdf
(*2):「Flowers フラワーズ」 企画・製作総指揮 大貫卓也 監督 小泉徳宏 2010

(*3): ウッディ・アレンさんの監督、主演による「カメレオンマン」(Zelig 1983)という映画も過去のフィルムの特性を丁寧に再現したものでしたね。合成技術の跳躍が最近めざましく、いよいよこの手の描写は精緻さを増して来ています。やがて古い映像が自由自在に編集され、まるで違った意味合いを持たされたりしちゃうのでしょうね。ちょっと怖い気もします。

 そうそう、「Flowers フラワーズ」には味噌汁が登場しています。劇中、食事の風景は実に少なく、“老い”“戦禍”“格差”といったものと並んで“調理”もまたさりげなく排除されて見えました。唯一の“味噌汁”は冒頭近くに描かれています。昭和十一年(1936)前後を描く蒼井優さんのパートで、嫁ぐ前日の蒼井さんを囲んでのちょっともの哀しい食事の場面です。家族揃っては最後となるだろう予感が小さな食卓を重く覆っている。

 ここでの“味噌汁”には旧来の隷属的で柔順な女性のイメージが幾らか投影されていたように感じ取れます。蒼井さんは父親が決めた婚礼に対して不服であり、翌日には白無垢姿で家から逃走するのだけど、それは“味噌汁”に象徴される束縛からの緊急避難でありました。映画ではそれ以降、実に75年に渡って“味噌汁”は影を潜めて消失してしまう。現在を生きる女性へ向けて作られた「Flowers フラワーズ」において、これもまた意図的な“空白の描写”であるように僕には思えました。何を足して何を引くのか、その結果導かれる物語を化粧品会社が支援していることは、考えてみると奥深いものがありますね。



 知人宅をおいとまする時、お庭の可愛らしい花が目に止まりました。初夏の陽射しに照らし出された白く薄い花びらに、細いまっすぐな筋が幾本も走っています。刺繍を施された肌着のような繊細で柔らかな印象なのですが、驚いたことに、これがハエトリソウVenus Flytrapの花なんですね。僕の宇宙はまだまだ未開拓です。 とげとげの葉っぱで虫を捕らえる怖い一面と、清楚な花びらが同居している。なんて逞しい生きものだろう。僕の身近に咲く「Flowers フラワーズ」、彼女たちも一所懸命に生きています──。

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