2011年9月30日金曜日

魚喃キリコ「こんなふうな夜の中で」(1999)~かしてくんないー?~



  ピンポーン、とチャイムの音がして、のぞみが顔を上げる

りょう「(声)のぞみさーん オレーー しょう油かしてくんないー?」

  のぞみ、手に持った本を閉じ、しょう油差しを持ってドアに向かう

りょう「あ ごめん 今 野菜炒め作ってるとちゅうなんだけどさー

    しょう油きらしちゃってて これないとさー」

  笑顔で応えるのぞみ。りょう、しょう油差しを受け取る

りょう「のぞみさん 夕ごはん食べた?」

のぞみ「食べたよ」

りょう「なに食った?」

のぞみ「コンビニのおべんと」

りょう「ん じゃ あとでお礼する」

  りょう、廊下を進み“となりのとなりの”自室へと向かう

のぞみ「ミナちゃん 元気-?」

りょう「おう 元気だよー」

のぞみ「ミナちゃんによろしくねー」

りょう「うーーッス」(*1) 
 

 隣家を訪問したところ、帰り際に桜蓼(さくらたで)をまとまっていただきました。

 指し示された庭の片隅には、すらりと腰の高さほどにも伸びた草が群生しており、その先っちょに目を凝らせば白く小さい花が数珠繋ぎとなって並んでいる。ひとつひとつが清楚な、けれど、きっちりした逞しさをそなえた顔付きです。

 今がちょうど見頃だから良かったら持っていって。雑草の一種には違いないけど、ちょっとおもしろいでしょ──。庭木を愛する婦人にとって、雑草だろうと何だろうと花に順列はないのです。有り難く頂戴しました。眺めていると元気をもらえる感じです。


 同じタデ科で花弁が桃色に染まっているのも一緒にもらい、それが染料の素になる藍(あい)だと教わりました。藍色といえばずいぶん豪胆で頑丈そうな色です。その源となっているのが、かくも痩せて華奢(きゃしゃ)な面影の草なのかとびっくりした次第です。こんな歳になっても僕は世界をよくよく知らない。未開拓の地平ばかりが周りに広がっている。

 考えてみれば人の一生というものは身近な地勢や町並みの把握、それに家庭なり職場でのなにがしかの環境改善の繰り返しであって、ひとりひとりが捜索者や開拓民で終わってしまうのでしょうね。見切った、見取ったとはなかなかならない。独り暮らしを始めたときの鼓動の高鳴りが程度の差はあれ、ずっと続いていくのかもしれない。


 さて、上に引いたのは魚喃キリコ(なななんきりこ)さんの「こんなふうな夜の中で」という作品の冒頭箇所です。おんなはひとり住まいです。自室で本など開いて和(なご)んでいると、廊下に面したドアが不意に叩かれる。若い男の声がします。“しょう油”が切れてしまったので貸してくれないかと言うのです。男は同じアパートの住人で、同世代の娘と同棲しているのでした。旧知の仲であるらしいおんなは挨拶を交わし、気安く“しょう油”を貸すのでした。若い時分の仮住まいには、確かにこんな軟らかな空気が漂っていますね。


 後日、こんどは連れの娘と廊下で顔をあわせ、“しょう油”の礼を言われてこそばゆい思いをするのでしたが、その照れ笑いするおんなの内実には少しばかり輻輳(ふくそう)する思いが宿っていたのです。時には声掛け合って外食するほど、均衡(バランス)のうまく育った三人だったのだけど、いつしかおんなの胸には人を恋うることへの勃(つよ)い撞着が芽吹いてしまい、脇の甘い男に対して大胆な物言いを始めてしまう。

 あたかも映画のフィルムが唐突にちぎれてしまうようにして物語は断絶し、僕たちの眼前で幕は降りていく。不安定なおんなの心情と、これに共振して境界膜をあやふやにしていく隣人の生理をさらりと提示するに止め、事の顛末をそれ以上寄り添って見届けはしない。見切った、見取ったとはならない。わずか12頁ながら、無常観を烈しく滴(したた)らせる作品になっています。


 読んだ瞬間、上村一夫(かみむらかずお)さんの「同棲時代」の挿話(*2)を思い出しました。主人公の今日子と次郎の部屋の並びに別のカップルが越してくる。扉がトントンと叩かれ、“醤油”を貸して欲しいと頼む声が聞こえてくる、そんな出だしでしたね。


 ふたつの漫画の間には25年以上の歳月が横たわっていますが、若者たちの面立ちと纏(まと)う空気はすっかり重なって見えます。類型的(ステレオタイプ)と決めつければそれまでだけど、何故そんな作劇上の決め事が時代を跨いで生き続けるのだろう。無理を感じる読み手がいないのはどうしてなのか。醤油がその役割を担うのはナゼなのか。


 赤の他人同士が隣り合って住まう場合、そこに結界が生れるのは当然のことです。警戒し、疎外し、ときには反目すらします。ほのかな関心を抱いたとしても距離を縮めるに至らず、乾いたすれ違いの日々を送ったりもします。

 そんな膠着した時間をひょいと覆(くつがえ)し、生々しい部分を発露させた人間対人間の交感が始まっていく。そのきっかけが“しょう油”の貸し借りというのは、実に不思議で興味深いことです。

 ずうずうしいと悪態をつかれることなく、他者の領域にするする侵入して境界をなし崩しにしていく。洗剤でなく、電池でなく、殺虫剤でもなく、お金じゃなく、“しょう油”が緊迫を解いて人間の内奥を外へとみちびいて行く。僕の目には“しょう油”の行き来を端緒にして、他者を縁者に次々と変えていく様子がなにか奇蹟か魔法みたいに映ってしまう。


 日に日に寒くなる秋の大気が桜蓼(さくらたで)や藍を咲かせるように、しょう油の成分に含まれる何かが僕たちの本能を揉みほぐし、開花を誘っているのかもしれません。緊張や不安を解き、リラックスさせる効果があるのかもしれない。

 
 春咲くばかりが花じゃない。秋にだって冬にだって、咲き誇っていい。

 しょう油を舐めて、もう一花、いえ、もう二花も咲かせてみましょうか。

 
(*1):「こんなふうな夜の中で」 魚喃キリコ 1999 「短編集」 飛鳥新社 2003 所収  初出はマガジンハウス「anan臨時増刊号 コミックanan」5月20号
(*2):「同棲時代」 上村一夫 1972-1973  VOL.57「夏のとなり」 
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/05/197214.html

2011年9月26日月曜日

桐野夏生「玉蘭」(2001)~そこに何かを見出したのか~



「お食事持ってきましたよ」

 谷川が窓際にある小さなテーブルの上に盆を載せた。白飯に炒め

物のおかず、小皿に梅干しが添えてある。塗り椀があるのを見ると、

味噌汁が付いているのだろう。(中略)

 浪子(なみこ)は谷川が出て行った後、部屋にひとつしかない中国

風の椅子に腰掛けて、光代の手料理を食べた。すっかり冷めていたが、

小さな角切りの豆腐の入った味噌汁は懐かしく、旨かった。梅干しも

日本の白米も、物質のすっかりなくなった広東では手に入れることの

できないものばかりだ。

(中略)

「いいよ、それより飯食ったか」

 質(ただし)は浪子の方を見ずに尋ねた。浪子は谷川が運んで

くれた冷たい夕食のことを告げようかどうしようかと迷ったが、

結局黙っていた。(中略)

「食べてないの?ここの奥さんのご飯は日本食だからね。旨いよ」

空腹ではないかと気遣ってくれないのか、あなたの妻になったのに。

気の回らない質に苛立ち、とうとう浪子は言い放った。

「あなたが帰って来ないから、あなたの分食べちゃったわ。久しぶり

にお味噌汁飲んで感激したわよ。おいしゅうございました!」

 質はやっと返答を返した浪子の顔を見た。そこに何かを見出した

のか、急に痛ましそうな表情をした。自分の顔に何が現れているのだ。

旅の疲れか惨めさか、病の徴(しるし)か。鏡が見たい。浪子は不安

になり、思わず両手に顔を埋めた。(*1)


 “食べもの”を登場人物のこころと連結させて、物語の色彩と濃淡をコントロールしていく。ときには“色気”と“食い気”を強引にない交ぜにし、個としての人間の輪郭を多角的に照射して浮き上がらせる。それによって読者の感情をも変幻自在に操ってみせる。稀にではありますが、そんな舌を巻く描写にぶち当たるときがあります。凄腕の書き手が日本にはいて、桐野夏生(きりのなつお)さんはそのひとりだと僕は思っています。


 十年も前に書かれたものですが「玉蘭(ぎょくらん)」という作品があって、恥ずかしながら今ごろになって手にして読んだのだけど、実に濃厚な味わいで胸に応える読書、硬い芯のある週末となりました。

 冒頭から末尾まで貫いている清澄な趣き、真摯な世界観もさることながら、使えるものは何だろうと動員して舞台をくまなく飾ろうとする作者の貪欲なまなじり、狂気にも似た緻密さにすっかり惚れてしまいました。当然“食べもの”も豪奢に、けれど無駄なく配置されている。


 たとえば物語の前半、航海の間、極度の緊張を強いられて魂をすり減らした船乗りがようやく陸にあがり、次の出航までに揺らいでしまった自分をどうにかこうにか立て直すために酒に溺れ、破壊的な面持ちで猟色していく夜が描かれるのだけれど、その際に男が歩んでいく場処は“食品市場”なのでした。異国のマーケットですから、甕(かめ)や篭(かご)に入れられた蛇やら犬やら蛙やら、おどろおどろした“食べもの”が列をなして視覚と嗅覚をいたく刺激します。それらは男がこれから挑もうとする官能の闇を、黒々と補強して塗り固めている。(*2)


 また、回復不能な喪失感を抱えた初老の男が人生に疲れ、自死することをいよいよ望んで、季節外れの雪に染まる別荘地をひとり放浪する場面が後半に訪れるのですが、奇抜な風体の老女が唐突に現われて男に救いの手を差し伸べます。おごそかな幽棲へと男を導いていくこのおんなには、異国帰りの破天荒な性格が割り当てられており、食事の場面では白飯に臆することなく砂糖をまぶし、さらにミルクを注いで食べて見せるのでした。男は唖然として声を失うのですが、その“普通とは違う食べもの”とおんなの堂々たる食べっぷりを好ましく思い、いつしか死の誘惑を断ち切っていくのです。(*3)


 “食べもの”と情感が編みこまれていて、どちらも実にうつくしい。
 

 僕たちの日常を覆う“食べもの”とこれに寄り添い萌芽していく人情の機微を、桐野さんは透徹した目線ですくい上げていく。そうして、両者の関係を再構築して自らの劇世界に植え替えて行き、リアルな色調で虚構世界を彩って見せるのです。咀嚼と血肉化の連携が見事ですね。


 上に引いたのは物語の中段にあって、先の二例にあるような感情の湧昇、凝縮とは真逆の動きが見られる場面です。


 不幸な生い立ちのおんなと男が出会い、おんなは未来を託して身ひとつで男のもとに走ります。転がり込んだ住まいは賄いつきの下宿の三階であり、疲れて空腹のおんなに冷めた夕食がひと揃え届けられるのでした。これが“普通の食べもの”それも異国(上海)にあって場違いな感じの「日本食」であるのが興味惹かれるところです。


 帰宅した男はどこかで酒をあおってきた様子であり、おんなの同居にどう反応していいのか戸惑いを隠せないでいます。おんなはおんなで疑心暗鬼にとらわれ男に食ってかかるのでしたが、その台詞には“味噌汁”が取り込まれており、きわめて強いスポットライトが浴びせ掛けられている。


 虚ろな逡巡やどうしようもない感情の交錯が誘爆して次々と蒼黒く燃え立ち、気持ちをどんどん落ち込ませていく。情愛のあかあかとした焔が鎮火しかけて危機的な状況にあります。「日本食」と“味噌汁”があわせ選ばれ、そのかたわらを占めていく。それは作家の生理というのではなく、長い時間かけて僕たちに刷り込まれた“食べもの”と魂の相関について、桐野さんなりに手づかみし辿り着いた風景、逃れようのない、まさに目前で展開される“僕たちの場景”であるように感じます。


 冷めた味噌汁のすっと鼻孔を透きあがる、潮風のような尖った気体の奥で夢の残滓がどこか香るようであり、なんとも切ない微動を引き起こす。味噌汁とは哀しい“食べもの”なのかもしれませんね。


(*1):「玉蘭」 桐野夏生 2001 朝日新聞社 引用は186-192頁 初出「小説トリッパー」1999-2000
(*2):同136-137
(*3):同365頁

2011年9月24日土曜日

栗村実「飯と乙女」(2011)~Rabbit for Dinner~



 “色気より食い気”(“花より団子”も同工異曲かな)といった言い回しが僕たちの暮らしのなかには脈々と活きています。情念や恋慕、性愛といった階層と“食べもの”はシーソーの両端にすっかり分け隔てられてしまい、ぎっこんばったんを繰り返しているみたい。 “食べもの”を介したラヴストーリーがそのためか、なかなか充実しない、育たない。


 テレビドラマはそんなのばかりだって。いや、ここで言うのは単純に食堂や酒場を舞台にしているかどうか、ということじゃなく、もう少し粘っこい話です。


 現実を見渡しても、仲の良い夫婦や恋人の隙間は定番の欧州料理やエキゾチックな中東料理なんかがかろうじて埋めがちであって、和食の旗色はさらに悪い。掘り進めていけば傑出した表現も見つかってこの頁でもいくつか紹介した通りなのですが、味噌や醤油と限定する以前のずっとずっと前段からしてきびしい戦局な訳です。本当に料理がからむと色っぽくならない。人間の生理なんだと言ってしまえばそれまでだけど──。


 “食べもの”を挟んで男女が向き合い魂をせめぎ合っていく、そんな様子を果敢に描いたものとしては、伊丹十三(いたみじゅうぞう)さんの遺した一本の映画(*1)が僕の記憶には鮮やかです。あれは演技者、文筆業ともに伊丹さんという人が独特のポジションを確立していたためでしょうね。日本人という立ち位置を嫌い、常に国際人を意識した結果であったように思えます。日本人が日本人の官能を描くとき、どちらかと言えば料理は邪魔になってしまう。


 そのような訳で、いつも不思議を感じながら僕は日本の小説や映画に挿し挟まる“食べもの”を見つめてしまう次第なのですが、先日、栗村実(くりむらみのる)さんという人が監督した「飯(めし)と乙女」という映画(*2)を観ながら、思いはより一層強まるばかりで、まあ、そういう作品、つまり思考や対話を煽るのが当初からの狙いみたいな世界観だったのだけど、それにしても全篇“食べもの”に覆いつくされていながら、かくも大きく“色香”との距離を置いてしまうものかと驚いてしまったのでした。


 夜半から明け方まで営業している気の置けないダイニングバーの、狭い調理場で夜毎奮闘する娘(佐久間麻由)や、常連の男女それぞれが抱える“食べもの”への憧憬、(当人にとっては心底重大な、傍目には奇妙な)食べることへの嫌悪感、抵抗感が描かれていきます。魂が決壊して相手をきつく抱き寄せ、暗く冷えた床に熱い身体を転がしていったり、精神世界の融合を果たした男女が互いの裸身を噛み合うという切々とした時間も訪れるのだけれど、にもかかわらずどこか乾いている。何故にこうも醒めた感じになるのか、不思議なんですね。


 役者に色香がないというのではなくって、また、画面に力がないというのでもなくって、何というか、やはり「距離」が遠い。“食べもの”のベクトルと情念のベクトルが相互干渉して失速していくように見える。


 演出者が虚弱体質であるとか、生に向かう執着の極端な薄さみたいなものが反射したかと疑ったのだけど、一概にそうとは言えないみたい。と言うのは、この「飯と乙女」の末尾には同じ栗村さんが演出した8分間の短編(*3)が付されていて、これもまた“食べもの”を主軸に据えたお話なのだけど、こちらは打って変わって血肉の臭いの生々しく、料理に競うように盛り込まれた男女の情念が室内に揮発し存分に香り立っても来て、僕の五感を大いに震わすところがあったのです。


 イタリアを舞台にし、画家の親子が登場し、そこに攻撃的な物腰の大人のおんなが闖入し、原型とどめる兎の肉が包丁で裂かれ押しつぶされして調理されていく、その過程が加わりもするから“非日常”はいよいよ極まっていく。昂奮を誘う罠はふんだんに仕掛けられ、僕たちの足元をすくおうと待ち構えています。なんだ、やれば出来る人なんじゃん。


 だったらどうして。男女の吐息の匂い迫ってくるような夜陰(やいん)やねっとりと絡み合う視線なんかと“料理”があまりに似合い過ぎて、先の淡泊な本編(日本篇)との段差は一体全体なんだったのだろうと首をひねり、混乱してしまうのでした。


 日本人の抱える穏やかさ、幼さ、歯切れの悪さ、深慮、虚ろさ、空白、息づく種火といったものを“和食(もしくは家庭料理)”のさっぱり感、小分け感、インスタント感を介して捉えようとした、ある意味“確信犯”だったのかと今は勝手に思ったりしています。



 どのような映画であれ小説であれ底の浅い予定調和に終わるのでなく、常識を軽々と超えて混迷を誘ったり、逆に収拾のつかぬ内実の整理に役立ったりする、そんな“高ぶったもの”が具わっていてもらいたいものですが、僕にとってこの二篇はいずれも虚を衝かれるところがありましたからね、悪くない時間なのでした。


 栗原さん、佐久間さん、そして関わった皆さん、美味しかったですよ、ごちそうさまでした。これからも面白い切り口で世界を料理していってください。



 連休をとれないどころか、なにくそ、の勢いで働いている人も多いでしょう。

 どんな現場でも、ところどころには得難い瞬間が潜んでいる。

 どんなに地味と思える仕事にも探せば色香はあると思うし、

 美しい瞬間はきっとあると思います。いい週末を──


(*1):「タンポポ」 監督 伊丹十三 1985
(*2):「飯と乙女」 監督 栗村実 2011
(*3): Rabbit for Dinner 監督 栗村実 2011
最上段の絵は劇中に挿入される絵で、Sandro Chiaという人の作品らしいです。気持ちが引きずられ、渦巻きにされちゃうような力がありますねえ。引用は下の頁から
http://culturedart.blogspot.com/2010/11/rabbit-for-dinner-chia.html

2011年9月22日木曜日

“planet Earth”




 食べ物とは無関係なんだけど、

 あまりに綺麗なんで貼りたくなりました

 こんな素敵な場処に、不粋なものを撒いてはいけない

 罪つくりなこと、と思いますね



 宇宙とはあまり関係ないのだけれど、思いつくまま続けます。
(台風のせいかもしれません。気圧の変化で頭がぼうっとしているところがあります。)


 日々の諸相を言葉に変えて綴ること、すなわち“日記”がかくも人気を博し、大量に生い茂ったことは過去なかったように思います。ウェブ上には赤なり蒼なり色とりどりに今日も乱れ咲いて、僕たちの目を和ませていく。


 こんな言葉を贈られたよ、偶然電車で乗り合わせた人が面白かったよ、満開の花がきれいだったよ、さびしげな湖にひとりで佇んでみたよ、エトセトラエトセトラ──。


 書き手の人柄、世界観、嗜好が透けて見えてくる。両の掌にすくった感動や惑いといった五感の記憶が、指の隙間からさらさらと洩れて消えていくのを必死で堰き止めているようにも見えて、健気だな、頑張ってるな、それに時間は残酷だな、とも思います。


 他人の目を意識する以上、話のネタは自ずと絞られてしまう。表向きは無難なものになるのが普通だけど、反面、ウェブ独自の匿名性にすがり内奥をそっと吐露する頁もあったりして、そんな文章に突き当たると実にうれしい。


(身勝手と承知しながらも)行間に隠された書き手の想いを手探ったりする時間は、何と言おうか、さながらマッサージ師になって指先に神経を集中し、肌の奥に潜むコリを見据えていくような感覚がある。それに、単調過ぎる日常によって胸奥で生じてしまいどうにも埋まらなくなった暗い裂け目が、透明な熱い接着剤を流し込まれふさがれていくみたいな、そんな不思議と慰撫される気分もあって悪くないのです。面白いですよね。

 
 先日、ある女性の日記(*1)を読みました。生涯を通じて綴った膨大な量の、それはほんのほんの一部に過ぎなかったのですが、圧倒され、呼吸が止まるような言葉や場面の連続でした。鮮やかで烈しい感情の起伏が眼前に迫って蘇えり、八十年程も前に起きたこととは到底思えない。


 ささやかな毎日を点描する僕たちのものと、全霊を傾けて刻んでいった彼女の日記とでは比ぶべくもないのだけれど、何事につけそうでしょうが月を跨ぎ年を跨ぎ、長く細く続けていくのも悪くない、きっと意味あること、大切なことなんだと鼓舞されるところがありました。



 季節は秋──同じ時代を偶然に歩む多くの善き人たち

 これからも堅実に、ささやかに歩んでいきましょう

 そうして、日々芽生える思いを綴っていきましょう


(*1):「インセスト―アナイス・ニンの愛の日記 無削除版 1932~1934」 アナイス・ニン 杉崎和子訳 彩流社 2008