2011年11月10日木曜日

“二三の料理を”



 イタリアの伝記映画を観終えると、正午をちょっと回った辺りです。まだお腹も空いていませんから、その足で真っ直ぐ図書館に行きました。


 パソコンで蔵書検索をかけ、小泉八雲(こいずみやくも)Lafcadio Hearnさんの全集(*1)を出してもらいました。別巻一冊を加えると全部で18冊、かなりの分量です。80年以上前の本ですから革の背表紙部分に崩壊が始まっている。クッキーが割れて粉々になるような具合です。手が汚れるので気を付けてください、重いのでどうぞこのまま、と親切な館員の方から言われ、整理作業用のワゴンに載せたまま館内をきゅるきゅる押して歩きます。なんか普通でなくって、少しだけ得意な気分。


 フロアには割合にひとの影があります。けれど、こちらの気のし過ぎかもしれないのですが、糸のほつれた感じというか、やや剣呑な空気が漂っている。館員から何事か注意された男性が辺りはばからずに大声で意見してみたり、長く沈んだ溜め息を繰り返すひと、呼吸器系の発作かと心配になるひどい咳き込みを重ねる人などが耳に障り、気持ちを泡立てます。あれだけの天災と混乱を経たのです、誰の身にも疲労なり心配は蓄積なっているのだと思います。


 窓際のソファに腰を下ろして外を見やれば、灰色の空に雲が蛇のようにぐわりと逆巻き、たなびいている。以前観た「怪談」という映画(*2)を思い出します。八雲さん原作のあの「怪談」です。あれには物凄い空が描かれていましたね。


 いよいよ小雨がぱらつき出しました。誰でもそうなのかもしれないけれど、僕は“幽霊”の夢をときどき見てしまい、わっと叫んで跳ね起きることがあります。長い髪のおんなだったり、見知らぬ中年男だったり日によって違うけれど、部屋に無表情でするすると入って来たり、寝ている僕にがばりとのしかかってくる。こんな年齢になっても恐怖映画が苦手で逃げ回っているのは、どこかで超自然のことを信じているせいかもしれません。


 けれど、「怪談」に代表される八雲さんの世界は別物です。多くが悲恋を土台にしているので全篇がうつくしい旋律に彩られ、経験値の少ない唐変木の僕にも熱く迫って来るもの、強く揺さぶるところがある。甘っちょろいと思われそうだけど、奇蹟とか運命とか、魂のことってやはりこの世に有るように思えて八雲さんの書くものがどれもこれも本当と感じられる。


 こうして全集をひもとき書簡集も含めて読み進めていくと、さらに彼の人柄や性格も手のひらにしっくり伝わるような感じでこころ強いというか、どこか励まされるような気持ちになりました。あくまで現実とは違う次元であって、生きた友人同士が膝を寄せ合い談笑する嬉しさ、愉しさには遠く及ばないにしても、人間の“核”(と書くと今は胸騒ぎするところがあるのだけど、でも“芯”とか“核”という強い響きとイメージにすがり付きたい時もあります──)に触れ合うような悪くない時間になりました。


 わざわざ足を運んで八雲さんの道程を探った理由は、もちろん“味噌”や“醤油”の記述の有無、表現なり反応に対する好奇心に外なりません。結論から言えば(僕の目がふし穴でなければですが)八雲さんの視界に味噌や醤油はまるで無いんですね。落胆を通り越して不思議であり、とても興味深く思えました。婦人の懐旧談で漬け物(奈良漬)なんかが不意にクローズアップされたりはしますが、味噌と醤油はまるでこの世に存在しないかのようです。


 明治23年(1890)、四十歳のときに横浜に上陸して以来、十四年間に渡って日本に居住してやがて心臓を患い、愛妻節子さんの側で眠るように亡くなってしまう八雲さんでしたが、驚嘆させられるのは執拗で飽くことなき日本文化への探求、その凄まじさ、その厚み、堆積です。


 ───蝉(せみ)、蜻蛉(とんぼ)、蝶といった小さきものと文人との関わりかた、仏具のかたちとそこに込められた意味、日用食器の装飾と由来、儀式、言葉、神話、日本人の骨格、瞳なり髪といった部分の特性、売り子の声、子供の遊び唄、それに派生し絡まっていく宗教観と死生観、聖書との交差、呼び覚まされた記憶から爆発的に連なっていく欧州文化に対する意識改革、視野の拡大──八雲さんの旺盛な好奇心は全方位に駆け巡り、まぶしく連射され続けます。


 込み入った内容のはずなのに、愛着と憐憫が泉のように溢れてたゆたい、至極おだやかな面持ちの文面になっている。硬軟交互に綾織られた言葉を目で追うと、とても知的で趣味もいい友人とおしゃべりしているような気分です。


 博覧強記の八雲さんが全身全霊をあげて漁にかかった日本で、その網に不思議と“醤油、味噌”が入ってこない、というより、“食べもの”への執着がすべからく薄い。たとえば「舞妓(まいこ)」と題された随想には悲しい因果話が挿入なっています。旅人が山峡で道に迷い、偶然見つけた家に一晩だけ厄介になる。主(あるじ)は妙齢のうつくしい女性であって、その容姿と立ち居振る舞いが高貴な血筋を連想させ、男のこころを虜にしていく。腹を空かせた男におんなは出来る限りのもてなしをするんですね。



 飢えていた旅人は、この勧めを非常によろこんだ。若い女は小さな火を

焚いて、黙ったまま、二三の料理を調(ととの)えた──菜の葉を煮たもの、

油揚、干瓢、それに一杯の粗飯──それから、その食物の性質について、

詫びながら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を言わ

なかったので、その打解けぬ様子は彼を困惑させた。彼が試みた二三の質問

に対し、彼女は単に頷いたり、あるいは僅かに一語の返答をするに止まる

ので、彼は間もなく談話を控えてしまった。(*3)


 同様の場面が泉鏡花(いずみきょうか)さんの作品(*4)にもありました。ほぼ同時代の作品なのに、鏡花さんのものと比べると八雲さんの筆が“食べもの”に関してびっくりするぐらいぞんざいなのが分かります。“飢え”を抱えた人間と真正面から向き合うものになっていない。斜(はす)に構えた調子が独特です。


 旅行記の一節にはこんなくだりがあります。これなんかも世界を構成するほかの要素から“食べもの”だけが剥離しているというか、どうも上手く噛み合っていないように感じられる。



 その宿屋は私に取っては極楽、そこの女中達は天人のように思われた。

それは私があらゆる『現代の便利な物』のある欧州式のホテルで安楽を

もとめようと試みた一つの開港場から丁度逃げ出したところであったから

である。それ故もう一度浴衣(ゆかた)を着て、冷(すず)しい畳の上に

楽々と座って、よい声の若い女達にかしづかれて、綺麗な物に取りまかれ

て居るのは、十九世紀のすべての悲しみの償いのようであった。筍や蓮根

が朝飯に出て、極楽のかたみに団扇(うちわ)を贈られた。(*5)


 天女に給仕される無上の想いに酔いながら、八雲さんは極楽での食事を書き飛ばしています、まるで怖れるように、まるで逃げるように──。とても奇妙な後味を残します。


(*1):小泉八雲全集 第一書房 1926-1927 次回も含め引用はすべて当全集より 当用漢字に直したり旧仮名遣いを変更したり手を入れてある
(*2):「怪談」 監督 小林正樹 1964 予告編を下に貼っておきましょう
(*3): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第22章 舞妓について」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 全集第3巻 680-681頁
(*4):「高野聖」 泉鏡花 1900 

「さて、それから御飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香の物、

生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、

塩漬の名も知らぬ茸の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころ

ではござらぬ。

 品物は侘しいが、なかなかの御手料理、飢えてはいるし、

冥加(みょうが)至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に

肱(ひじ)をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。」

http://miso-mythology.blogspot.com/2010/12/1900.html
(*5): Out of the East: Reveries and Studies in New Japan(東の国から)「夏の日の夢」 小泉八雲 1895 田部隆次訳 全集第4巻 15頁 

2011年10月31日月曜日

“ひとり観”



 前からも後ろからも真ん中あたりの列、中央寄りの席に座っています。国家元首か大富豪がプライベートの上映室にワイン片手に陣取った風でもあり、見た目には豪華な感じがしないではありません。夕方の回なのに、いや、夕方の回だからなのか分からないけれど、結局誰も入って来ないのです。百席ほどの館です。スクリーンを前に最初から最後までひとり切り、独占状態で映画を観ました。こんな経験はそうそうなく、生まれて此の方三度目ですね。


 三度というのが多いのか少ないのか、僕には判断がつきません。もっと田舎の映画館ではそんな光景が日常茶飯なのかもしれないし、存外都会だってよく起きる事かもしれない。大した話じゃないかもしれないけど、書き留めたくなる話もそうそう無いしね。まあ、とにかく久しぶりの“ひとり観”だったわけです。



 お客はひとりと考えて暖房費をケチったのではないのでしょうが、どうも肌寒くてたまらない。映画館という場処は適度に人の気配やざわめき、体温や吐息、咳き込んだり笑ったり、鼻すすったり、音や画面に驚いて傾いだり、そういう要素がないと妙に淋しく、ひどく寒々しいものですね。暖房が切られたせいじゃなく、“ひとり”ということが身にこたえるのです。奇妙な体験に胸躍らせていた前の時とは違って、あまり嬉しい気分じゃありません。
 

 途中遅れて入ってきた客が指定の席に座ろうとしてじたばたし、他の客の足を踏んでちょっとした騒ぎを起こしてみたり、隣りに座った観客のクスリと笑う気配を好ましく思ってみたり───。ささやかな事ですが、人間って面白いな、素敵だな、と感じます。つまりはひと恋しさを埋める効果も劇場には確かにあって、単に映画を眺めにいく処ではないのでしょう。でなければホームシアターなりベッドルームの液晶テレビに役目をとうに譲っているはずだもんねえ。



 ホットコーヒーにすれば良かった。脇の椅子からコートを取って首から胴まですっかり覆い、大きな茶色い照る照る坊主になりました。さらにその下で自分の身体をきゅっと抱きしめながら見ていました。


 映画はスペインの作品(*1)でした。いのちの炎のまさに消えかかろうとする男が主人公です。特殊な状況下で神経のひどく研ぎ澄まされていく最後の二ヶ月間を、残される家族の身の末や自分に関わるひとの自活の行方を自問自答しながら、懸命に、ぼろ布(きれ)みたいになりながらも生き抜いていく、そんな内省的な内容でした。


 日常の“食事”の光景がとても丁寧に取り上げられていたし、生きながらえることで訪れてしまう切なく胸をふさぐ場景も逃げず果敢に描かれている。僕の置かれた状況とリンクする(いや、不治の病と闘っている訳じゃないです)ところもあって、それはそれで悪くありませんでした。整頓し切れぬまま乱雑を極めてしまった胸の奥の部屋を、数名のボランティアの援けを借りながらことこと掃除していく、そんな風な“双方向の感覚”があって映画鑑賞自体は“充ちた時間”であったと思います。


 けれどねえ、ひとりで、連れがいないという意味でなく、本当に“ひとり”で映画館で映画観てるって、人間の生活としてどうなんだろう。身に沁みて考えさせられる時間になりましたね。


 夜風に身をすくませながら車に乗り込み、FMから流れるクラシックを大音量にします。さびしさを紛らわせたい一心です。今番組表で調べてみたら、どうやらラフマニノフのピアノ協奏曲。映画を反芻し、あれこれ想いながら走りました。



 秋はいよいよ深まります。

 どうか早め早めに一枚羽織り、指先、足先まで温かくして過ごしてください。

 生命(いのち)の炎を意識しながら、大事に大事に歩みを続けてください。


 すばらしい錦秋を、すばらしい四季の移ろいを──


(*1): BIUTIFUL 監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2010

2011年10月24日月曜日

井伏鱒二「黒い雨」(1965)~さむけ~



 上に貼ったのは映画「黒い雨」(*1)のポスターです。主演を務めた女優田中好子(たなかよしこ)さんが震災から一ヵ月後に亡くなり、また、世間の原発事故に対する動揺とも共鳴するものがあって一時期ずいぶんとクローズアップされました。原作(*2)は1965年から翌年にかけて連載された井伏鱒二(いぶせますじ)さんの小説です。

 恥しいことにこれまで僕はこの本を読んでおりませんでした。今回初めて手に取り、就寝前や交通機関で長時間移動する際に読みすすめた次第なのですが、当然ながら他人事ではなく、憂いをもって臨まなければなりませんでした。

 このブログは味噌や醤油というものがどのように日本人の読んだり観たりする娯楽に関わり、そこでどのような役割を担ってきたかを読み解く目的があります。事故をめぐって僕の内奥にはもろもろの残響が居座っているのだけど、とりあえずそれらを吐き出すつもりはありません。「黒い雨」中の“味噌”について絞り込んでメモしておこうと思います。

 閑間重松(しずましげまつ)とその妻シゲ子、それに親戚から預かっている年頃の姪矢須子(やすこ)の物語です。彼らは原子爆弾が炸裂した広島の街を命からがら逃げ延びた過去を持ちます。お話の上での現在は“終戦後四年十箇月目”(*3)といいますから、昭和25年(1950)の6月ということになりますね。

 矢須子の縁談がいくつか流れた背景にあるのが被爆への偏見と考えた重松は、己が終戦後書きとめた「被爆日記」と矢須子の日記を清書して相手に渡すことが最良と思い立ち、机に向かって一心不乱に文字を写していくのでした。矢須子はあの光線や炎を直接浴びてはいない、四年経った今もこうして元気に、いや一層艶やかに花咲くように暮らしているではないか──

 しかし、この詳細な記憶の掘り起こし作業と前後して矢須子の体調は急速に悪化していき、当初の思惑とは離れた展開になっていくのでした。縁談うんぬんはすっかり霧散し、生命(いのち)のともし火を守るための険しい闘いに入っていく。ふたつの日記に妻シゲ子の綴る更にふたつの記録、すなわち“戦時下の食糧事情”と「高丸矢須子病状日記」が加わって、彼らを襲った災厄の詳細が浮き彫りになっていくのでした。

 味噌についての記述を抜き書きし、これを時系列的に並べ直してみます。そうすると重松と家族、および、当時の人々より味噌に向けられるまなざしの質が分かりますし、味噌が担った役割も見えて来ます。
 
 まず重松の幼少のころ、そして、会社員になった頃のエピソードに味噌が顔を覗かせています。味噌は重松に寄り添い、たいへん印象深い顔立ちを見せています。
 この仲三さんは小畠村の谷口屋という屋号のうちのもので、僕は
子供のころ、この人の父親から鰻(うなぎ)の穴釣の仕方を教わった。
そのとき釣の余興として、竹藪から取って来た筍(たけのこ)を河原の
焚火(たきび)で焙(あぶ)って食べることを教わった。筍を皮の
ついたまま焚火で焙って皮を剥き、最寄(もより)の家で貰って来た
味噌を湯気の立つ筍に塗って食べるのだ。(*4 )

 次に、会社の運営を円滑にするために、被服支廠に対して人聞きの
悪い奉仕をする。こちらとしては出血作戦をしているようなもので、
先方としては濡手(ぬれて)に粟(あわ)である。
僕はそんなことで厭な思いを何度も経験した。最初は入社して間も
なく味噌を仕入れたときである。備後府中町の松岡という味噌醸造所
から、四斗樽(だる)入りの味噌五十樽を買ったとき、その半分の
二十五樽は被服支廠へ譲った。(*5)
 妻シゲ子によるノートからは戦況の悪化が読み取れます。物資の流れが思うようにならなくなり、工夫して乗り切っていく様子がうかがえます。穀物や野菜が入手しにくい中で、なんとか腹を満たし、食欲を封じる手段として味噌や醤油の活用が描かれる。ここで味噌はずいぶんと褒められています。
 それからまた、米に大豆を入れたのを配給されることが
ありました。でも、大豆を混入して飯を炊(た)くと臭みが
移って食べにくくなりますので、大豆は選り出して、一合
あまり一夜(よる)水にひたしまして、翌朝、擂鉢(すりばち)
で磨(す)りつぶして木綿布で漉した汁を、味噌汁や醤油汁に
入れたりいたしました。また汁だけを豆乳として、多少糖分を
入れて飲むこともありました。ときたま、大豆のしぼり滓は
醤油で煮て副食物にもしておりました。
 代用食のパンは焼いて味噌をつけ、または味噌をつけて焼いたり
して食べまして、主食を延ばす貴重な材にしておりました。
パンのときには、つくづくバタやコンビーフの味覚を思い出す
ことでした。しかし味噌は東洋在来の調味料として、塩や醤油に
較(くら)べて実に堂々たるものだと思うようになりました。
戦時下になってから漸(ようや)くそれに気がついたのでございます。(*6)
 さらに食糧事情は悪化の一途をたどり、味噌すらも底を突く勢いとなります。そんな中での原子爆弾の投下──。九死に一生を得ての逃避行の先々で、かろうじて蓄えられていたものが床下や納屋から取り出されて一行の口を悦ばせていきます。
 重松は好太郎さんがコブツを仕掛けるとき、ひとりごとのように
ぶつぶつ云いながら鎌で割竹を削っていたのを思い出した。
「ほんまに、どえらい食糧難じゃ。糧秣廠の炊事部ですら、味噌の
配給が間に合わんちゅうて、おろおろしておった。明日は塩汁にするか
味噌汁にするか、見当がつかんそうな。献立表を書こうにも書けん
そうな」と云っていた。あのころはお互にひどい食生活であった。(*7 )

 古江に着いたのは午前六時半ごろ。農家はまだ雨戸をしめて
いたが、能島さんの奥さんの生家ではお父さんとお母さんが、
蔵の戸を明けて私たちを待っていて下すった。私たちは荷物を
卸して土蔵に入れた。能島さんの奥さんは念のためだと云って、
私たちに荷物引換の証文を書いてくれ、私たちは母屋(おもや)の
座敷にあげて茶菓子の代りに味噌を添えた胡瓜を出して下すった。
みんな親切な人ばかりである。(*8 8月6日)

 僕は敗残の百姓一揆(いっき)のようだと思ったが、竹槍を
つきながらシゲ子に脇(わき)を支えられて坂を登って行った。
そのとき初めてシゲ子が頭の髪を焦がしていることに気がついた。
「いつ髪を焼いた」と訊(たず)ねると、六日の空襲のとき焼けた
らしいと云った。
 昼飯は携帯餱糧(こうりょう)の焼米で、お菜は菜種油で
煠(いた)めた味噌である。その他には桜の花茶が添えてあるだけ
だが、我家の料理としてはこれでも最上の部類に入るのだ。
(*9 8月8日)

 矢須子は岡持ちのなかのものを一つ一つ食卓に載せた。会社の食堂で
仕出したものは、桑の葉の天麩羅(てんぷら)五枚、なめ味噌と食塩、
お新香二片、フスマを混ぜた麦飯の丼(どんぶり)である。これが四人
ぶんあった。桑の葉は炊事部の社員の発案で、工場の横の桑畑から採取
したものであるそうだ。戦争のため農家では養蚕を中止して、桑の枝を
刈込んで野菜の間作をやっている。今、桑は切株から土用芽を出して、
食べころの若葉をつけているそうだ。(*10 8月13日)

 朝飯はフスマを入れた麦飯と微塵切(みじんぎ)りの芹の
味噌汁で、昼の弁当は同じ飯のお握りと貝の佃煮である。芹は
四月すぎると蛭(ひる)の卵や幼生が附着しているから、
普通なら食べないことになっている。
僕の隣の席にいた中田君という中年すぎの工員が、食事運びの
女の雇員に、
「味噌汁はよく煮たのか」と聞くと、「いつもの倍くらい長く
煮てあります」と云った。
横合から僕が「弁当の貝の佃煮は蛤(はまぐり)かね」と聞くと、
「潮吹貝です。潮水で煮たのを闇屋が持って来たので、調理場さんが
お醤油で煮詰めました。皆さんの昼食のお菜です」と云った。
(*11 8月14日)
 終戦をもって重松の「被爆日記」は途切れます。原子爆弾が炸裂したとき頬に裂傷を負った重松は自身の健康を気遣い、何を食べるべきか、どんな療法を続けるべきか模索する毎日です。“終戦後四年十箇月目”の日常には味噌が静かに寄り添っていました。
 もう一人の仲間の浅二郎さんは、庄吉さんと同じく自発的に
勤労を買って出た奉仕隊員として広島に出かけていて被爆した。
(中略)この人の栄養の摂りかたは、巡回診察医の指示には従わないで、
お灸の先生に教わった安あがりの方法に従っている。食事は三度三度、
油揚と切干大根を入れた味噌汁を二杯と生卵を一つ必ず吸って、
一日に一回はニンニクを食べている。手当としては週に一回お灸を
すえる。(*12)

 重松は箱膳(はこぜん)の前に坐って、茶色の液体が入っている
ボテボテの茶碗を取りあげた。これは夕食前の重松の飲みもので、
内容は、乾燥させたゲンノショウコ、ドクダミ、ハコベ、オオバコを
煎じた汁である。
 膳の上のお料理は、ミツバの根を刻んで入れた舐味噌(なめみそ)と、
卵焼と、沢庵と、それから鰌(どじょう)の浮いている味噌汁である。
「こりゃあ豪勢だ」と重松は、鰌汁の椀を取った。(*13)
 この「黒い雨」は実在の人物の日記を基幹に据えたもので、当時広島に住み被爆した多くの人たちの実像に迫っていると思われます。作者は同県出身でもあり、直接原子爆弾のもたらした惨禍を目にしていないにしても極めて身近なものと感じたことでしょう。終戦を四十代後半で迎えており、世相や民衆の奥底に潜むものも十分に透かし見る度量も育っていたはず。その地その時に渦巻いた修羅の詳細を脳裡に再現し、肉薄することは可能だったことでしょう。ですから、物語のなかの重松一家を支える“食生活の面立ち”は想像ではない、偽りのない“広島での日常的な食事”に他ならないのです。
七月二十六日 晴 涼風
朝、三十八度の熱、さむけ。味噌汁、海苔、らっきょう、漬物、卵、
御飯半膳。(*14)

七月二十七日 晴 むくむくと夕立雲
朝、三十七度。気分よろしく、朝飯は茄子の味噌汁、いんげん豆、
卵、御飯二膳。
久しぶりに笑う。(*15)

七月二十八日 快晴 お昼ごろ夕立 すぐ快晴(中略)
病人、気分よろしく、熱三十七度。朝飯は、ずいきの味噌汁、
ラッキョウ、卵、漬物、御飯二膳。
三度目の腫れもの潰れ、病人自身で膏薬を貼る。(*16)
 “病状日記”にも味噌汁は寄り添い続けます。災厄から“四年十箇月”も過ぎて後、唐突に、まるで奈落に落とされるように暮らしを、夢を、未来を剥奪されていく若い娘が淡々と描かれています。彼女は何ものかに祈る想いで必死に食べものを口にしていったのでしょうが、物語は娘の行く末を描こうとせず、あいまいなままで筆を折ってしまうのでした。

 味噌が消化管を保護して放射線障害の進行を緩和し、被曝した人たちを助けるのではないか、毎日の摂取が有効ではないか、大事ではないか、という“噂話”があります。僕もその話題をここで取り上げましたし、祈る思いで毎日飲んでもいます。

 しかし、こうして「黒い雨」の徹頭徹尾“味噌”と歩んでいる日常描写に触れてみると、“助かる”とか“助ける”といった表現は簡単に口にすべきではないと分かります。助けられない、救えない、どうしようもない、遠巻きにして見守るしかない、祈り続けるしかない、そういった事が現実にあることを思い知らされた、学ばされた気持ちで今はいます。

 そうして思うのです。子どもを逃がしてあげなさい。逃げるのが正しい、そういう戦法もあります。相手は無慈悲な化け物であって、祈りなど通じない。相手が悪過ぎるのです。


(*1):「黒い雨」 監督 今村昌平 1989
(*2):「黒い雨」 井伏鱒二 新潮社 1966 手元にあるのは新潮文庫74刷 引用頁もこの文庫版のそれを表わします
(*3):11頁
(*4):257頁
(*5):217頁
(*6):80-81頁
(*7):74-75頁
(*8):17-18頁
(*9):183頁 
(*10):357‐358頁 
(*11):366頁 
(*12):31頁
(*13):72頁
(*14):289頁
(*15):290頁
(*16):293頁 

ちなみに上記と重複しない“醤油”単体の登場する箇所は次の通り。その香りや味は困難な食糧事情を支えていく工夫のひとつとなって彼らの暮らしのなかで点滅している。やや出しゃばった感じが印象に残りますが、これ等の解釈はまた何時かといたしましょう。
 その蓮田の岸の草むらに、一羽の白い鳩がうずくまっていた。そっと近づいて両手で摑まえたが、鳩の右の目はつぶれ、右側の肩のところの羽がちょっと焦げていた。僕はこいつを醤油の附焼にして食ってやろうと食指を動かしたが、空に向けて放り出す仕方で逃がしてやった。(218頁)

 僕が葬式の読経をすませて寓居(ぐうきょ)に引返して来ると、燈火管制で締めきった雨戸の外まで餅を焼く匂がにおっていた。醤油の附焼にしているのだと分った。(中略)客人が土産に持って来た餅だろう。矢須子とシゲ子は、がつがつ餅を食べていた。(230頁)

 僕は工場長の向かい側に腰を卸した。「降伏らしいですな」
「どうも、そうらしい」と工場長は、案外あっさり云った。「今、陛下が放送されたんだ。しかしラジオの調子が悪くってね。工員が調節したが、いじればいじるほど悪くてね、はっきり聞えないんだ。しかし、とにかく降伏らしい」
 食卓の上にあるフスマを混ぜた丼飯(どんぶりめし)は、かさかさに乾いて蝿がたかり、醤油で煮しめた潮吹貝にも蝿がいっぱいたかっていた。誰もそれを追い払おうとする者はいない。
「さあ諸君、元気を出して食べよう」と工場長が、取って付けたように大きな声を出した。(382頁)

2011年10月23日日曜日

You are what you eat



 先日、何年かぶりにある映画(*1)を観直しました。

 仕事に行き詰まった初老の作曲家が主人公。溺愛する娘を喪い、そのあげく妻との仲もこじれてしまったのか、単身海辺の避暑地にやって来ます。持病である壊れかけの心臓を療養するのが目的ですが、精神的に追いつめられての雲隠れ、逃避行なのは誰の目にも明らかです。そこで出逢った眉目秀麗な少年タッジョに目を奪われ、平衡を失っていた男の魂はさらに深く傾いで転覆寸前となるのでした。


 物語の背景にあるのは“疫病”の蔓延です。“死”を強く意識させて男の内面や美意識を彫り込んでいく。

 登場人物を追い込み、魂の振幅を後押しするのは作劇上の技法としては常套手段であって、悪魔や犯罪者の群れなんかが背景を彩ります。けれど、この映画のあまりの生々しさ、現実世界と共振するさまに意表を突かれ愕然としてしまいました。原作をひもといてみれば、男は喉の渇きを潤すために腐れかけの苺を(十分に疾病のリスクを承知していながら)口にしており、それが原因で罹患して終幕意識を失います。情報の隠蔽と規制、出版物の購入差し止めなどが描かれてもいます。ロマンティークな気分は遠のいてしまい、黙示録の光景、恐るべき啓示として目に映ってなりませんでした。

 また、昨日には一通のお手紙をいただきました。まさに渦中のなかの渦中に住まうひとからで、そこには「この度の原爆事故の一刻も早い収束を祈っています」と書かれていました。“原発”ではなく“原爆”と綴られている。間違いには違いないが、実感として当たっている、正しいと僕は感じています。


 津波に襲われ破壊し尽くされた沿岸部にたたずんだとき、僕の意識は大戦の惨禍と無理なく直結しました。手紙の女性が原発と原爆を連結して筆を走らせてしまったのは、恐らく自然すぎるほど自然な思考の流れが彼女の脳裡にあったためです。もっともな事態です。

 
 本能や直感を冷笑し、冷静さ、科学的根拠の名のもと言われるまま(というより“言われないまま”というのが実態に即しているように思えますが)行動するだけで本当に大丈夫なのか。僕のなかでは盛んに波立つものがあって、落ちつかぬ日々を過ごしています。


 なるほど放射線障害とイタリアの古都を襲った疫病は違います。また、発電所事故と広島、長崎を襲った原子爆弾の炸裂とは無関係です。けれど、私たちは何かしらの地図を頼りに、自分たちなりに道を見定めながら歩いていくべきだと感じます。ロシアの事故、目を覆う戦禍、しのび寄る疫病といった先人の背負った“現実”をそっと懐中に忍ばせて、自分たちなりの歩みを続けなければいけない。



 You are what you eat ──そんな言い回しを以前教わりました。


 これからの僕たち、そして、僕たちの次の世代にとってこの言葉の放つ意味は何層にも膨らんでいくでしょう。食べることに限らず、読むこと、見ること、学ぶことといったあらゆる“摂取”行為が次の一手を大きく左右していく。


 弛緩してばかりはいられない。笑ってばかりの時代は過ぎたように思えます。ふくらはぎか足裏か、どこかには緊張を引きずりながらしっかり歩んでいきたい、そう思っています。

(*1):Morte a Venezia / Death in Venice 監督ルキーノ・ヴィスコンティ 1971

2011年10月13日木曜日

リシャール・コラス「紗綾 SAYA」(2011)~あれば十分です~



 リシャール・コラスさんの新刊「紗綾 SAYA」(*1)を読みました。湿り気をうしなって砂交じりの仲になった夫婦が登場します。寝室も別にしてしまい、実のある会話も成立せず、もはや難しい局面に入りつつある。寝たきりとなった家族も抱え、青息吐息の毎日です。そのような膠着した局面で男は運命的な出会いをしてしまうのでした。ぼんやりした雨雲がすべてを覆っていく、そんな筋立てです。


 夫婦の危機や嫁姑の確執は物語の題材として真新しいものではなく、むしろ陳腐なものです。わざわざ抜き書きして記録するに値する文章、作品とは誰も思わないかもしれないですね。人によっては途中で放り投げてしまうかもしれない。 


 けれど、この物語をつらぬく視座が、実は前作「遙かなる航跡」(*4)に引き続いて登場したある人物に置かれたものであり、新旧ふたつの物語がこの人物を間に挟んで秘かに連結し、最終的に螺旋を描き天空に向かって飛翔を開始しているのだと巻末で知れると、僕の胸には言いようのないおごそかな想いが湧きました。一見ステレオタイプの不倫劇に見えるけれども、かなり緻密にふたつの物語は構築されて世に送り届けられている。


 ウェブを検索すると作者のインタビュウ(*5)が見つかります。震災と発電所事故という巨大な壁がたくさんのひとの行く手を阻(はば)んで、航路を揺るがし、ひどく狂わしてしまった。このような時に求められるのは人とひとの心を繋ぐ“絆(きずな)”であり、その確認が大切と思う。そんな啓発の念をこめて上梓したことが静かな口調で語られています。


 物語のなかの男女とそこに関わる若い娘は、最後散り散りとなって自壊していくのでしたが、作者は前作の主人公だった人物(作者の分身)の視線を“絆”と為して離散を食い止め、忘却の淵に追い払われるところを寸でのところで回避しているように見えます。救われない話に見えて、ぎりぎりのところで救われているのですね。


 誰もが同じようなものを抱えて人生という演目をこなしている。“ばみり”が見当たらずに途方に暮れたときには自分の物語を隣人に預けてみてはどうか。そうして気持ちを整理し、呼吸を整えてみてはどうか。家族の絆だけでは何ともならぬ凄惨な現状にたじろぎ、自棄的な行動に走らず、思い切って“他人との絆”に賭けてみてはどうか───そのようにコラスさんは言いたいのでしょうね。


 本国フランスで二年も前に出版され、こんどは作者自身の翻訳で世に送り出された日本語版「紗綾 SAYA」は、作者の言う通り“震災後の物語”として記憶に刻まれていい、こころざしのともなった一冊のように受け止めています。


 さて、味噌汁の記述を並べてみましょう。

 夫との関係は、すっかり冷えてしまいました。毎日夕食まで

帰るかどうかもわかりませんから、夫のためにわざわざ食事を

用意しません。炊いたご飯と残り物のおかず、それに味噌汁が

あれば十分です。

 ビールを冷やし、簡単なつまみを用意するだけのこともあります。

夫はきちんとした食事がなくても、冷えたビールとつまみがあれば、

それで満足なのです。(*1)

 “習慣化”したり“義務”を感じ始めると、どのような崇高な行為であっても生彩をたちまち喪っていく。先日読んだ本(*2) にそんな記述がありました。そうですね、たしかにそういう時期って在るもの、起こるものです。仕事だってそうだし、遊びだってそう。食事はその典型です。“日常のかなめ”となるのはリズムの持続であったり程度の保持であったりする訳で、どうしてもループを作って“習慣化”させていく流れです。


 祭事であったり記念日だったり、それは人それぞれではあるけれど、特別な日に特別なものを存分に食べて“習慣”を押し崩す。難しい言葉を持ち出せば“蕩尽(とうじん)”して疲れたこころを洗濯する。そんな工夫を僕たちはします。けれど、それすらも“義務”的な色彩を帯びてくると気持ちはやや乖離してしまうし、解放感どころか窮屈を覚えたりもします。シンプルなのだけど、シンプルでいられない。歯痒い“難しさ”があります。


 上に引いたのは「紗綾 SAYA」の最初の方に登場する場面です。習慣として義務として食事は作られ列をなしていく。“炊いたご飯、残り物、簡単なつまみ”といった表情に乏しい字面(じづら)が蛇のようにとぐろを巻くばかりで、そこには共振を誘うものはありません。


 “それに味噌汁があれば十分”という言い回しはそれにしても強烈です。願いや祈り、気づかいは微塵もこめられていないし、健康にも寄与しない、具のほとんど入っていない生しょっぱい液体が目に浮かんできます。肘鉄を喰らったような気分です。


 “味噌汁”はさらに続いて次のような、どんよりと曇った風情で再度振る舞われています。


 朝、夫と子どもたちの食事はトーストにヨーグルトと簡単に済む

のですが、義母だけはそうはいかないのです。彼女にはきちんとした

和食を出さなければなりません。味噌汁に魚沼産の炊きたてのごはん、

旬の魚、お新香と梅干。それらをきちんと用意させる上に、毎朝違った

食事でないと許してはくれません。私にとって義母の要求は、大きな

負担です。

 それでも毎朝きちんと準備をし、今日もお盆にお絞りと箸をのせ、

味噌汁にごはん、お新香と梅干、のりが入った箱をきれいにセット

しました。お皿にほんの少し醤油をかけた大根おろしを置いて、焼き

たての鮭をつけて、お膳は整います。

 小さなお盆にティーポットと茶碗、茶筒を揃え、台所に誰も入って

こないことを確認してから、私はエプロンのポケットからスポイトを

出しました。(*3)


 年老いていよいよ介護の手を要するようになった姑なのですが、プライドが高く、意地だけは堅牢を保ち、他者への高圧的な態度を崩そうとしません。世話するおんなの内面では堆積するものがいっぱい一杯になっていく。極限に至った憤懣は“スポイト”から零れる水滴という形でついに顕現し、ちょろちょろと洩れ始めてしまいます。


 ここで食事はまさに“義務”となり“習慣化”しています。弱い立場のおんなにとって、それがどれ程ひどく内面を荒廃させるかを、写実的に、けれど、やや誇張して作者は書いていく。漬け物と共に味噌汁が執拗に、印象深く顔を覗かせていますね。


 コラスさんは前作で外から見た日本を描き、“非凡なもの、例外的なもの、普通でないもの”の一翼に和食を置きました。味噌汁も驚きと憧憬の視線をまとって陸続と登場し、読み手の僕を大いに悦ばせたのでしたが、今作では一転して暗い様相を呈して並んでいる。コントラストが鮮烈です。


 絆によって結ばれていく人生という名の永久螺旋──。その両側面、日なたと日かげのいずれにも“味噌汁”があって僕たちをそっと見守っている。“習慣”の中で埋没してウヤムヤに見えるけれど、思えばなかなかの存在感ある脇役だったりする。境界線にたたずむ仏蘭西生まれのひとりの男が注ぐまなざしの、堅さ、純度を感じます。


(*1):「紗綾 SAYA」 リシャール・コラス 2011 ポプラ社 引用は14頁
(*2):EMMANUELLE,New Version エマニエル・アルサン 安倍達文訳 1988 二見書房 「もしそれが習慣的なよろこびであるとすれば、そのよろこびは、芸術的な性質を持つことをやめてしまう。非凡なもの、例外的なもの、普通でないものだけが価値を持つのです。つまり『決して二度と見ることができないもの』にこそ、価値があるのです。」(237頁)
(*3):引用は16-17頁
(*4):「遥かなる航跡 La Trance」 リシャール・コラス 堀内ゆかり訳 集英社インターナショナル 2006  
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/11/la-trance2006.html
(*5): http://www.sankeibiz.jp/econome/news/110917/ecf1109170501000-n2.htm

2011年9月30日金曜日

魚喃キリコ「こんなふうな夜の中で」(1999)~かしてくんないー?~



  ピンポーン、とチャイムの音がして、のぞみが顔を上げる

りょう「(声)のぞみさーん オレーー しょう油かしてくんないー?」

  のぞみ、手に持った本を閉じ、しょう油差しを持ってドアに向かう

りょう「あ ごめん 今 野菜炒め作ってるとちゅうなんだけどさー

    しょう油きらしちゃってて これないとさー」

  笑顔で応えるのぞみ。りょう、しょう油差しを受け取る

りょう「のぞみさん 夕ごはん食べた?」

のぞみ「食べたよ」

りょう「なに食った?」

のぞみ「コンビニのおべんと」

りょう「ん じゃ あとでお礼する」

  りょう、廊下を進み“となりのとなりの”自室へと向かう

のぞみ「ミナちゃん 元気-?」

りょう「おう 元気だよー」

のぞみ「ミナちゃんによろしくねー」

りょう「うーーッス」(*1) 
 

 隣家を訪問したところ、帰り際に桜蓼(さくらたで)をまとまっていただきました。

 指し示された庭の片隅には、すらりと腰の高さほどにも伸びた草が群生しており、その先っちょに目を凝らせば白く小さい花が数珠繋ぎとなって並んでいる。ひとつひとつが清楚な、けれど、きっちりした逞しさをそなえた顔付きです。

 今がちょうど見頃だから良かったら持っていって。雑草の一種には違いないけど、ちょっとおもしろいでしょ──。庭木を愛する婦人にとって、雑草だろうと何だろうと花に順列はないのです。有り難く頂戴しました。眺めていると元気をもらえる感じです。


 同じタデ科で花弁が桃色に染まっているのも一緒にもらい、それが染料の素になる藍(あい)だと教わりました。藍色といえばずいぶん豪胆で頑丈そうな色です。その源となっているのが、かくも痩せて華奢(きゃしゃ)な面影の草なのかとびっくりした次第です。こんな歳になっても僕は世界をよくよく知らない。未開拓の地平ばかりが周りに広がっている。

 考えてみれば人の一生というものは身近な地勢や町並みの把握、それに家庭なり職場でのなにがしかの環境改善の繰り返しであって、ひとりひとりが捜索者や開拓民で終わってしまうのでしょうね。見切った、見取ったとはなかなかならない。独り暮らしを始めたときの鼓動の高鳴りが程度の差はあれ、ずっと続いていくのかもしれない。


 さて、上に引いたのは魚喃キリコ(なななんきりこ)さんの「こんなふうな夜の中で」という作品の冒頭箇所です。おんなはひとり住まいです。自室で本など開いて和(なご)んでいると、廊下に面したドアが不意に叩かれる。若い男の声がします。“しょう油”が切れてしまったので貸してくれないかと言うのです。男は同じアパートの住人で、同世代の娘と同棲しているのでした。旧知の仲であるらしいおんなは挨拶を交わし、気安く“しょう油”を貸すのでした。若い時分の仮住まいには、確かにこんな軟らかな空気が漂っていますね。


 後日、こんどは連れの娘と廊下で顔をあわせ、“しょう油”の礼を言われてこそばゆい思いをするのでしたが、その照れ笑いするおんなの内実には少しばかり輻輳(ふくそう)する思いが宿っていたのです。時には声掛け合って外食するほど、均衡(バランス)のうまく育った三人だったのだけど、いつしかおんなの胸には人を恋うることへの勃(つよ)い撞着が芽吹いてしまい、脇の甘い男に対して大胆な物言いを始めてしまう。

 あたかも映画のフィルムが唐突にちぎれてしまうようにして物語は断絶し、僕たちの眼前で幕は降りていく。不安定なおんなの心情と、これに共振して境界膜をあやふやにしていく隣人の生理をさらりと提示するに止め、事の顛末をそれ以上寄り添って見届けはしない。見切った、見取ったとはならない。わずか12頁ながら、無常観を烈しく滴(したた)らせる作品になっています。


 読んだ瞬間、上村一夫(かみむらかずお)さんの「同棲時代」の挿話(*2)を思い出しました。主人公の今日子と次郎の部屋の並びに別のカップルが越してくる。扉がトントンと叩かれ、“醤油”を貸して欲しいと頼む声が聞こえてくる、そんな出だしでしたね。


 ふたつの漫画の間には25年以上の歳月が横たわっていますが、若者たちの面立ちと纏(まと)う空気はすっかり重なって見えます。類型的(ステレオタイプ)と決めつければそれまでだけど、何故そんな作劇上の決め事が時代を跨いで生き続けるのだろう。無理を感じる読み手がいないのはどうしてなのか。醤油がその役割を担うのはナゼなのか。


 赤の他人同士が隣り合って住まう場合、そこに結界が生れるのは当然のことです。警戒し、疎外し、ときには反目すらします。ほのかな関心を抱いたとしても距離を縮めるに至らず、乾いたすれ違いの日々を送ったりもします。

 そんな膠着した時間をひょいと覆(くつがえ)し、生々しい部分を発露させた人間対人間の交感が始まっていく。そのきっかけが“しょう油”の貸し借りというのは、実に不思議で興味深いことです。

 ずうずうしいと悪態をつかれることなく、他者の領域にするする侵入して境界をなし崩しにしていく。洗剤でなく、電池でなく、殺虫剤でもなく、お金じゃなく、“しょう油”が緊迫を解いて人間の内奥を外へとみちびいて行く。僕の目には“しょう油”の行き来を端緒にして、他者を縁者に次々と変えていく様子がなにか奇蹟か魔法みたいに映ってしまう。


 日に日に寒くなる秋の大気が桜蓼(さくらたで)や藍を咲かせるように、しょう油の成分に含まれる何かが僕たちの本能を揉みほぐし、開花を誘っているのかもしれません。緊張や不安を解き、リラックスさせる効果があるのかもしれない。

 
 春咲くばかりが花じゃない。秋にだって冬にだって、咲き誇っていい。

 しょう油を舐めて、もう一花、いえ、もう二花も咲かせてみましょうか。

 
(*1):「こんなふうな夜の中で」 魚喃キリコ 1999 「短編集」 飛鳥新社 2003 所収  初出はマガジンハウス「anan臨時増刊号 コミックanan」5月20号
(*2):「同棲時代」 上村一夫 1972-1973  VOL.57「夏のとなり」 
http://miso-mythology.blogspot.com/2010/05/197214.html

2011年9月26日月曜日

桐野夏生「玉蘭」(2001)~そこに何かを見出したのか~



「お食事持ってきましたよ」

 谷川が窓際にある小さなテーブルの上に盆を載せた。白飯に炒め

物のおかず、小皿に梅干しが添えてある。塗り椀があるのを見ると、

味噌汁が付いているのだろう。(中略)

 浪子(なみこ)は谷川が出て行った後、部屋にひとつしかない中国

風の椅子に腰掛けて、光代の手料理を食べた。すっかり冷めていたが、

小さな角切りの豆腐の入った味噌汁は懐かしく、旨かった。梅干しも

日本の白米も、物質のすっかりなくなった広東では手に入れることの

できないものばかりだ。

(中略)

「いいよ、それより飯食ったか」

 質(ただし)は浪子の方を見ずに尋ねた。浪子は谷川が運んで

くれた冷たい夕食のことを告げようかどうしようかと迷ったが、

結局黙っていた。(中略)

「食べてないの?ここの奥さんのご飯は日本食だからね。旨いよ」

空腹ではないかと気遣ってくれないのか、あなたの妻になったのに。

気の回らない質に苛立ち、とうとう浪子は言い放った。

「あなたが帰って来ないから、あなたの分食べちゃったわ。久しぶり

にお味噌汁飲んで感激したわよ。おいしゅうございました!」

 質はやっと返答を返した浪子の顔を見た。そこに何かを見出した

のか、急に痛ましそうな表情をした。自分の顔に何が現れているのだ。

旅の疲れか惨めさか、病の徴(しるし)か。鏡が見たい。浪子は不安

になり、思わず両手に顔を埋めた。(*1)


 “食べもの”を登場人物のこころと連結させて、物語の色彩と濃淡をコントロールしていく。ときには“色気”と“食い気”を強引にない交ぜにし、個としての人間の輪郭を多角的に照射して浮き上がらせる。それによって読者の感情をも変幻自在に操ってみせる。稀にではありますが、そんな舌を巻く描写にぶち当たるときがあります。凄腕の書き手が日本にはいて、桐野夏生(きりのなつお)さんはそのひとりだと僕は思っています。


 十年も前に書かれたものですが「玉蘭(ぎょくらん)」という作品があって、恥ずかしながら今ごろになって手にして読んだのだけど、実に濃厚な味わいで胸に応える読書、硬い芯のある週末となりました。

 冒頭から末尾まで貫いている清澄な趣き、真摯な世界観もさることながら、使えるものは何だろうと動員して舞台をくまなく飾ろうとする作者の貪欲なまなじり、狂気にも似た緻密さにすっかり惚れてしまいました。当然“食べもの”も豪奢に、けれど無駄なく配置されている。


 たとえば物語の前半、航海の間、極度の緊張を強いられて魂をすり減らした船乗りがようやく陸にあがり、次の出航までに揺らいでしまった自分をどうにかこうにか立て直すために酒に溺れ、破壊的な面持ちで猟色していく夜が描かれるのだけれど、その際に男が歩んでいく場処は“食品市場”なのでした。異国のマーケットですから、甕(かめ)や篭(かご)に入れられた蛇やら犬やら蛙やら、おどろおどろした“食べもの”が列をなして視覚と嗅覚をいたく刺激します。それらは男がこれから挑もうとする官能の闇を、黒々と補強して塗り固めている。(*2)


 また、回復不能な喪失感を抱えた初老の男が人生に疲れ、自死することをいよいよ望んで、季節外れの雪に染まる別荘地をひとり放浪する場面が後半に訪れるのですが、奇抜な風体の老女が唐突に現われて男に救いの手を差し伸べます。おごそかな幽棲へと男を導いていくこのおんなには、異国帰りの破天荒な性格が割り当てられており、食事の場面では白飯に臆することなく砂糖をまぶし、さらにミルクを注いで食べて見せるのでした。男は唖然として声を失うのですが、その“普通とは違う食べもの”とおんなの堂々たる食べっぷりを好ましく思い、いつしか死の誘惑を断ち切っていくのです。(*3)


 “食べもの”と情感が編みこまれていて、どちらも実にうつくしい。
 

 僕たちの日常を覆う“食べもの”とこれに寄り添い萌芽していく人情の機微を、桐野さんは透徹した目線ですくい上げていく。そうして、両者の関係を再構築して自らの劇世界に植え替えて行き、リアルな色調で虚構世界を彩って見せるのです。咀嚼と血肉化の連携が見事ですね。


 上に引いたのは物語の中段にあって、先の二例にあるような感情の湧昇、凝縮とは真逆の動きが見られる場面です。


 不幸な生い立ちのおんなと男が出会い、おんなは未来を託して身ひとつで男のもとに走ります。転がり込んだ住まいは賄いつきの下宿の三階であり、疲れて空腹のおんなに冷めた夕食がひと揃え届けられるのでした。これが“普通の食べもの”それも異国(上海)にあって場違いな感じの「日本食」であるのが興味惹かれるところです。


 帰宅した男はどこかで酒をあおってきた様子であり、おんなの同居にどう反応していいのか戸惑いを隠せないでいます。おんなはおんなで疑心暗鬼にとらわれ男に食ってかかるのでしたが、その台詞には“味噌汁”が取り込まれており、きわめて強いスポットライトが浴びせ掛けられている。


 虚ろな逡巡やどうしようもない感情の交錯が誘爆して次々と蒼黒く燃え立ち、気持ちをどんどん落ち込ませていく。情愛のあかあかとした焔が鎮火しかけて危機的な状況にあります。「日本食」と“味噌汁”があわせ選ばれ、そのかたわらを占めていく。それは作家の生理というのではなく、長い時間かけて僕たちに刷り込まれた“食べもの”と魂の相関について、桐野さんなりに手づかみし辿り着いた風景、逃れようのない、まさに目前で展開される“僕たちの場景”であるように感じます。


 冷めた味噌汁のすっと鼻孔を透きあがる、潮風のような尖った気体の奥で夢の残滓がどこか香るようであり、なんとも切ない微動を引き起こす。味噌汁とは哀しい“食べもの”なのかもしれませんね。


(*1):「玉蘭」 桐野夏生 2001 朝日新聞社 引用は186-192頁 初出「小説トリッパー」1999-2000
(*2):同136-137
(*3):同365頁