2009年5月30日土曜日

舛田利雄「赤いハンカチ」(1964)③~人身御供となって~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。
   私のおみおつけ、とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」




 なんとなく腹の収まりが悪い。

 二谷英明演ずる石塚という元同僚は悪い奴で、裕次郎を罠にかけた上に密かに恋焦がれているルリ子と結婚までしてしまいます。淡い夢を粉微塵にされた裕次郎が憤懣やるかたないのは当然と言えば当然なので、復讐の刃(やいば)を研ぐのは理に適っているけれど、どうしても気になるのは“4年後の現在”の二谷の職業が“スーパーマーケットの経営”と設定されていることです。これは一体全体どうしたことだろう。


 僕はスーパーマーケットに直接関わる人間じゃないけれど、身近にたずさわる人を数多く知っています。とても地味な職業で満足に休日も取れませんし、根気と体力が必要です。ですから、そこで働く人たちを悪く見ることが出来ない。懸命に小売業に邁進して見える二谷という男に不器用さ、実直さ、コンプレックスを読み取り、シンパシーを感じてしまう。ルリ子を愛し抜いている、彼女の為に王国を少しずつ築こうとしている、その熱い恋情が時折言動にあふれ輝いて何度かほろりとさせられもします。

 闇の世界に通じ、自分の暗い過去を探ろうとする人間を保身の為に殺していく罪は確かに重いのですが、それでも勧善懲悪的な結末には首をひねってしまいました。どうして二谷がヤクザの親分とか悪徳不動産王でなく、スーパーマーケットの社長であるのか。

 先日、とある会合で、関東で店舗展開する「サミット」の元社長さん、荒井信也氏の講演を拝聴することが出来ました。荒井さんは作家でもあり、伊丹十三監督が「スーパーの女」(1996)を製作するきっかけとなった本(*1)を執筆しておられます。1934年生まれですから石原裕次郎の三つ下で、完全に彼と同世代であったわけですね。お話は日本におけるスーパーマーケットの生い立ちと将来についてでしたが、「赤いハンカチ」の背景がよく分かり疑問がみるみる氷解していきました。



 ルリ子と裕次郎を奥に配して、二谷の亡き骸が眠る墓がラストシーンで映されます。そこに突き立った白く真新しい卒塔婆に書かれた墨文字からも判りますが、映画は昭和38年(1963)を舞台としています。裕次郎が事件の参考人(ルリ子の父親)を誤って射殺してしまった“4年前”の事件とは、だから1959年に起きた計算になりますね。荒井氏のお話によるとさらに遡って3年前の昭和31年(1956)に“百貨店規制法”、正確には“第二次百貨店法”が制定されたそうです。中小商業者の保護のために新規出店や増床を禁じたと捉えられがちですが、業界をよく知り、同時代に生きた荒井氏の見方はもっと多層を含みます。

 中学、高校の卒業式で先生に言われた言葉を、荒井氏は鮮明に思い出すそうです。資源のない日本は働いて働いて、どんどん輸出して外貨を稼がないと駄目になってしまう。だから君たちもしっかり働くひとになってください──。こればっかりだったんですよ。

 そんな空気の中でこの規制は施行された。一般庶民の“ぜいたくを抑止する”ための政策だったのです。消費に耽溺して労働を厭えば、たちまち製造効率は落ちて外貨獲得の勢いも衰えてしまう。まだまだ外貨を蓄積しなければならぬ。享楽に身をゆだねてはならない、もっともっと働きなさい、と、国は大衆を押さえ込もうとして百貨店を忌み嫌った、というのが荒井氏の分析です。

 そう言えば劇中、身も心もすべてを捧げようとベッドで横たわるルリ子に対し裕次郎は、「今はその時ではない」と怖い目をして呟きました。ふたりは遂に身体を重ねることなく、異様なストイックさを保持したままホテルの部屋を後にしますが、この辺りの頑固なまでの自律、自戒の面影は“百貨店規制法”が施行された時代背景と無関係ではないわけです。

 しかし、もはや戦後ではないと考える“労働者”は、“消費者”たることを到底我慢し得ない、もう限界だったのです。それに応えたのがスーパーマーケットだった。「売り場を各系列企業のテナントが運営する形で規制を逃れ、大規模な店舗面積で出店するケースが増えた。これもデパートと呼ばれる場合もあり(その場合、あまり百貨店とは呼ばれない)、デパートとスーパーという用語の境界が不明確となった」(*2)

 その代表が中内功氏を統帥とするダイエーであり、1961年に日本最大の売り場面積1000坪を擁する三宮店を作り上げました。(この2階建ての店舗が今日のGMSのルーツだったわけね。) 本来は日常品、主に食品ばかりを取り扱う“市場”であったはずなのに、百貨店法の裏を潜って大衆の希望に応えていった“スーパーマーケット”は“非日常”を演出する衣料品、化粧品もふんだんに陳列していく。

 1959年に北海道のダム建築現場や漁港へと自罰の行脚(あんぎゃ)に旅立って、1963年に横浜に浦島太郎となって裕次郎は戻って来た訳ですが、そこで1961年頃から続々と建設された(デパートの形をした)スーパーマーケットを知り、群がる“消費者”を目の当たりにする。なるほど、そう言われてみれば、映画の中で二谷の店が画面に映し出されたとき、そこは食品ではなく婦人服の売り場でした。コートを品定めする御婦人たちで混雑した風景は、当時は奇異に映ったのですね。あたかも蜜の滴る花弁に群れ狂える蝶々に見えた。

 「しっかり働くひとになってください」と教えられ、それを信じて来た裕次郎の目にはどうしても“堕落や油断”に見えたことでしょう。ミンクのコートを着て歩き、高級車で走り回るルミ子を「違う、違う」と複雑な想いで見つめ、「今はその時ではない」と自制を促がす。そうして、消費文化の源泉であるスーパーマーケットと、その総帥である二谷に憎悪の念をたぎらせていく。

 つまり「赤いハンカチ」とは、時代の変革が教育にどれだけ影響を及ぼすか、そして教育が教え子にどのような変質を与え、苦悩をもたらすかを透かし彫りした社会的な作品だったわけです。敗戦による国家的損失を挽回するべく我慢に我慢を重ねることを学校で教わり、オリンピックと万博を目前にすると“消費は美徳”とがらり変質していく日本に対しての“戸惑い”が、映画の暗いトーンを決定付けています。




 だからこそ、裕次郎は“早朝”ルリ子に鉢合わせしなければならなかったのです。“豆腐屋の自転車”は偶然ではなく、呼び止める「おトウフ屋さぁん!」という涼しげなルリ子の声も必要不可欠だった。対面商売、それも客の元に自転車を駆って巡回する「おトウフ屋さぁん!」がセルフサービスを原則とするスーパーマーケットと対置されている。

 時代の狭間に立って大いに動揺し、自問自答する日本人を代表して裕次郎が描かれている。極めて庶民的、かつ国家的な問題を「赤いハンカチ」は根幹に据えて物語を編んでいたのですね。


 問題は「おトウフ屋さぁん!」に続いての“私のおみおつけ”です。おトウフだろうとお味噌だろうと、当初からスーパーマーケットでも陳列されています。にもかかわらず、「赤いハンカチ」では裕次郎が憎悪するスーパーマーケットに組みしない側、つまり、「今はその時ではない」と“労働にいそしむ側”に取り込まれてしまったように見えます。“労働、生産、倹約”といったものの象徴にされてしまっている。

 さらに言えば、裕次郎は再会したルリ子に対し、そのコートを脱げとか、その化粧を落せといった野暮なことは強いませんでした。今の美しく化身したルリ子を内心好ましく思っているからです。混乱を抱えたまま魂の決着が付かず、逃げるようにして彼女に背を向け“労働と生産、倹約”の大地に戻っていく裕次郎によって、今や“ぜいたく”を享受し得る体質となったルリ子がぽつねんと取り残されてしまう。この終幕の意味することは、作り手も飲み手もいなくなり、この「赤いハンカチ」(=日本人の思い描くドラマ)の世界から忽然と“おみおつけ”が失われたことを指し示しています。

 情念、恋慕の世界から味噌汁が遠く離れていったのは、日本人の多くが上記のような中途半端な空隙に“おみおつけ”を追い落としたせいでしょう。消費文化への転換に当たり、もしかしたら人身御供(ひとみごくう)が必要だったのかもしれませんね。


 以来今日まで映画、小説、漫画に“おみおつけ”の影はことさら薄く、時折現われても安定を欠いているように僕は感じています。

 とんでもない選択を日本人はしたのではなかったかと驚き、嘆息するばかりです。


(*1): 安土敏著『小説スーパーマーケット』(講談社 1984)
(*2): ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%99%BE%E8%B2%A8%E5%BA%97#.E5.87.BA.E5.BA.97.E8.A6.8F.E5.88.B6

2009年5月25日月曜日

石原裕次郎「赤いハンカチ」(1964)②~漂泊のはじまり~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。
    私のおみおつけ、とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」

 昭和39年1月に公開されたこの映画を、僕はリアルタイムで観ていない。だから、ここで年長の識者ふたりの意見を仰ぎたいと思う。テキストにするのは関川夏央(せきかわなつお)著「昭和が明るかった頃」(文藝春秋 2002)と、少し年数が経っているけれど矢作俊彦(やはぎとしひこ)の「複雑な彼女と単純な場所」(新潮文庫 1990)の二冊。筆者らの生年月日から足し引きすれば公開当時は十四、五の多感な時期であるから、さぞ思い入れも深かろう。
 
 関川は「赤いハンカチ」に「戦後社会と観客の変質」を読み取っている。昭和39年の公開当時、労働格差、生活環境の段差が加速度を付けて拡がっていた。物狂おしい渇望とその裏返しの憎悪が火勢を強めた野火のように表層化していく。そんな経済背景があっての怨嗟に満ち溢れた「赤いハンカチ」なのだから、当然ながら“私のおみおつけ”はヒロインの純真を描くという単純なものではなく、段差を浮き彫りにするために登用された象徴のひとつだったと位置付けている。
『赤いハンカチ』の前半で特徴的なのは、労働という観念、あるいは
労働者そのものへの強い憧れである。裕次郎が北海道を放浪する
肉体労働者となったのは、たしかに自罰行為ではあるにしろ、工場
で体を動かしているのが好きだといったルリ子と、遠く離れながらも
おなじ地平で立っていたいという願望の表現だった。


それは一方で「ブルジョワ的市民生活」への強い反感としてあらわれる。
その象徴がルリ子の(中略)毛皮のコートである。また彼女と二谷が
住む家のたたずまいである。


 “大衆”という一枚板に亀裂が走り、粉塵をばらばらとまき散らすような、べたべたと口中が苦いような、言い知れぬ不快感を混ぜ込んだ無数の視線がスクリーンを射抜いていたように読める。そういう生臭い解析は、同時代を生きた者にしか出来ないなぁ。


 一方の矢作は浅丘ルリ子演じる玲子という娘が内包する分裂や多層に着目し、「赤いハンカチ」とは社会変遷によって女性の意識、物腰が大きく羽化したことのひとつの顕現であったと断じている。


 「それまでの日本映画のヒロイン像から、あまりにもかけ離れている」玲子というおんなは時代のシンボルとして機能しているから、不自然でおかしな言動が目についたのだと書き留めていて、なるほどと感心する。手のひらでまさぐって得た触感の記憶を、そっと追想するようなやるせない分析であって、やはり同時代人のみが持ち得る意見だと思う。


自分のつくった食べ物を、それも味噌汁なんかを「とっても美味し
いんですよ」と言って、初対面の客に勧める日本人などいるだろうか。
男は、すぐさまそれを「いただきます」と受け取り、一口飲み、
「うまい!ヘソまであったまる」と笑い返す。すくなくとも昭和三十
年代、このやりとりはあまりに絵空、あまりに無国籍だった。
しぐさひとつにしても、この二人のそれは日本人から遠く離れていた。
彼と彼女の肉体がなければ失笑しか買えなかったろう。しかし、
事実、そこにあったのは、十三歳のガキにもぞくっとくるような
幸福感だったのだ。


 ここで彼らふたりの「赤いハンカチ」への(愛すればこその冷徹な)憧憬を“おみおつけ”という視座から見つめ直してみると、実は相当に哀しい気分に引きずり込まれてしまう。オリンピックと万国博覧会を目前とした“現在”ではなく、そこからさかのぼること四年という“過去”に“おみおつけ”は組み込まれている。

 その過去とは観客の目には「あまりに絵空」であった。郷愁に駆られて振り返りはしても、もはや生活の主軸ではない。理想と掲げたり、人生を賭して殉ずるには到底値しない。あたかも夢のようなふわふわと浮ついた「幸福感」でしかなくって、内心密かに渇望する「ブルジョワ的市民生活」とは相容れない。脇に追いやっていくべきものなのだ。フィクションに近しい存在だという「色分け」が、“おみおつけ”にしっかり為されてしまっている。


 裕次郎は自分を虜にした「おトウフ屋さぁん!」「私のおみおつけ」を、もはやルリ子に再現させようとしない。なぜ、あの時、彼女を固く抱きしめ、もう二度と離れるものか、おれのために“トウフのみそ汁”を毎朝作ってくれ、と言えなかったのか。「それまでの日本映画のヒロイン像から、あまりにもかけ離れている」浅丘ルリ子の成熟をよく認め、みそ汁を作らせる行為がもはや甘いフィクション、捨て去るべきフィクションだと気付いているからだ。


 けれども、だからと言って横浜に残って、彼女と共に豪奢な「ブルジョワ的市民生活」を目指すでもない。裕次郎はひたすら絵空の記憶に埋没するようにして、背中を私たちに見せて漂泊を開始してしまった。

 この時点をもって、日本人のこころから“おみおつけ”は乖離してしまった。彼と一緒に当て所ない漂泊を開始したのじゃないか、その漂うままに2009年の今もどこか彷徨って落ち着いていない、と僕は考えている。捨て去れないまま、胸の内に抱えながら歩いているように思う。



 そうそう、そういえば、三月末に頼んでおいたETC端末がようやく来ました。漂泊者の一員になって、北の大地を目的も半端に走ってみようか、と“絵空”に遊んでいるところです。





2009年5月24日日曜日

浅丘ルリ子「赤いハンカチ」(1964)①~わたしの“おみおつけ”~


玲子「そうだ、寒いから一杯召し上がりません。私のおみおつけ(*1)、
    とってもおいしいんですよ」
三上「いただきます」
玲子「あーよかった」
三上「うまい」
玲子「ほんと!」
三上「へそまであったまる」

 昭和39年1月に公開されたこの映画を、僕はリアルタイムで観ていない。“お味噌をめぐる対話”が綴じ込まれていると知ったのは二十年程前だったけれど、正直言えばそれまでは軽んじて、無視すらもしていた。拳銃だとか、麻薬だとか、美男美女の出逢いと別れなんて“絵空事”の極みであり、軽薄過ぎて観るに価しないと勝手に思っていた。

 
 今日久しぶりに観直してみたら、まるっきり印象が違った。年齢相応の修練をささやかなりとも積んだためだろう、一言一句が耳朶を打って痛い。ふらふらになった。





「遊侠無頼」の小川英、山崎巌と「狼の王子」を監督した舛田利雄が

共同でオリジナル・シナリオを執筆、舛田利雄が監督した歌謡ドラマ。

撮影もコンビの間宮義雄。



三上(石原裕次郎)、石塚(二谷英明)の両刑事は、兇悪な麻薬ルートを

追っていた。容疑者一味の内、唯一人の生存者である屋台の親爺、

平岡が現場で犯人に接したことから、平岡は警察にひかれた。

が三上らの峻烈な調べに対しても口を開こうとしなかった。護送中に

にげようとした平岡と激突した三上らは、誤って拳銃を平岡の胸に

発射した。過失とはいえ世論は三上らにきびしかった。

それから三年、三上は北海道のダム工場で働いていた。

一方神奈川県警の土屋警部補の訪問を受けた三上は、石塚が

平岡の遺児玲子(浅丘ルリ子)と結婚し、今は大実業家になっている

と知らされた。そしてその裏には三年前のあの事件がからまっている

というのだ。決心した三上はその謎を解くため、再び横浜に帰って来た。

(キネマ旬報データベースより)(*2)


 上記にある“三年”は“四年”の誤りだ。こう着状態で進展しない取調べの打開に向けて、早朝、平岡の住まう長屋を目指した裕次郎はそこで娘の玲子(浅丘ルリ子)と鉢合わせする。豆腐屋の自転車を呼び止める「おトウフ屋さぁん!」という涼しげな声と、これに続いての「私のおみおつけ」、不意に目に飛び込んだゴミか羽虫をハンカチで取ってくれた気遣いにすっかり魅せられ、強く惹かれる。その時の会話が最初に紹介したものだ。


 四年の歳月を経て再会したとき、裕次郎は自分を虜にした「おトウフ屋さぁん!」「私のおみおつけ」といった素朴な面影を見い出すことができずにショックを受けてしまい、悪戯に街の与太者たちと喧嘩を起こす。四年前の彼女との出逢いの場所を訪ね歩いては、独り懐旧に耽り続ける。




 おんなは成長していく、ということか。 「ティファニーで朝食を」(*3) 、「シャレード」(*4)なんかでオードリー・ヘップバーンが艶やかに装ったファッションを踏襲し、負けず見事に着こなしている浅丘ルリ子はほんとうに美しく成長してみせた。


 「赤いハンカチ」の二年前に公開されている「憎いあンちくしょう」(*5)が、“装わない”時期のいちばんハツラツとした浅丘が定着なったフィルムだと僕は思い、そんな彼女にも秘かにぞっこんなのだけれど、ここでの“装い”、陰影を深めた彼女の成熟はやはり素晴らしい。

 なのに裕次郎は自分勝手な妄念に固着し続けて「違う、違う」とかぶりを振って、記憶とのずれに悶えていく。振り返らないおんなと振り返り続けてしまう男……。男は救われない馬鹿な生きものだ、と思い知らされる。


 さて、ここで男の愚かさを象徴するかのごとき「私のおみおつけ」のイメージなのだけれど、単なる懐旧や純朴さの現われと割り切っていいものだろうか。


(*1) :おみ‐おつけ【御味御汁】「おみ」は味噌の意の、「おつけ」は

吸い物の汁の意の女性語。味噌汁をいう丁寧語。(Yahoo!辞書より)

(*2):「赤いハンカチ」キネマ旬報DBhttp://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=21282

(*3): Breakfast at Tiffany's 1961 監督ブレイク・エドワーズ

(*4): Charade 1963 監督スタンリー・ドーネン

(*5):憎いあンちくしょう1962 監督蔵原惟繕

憎いあンちくしょう キネマ旬報DBhttp://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=20787 

youtubeで観ることが出来る「憎いあンちくしょう」の浅丘ルリ子http://www.youtube.com/watch?v=iwyuhZhLG3U



2009年5月23日土曜日

谷崎潤一郎「少年」(1911)~醤油樽(しょうゆだる)のある場処~


二人はひそひそと示し合わせて、息を殺し、跫音(あいおと)を忍ばせ、

そうっと小屋の中へ這入った。併し仙吉は何処に隠れたものか姿が見えない。

そうして糠味噌だの醤油樽だのゝ咽せ返るような古臭い匂いが、薄暗い小屋の

中にこもって、わらじ虫がぞろぞろと蜘蛛の巣だらけの屋根裏や樽の周囲に

這って居る有様が、何か不思議な面白い徒らを幼い者にそゝのかすようであった。



 髪を切ってきたところです。襟足がすっきりして気持ちが軽く、爽やかになりました。いまはネットラジオで「ラ・ボエーム」を聞きながらこれを書いています。 ささやかな整理整頓の時間、といったところです。

 さて、このところ集中して(といっても寝る前のちょっとした時間ですけど)谷崎潤一郎を読んでいます。僕のこころの師匠である舞台演出家さんが谷崎作品を台本にすべく格闘していると聞いたからで、矢も盾もたまらずに小説や評論を探しては、ちょこちょこ読み進めています。

 明治44年(*1)に書かれた「少年」のなかに“醤油”の二文字が見つかります。正式には“醤油樽”なんですけどね。

 尋常四年生の主人公の“私”は素封家に住む姉弟と友だちになります。彼らの家に招かれて遊んでいるうちに、戯れは徐々にエスカレートしていきます。子どもであるがゆえの歯止めが利かぬ、直線的で残酷な要求が次々押し出されます。縛られたり踏まれたり、どうしようもなく翻弄されているうちに、“私”は深い恍惚を感じていく。そんなお話です。


 獣性の剥き出しになった要求は人目につかない納屋や、洋館の奥の密室で発生しています。人間のこころの奥に潜むものが、そんな暗い闇のなかで開花することが示されているのですが、これって何もマイナスのことばかりではないでしょう。プラスであれ、マイナスであれ、人間のこころの仕組みとはそんなものでしょう。真に燃え上がるものは、存外インドアなものです。

 こんなことを聞いたことがあります。夜にはお酒もふるまう飲食店で、酒屋と醤油屋に注文の電話を入れます。 悪いけれど今日中に持ってきてくれる。ちなみにここは地方都市で、おしょう油の蔵元が自分たちでお客さんまでお届けする仕組みね。

 しょう油屋の店員は新米で、このお店への納品は始めてです。まだ開店前で店内は照明を落として薄暗く、カウンター辺りで店主がのんびり仕込みをしているのが見て取れます。入口から挨拶をして入ろうとしたら、あ、悪いけど裏から回ってくれる、と店主からの一言。重たい思いをしながらも“そりゃ当然だ、失礼しました”と謙虚な気持ちでやり直します。

 狭苦しい裏口からごとごと入ってカウンター奥の収納庫に納品をしていると、そこに酒屋が到着したのが流し場越しに見えるじゃないですか。すんなり正面から荷物を抱えて入ってきて、カウンターで店主と談笑を始めています。“酒は正面から、おしょう油は裏口から”同じ醸造元でも明暗が大きく分かたれます。しょう油は裏舞台を支える、そんな地味な存在だと印象づけられる話です。


 しかし、谷崎の「少年」の世界に香ったものは“裏口”の匂いでありました。裏口に置かれていればこそ、見える世界が確かにあります。情念の世界、真心の世界、解放された世界には裏口から入っていかなければなりません。
 
 マルキ・ド・サドを三島由紀夫は「天国への裏階段をつけた」(戯曲「サド侯爵夫人」 第三幕)と捉えましたが、そういった言い方をなぞるならば、おしょう油は「こころの扉に最も近い場処にある」ということでしょうか。 (え~~、いくらなんでも、ちょっと、そりゃ無理じゃないかぁ)


(*1):谷崎潤一郎ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E



2009年5月22日金曜日

吉田秋生「海街diary」(2006-連載中)~千佳のしょうゆ差し~


さち「チカあんたね なんにでも しょうゆ かけんのやめなさいよ
   
   高血圧になるわよ! おばあちゃんみたいに!」

チカ「だってー さち姉のつけもの 浅すぎるよ── 味しないじゃん」

さち「浅づけなんだから いーの!」
 


 僕ぐらいの年齢で“吉田秋生(よしだあきみ)”の名を聞けば、たぶん似たような感慨を誰もが抱くんじゃないかな。最近の「YASHA 夜叉」(1996‐2002)はゴメンナサイ、見てないからノーコメントという感じではありますが、青春の甘い記憶と共に幾つかの作品がまざまざと蘇えります。
 「河よりも長くゆるやかに」(1983-85)や「吉祥天女」(1983-84)であったり、「桜の園」(1985-86)での抑制の効いた構図が鮮明に浮かびます。 「BANANA FISH」(1985-94)は途中から退場、プツンと暗転しちゃった。就職と同時にアッシュや英二とさよならをしたのだったなあ。だから、ちょっと後ろめたい感じが今もしているわけね。
 中篇や短篇の得難い名手なのは間違いない。そうそう、そうだった。「河よりも─」や「桜の園」の、さわさわした静電気で背中をすっと引きずられるような、静かな余韻を湛えた幕引きにはいつも感嘆して見惚れたものです。
 書店で目に留まりパラパラめくったこの「海街diary」には、そんな初期の短篇の息吹がありました。海風のように吹き寄せてふんわり香りました。その澄んだ世界を思い切り胸の奥に吸ってみたくなり、年甲斐もなく買っちゃいましたよ、ハハハ。

しっかり者の長女・幸(さち)と酒好きで年下の男に弱い
次女・佳乃(よしの)、いつもマイペースな三女・千佳(ちか)。
鎌倉の祖母の残した家で暮らしていた3人のもとに、
幼いころに別れたきりだった父が残した“異母姉妹”を迎えることになり…。
海の見える町に暮らす姉妹たちの織り成す清新でリアルな家族の絆の物語。
第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。
(小学館『月刊flowers』ホームページより抜粋)(*1)


 父親が妻と幼い三姉妹を置いて浮気相手と行方をくらまし、数年後には母親すらも男を作って背中を向けます。残された香田姉妹は鎌倉の祖母の家で育ち、各々年頃になり恋愛などもちらほら始めて、実人生との直面と選択を余儀なくされていく。人間としてもおんなとしても“開花の時期”に差し掛かっていく。

 そんな折に父親の病死を告げる連絡が、遠く山形の湯治場から伝えられます。出向いた姉妹はそこで異母妹にあたる“すず”という娘に対面し、彼女を鎌倉に引き取っての共棲が幕を開けます。

 吉田秋生版「細雪」「阿修羅のごとく」なのですが、姉妹の心理描写や展開に気負いやムリがいよいよ無くって、「河よりも─」のリズムをホウフツさせる自然体があります。肩ひじ張らずに、豊かで柔らかい触り心地です。 とっても好感が持てました。
 現時点では二巻までしか出ていませんが、これまで脇役であった次女のチカちゃんがどんな活躍や成長を遂げるのか、登山家の恋人とは上手くいくのか、よくドラマにありがちな常套手段の怖いこと、哀しいことは待っていないだろうか、と、ハラハラしながら追いかけたいと思っています。

 このチカちゃんが“お醤油っ子”なんですね。お料理に滅多やたらにお醤油をかけまくります!そのたびに食卓ではひと騒動起こるんです。

 お姉さん!
 最近の研究結果では塩分の摂取と高血圧には単純な相関はないらしいっすよ。今度“しょうゆ情報センター”発行の「しょうゆを科学する」(*2)をコピーして送ってあげましょう。わざわざ購入した貴重な僕の虎の巻です。あ、あ~~、そうか、お姉さんは看護師でしたね、失礼しました!余計な口出しはやめますね。


 考えてみれば食卓の上に置かれて出番を待つ“おしょう油差し”というのは、不思議な役割を担っています。調理した側からすれば、味見もしないでちゃぷちゃぷと醤油を垂らされるのは口惜しい話です。失礼しちゃう、わたしの苦労を台無しにして! けれど、結局のところはそれを黙認し、緩やかに受容するわけですね。

 ソースは通常“仕上げ”じゃないですか。とんかつにしてもキャベツの千切りにしても、かけることで完成です。ケチャップなんかもそうかな。おひたしや湯豆腐にかける場合には同じかもしれないけれど、醤油の場合は案外チカちゃんみたいな“オレ様の味にしてやる”式の使われ方が多いよね。

 家族ひとりひとりに味覚と嗅覚の段差があり、「ひとつのもの」では到底埋められない。しょう油の後差しによる変幻自在を通じて“自分とは違う個性”を容認していく無言劇が、緊張と弛緩をサンドイッチしながら繰り返されていきます。家族各々がいずれはバラバラになる前兆をはらんだシンボリックなもの、精神的なものを懐胎しているように感じます。(え~~、そうかあ~?)


 庭には植樹してから半世紀を経た梅の古木が一本あって、姉妹はたわわに生る実を毎年漬け込み、梅酒作りに精を出すのを恒例行事にしているのですが、それにも次女佳乃スペシャルがあったりします。似ていないこと、はみ出る姿勢がすんなりと受け止められています。
巣立ちが迫っていることがアリアリと受け取れますね。バラける覚悟が当初から育っている、ある意味徹底した“家族崩壊劇”であり“自立(自律)の物語”なんだよね。


 家屋に縛られたり、まして寺やお墓に縛られて歩みを自ら放棄し、一生の指針を大きく狂わせることは取り返しのつかないこと、間違っていることだと僕は思います。香田家のみなさんの晴れやかな出発の日が、無事に訪れることを祈ります。ガンバってくださいね、応援しています!


 さて、現実世界に戻って──。マスクの品切れは深刻ですね。工場や大規模オフィス向けの大量パッケージも品切れで、納品は六月の下旬との話を耳にしました。市販品もそのぐらい迄には店頭に戻ってくるのでしょう。それまでの我慢です。 必要枚数を数えて、それ以外は勇気をもって困っている知り合い、同僚にすすんで分けるべきだと思いますね。

 ひとの不幸の上に自分の幸せを築くのは、ちょっとサビシイ。寒々しいミーイズムの世界でなく温かく、笑顔に満ちた社会を作りたいよね。


(*1): 小学館『月刊flowers』ホームページ
http://flowers.shogakukan.co.jp/artists/art_c.html
(*2):「しょうゆを科学する」紹介ページ(PDF)
http://www.soysauce.or.jp/news/files/20041029-22.pdf








2009年5月20日水曜日

はじめまして~「ラ・ボエーム」(2008)~


はじめまして

なんて大それたタイトル!“みそ神話としょうゆ学会”!
馬鹿じゃないかしらん、新手のカルトかよ、それとも変質者かしら、
余程アブナイ人なんじゃないかしらん──


中味はありふれた個人的な日記です。
それにしても何故“お味噌、お醤油”というキーワードにこだわるか、と言えば、
ずうっとこういう場所が欲しかったとしか答えようがありません。





少し前に“お風呂”について書かれた本を読みました。
人間がどのようにして入浴という習慣を作り上げていったか、
微に入り細に入りして掘り下げた労作です。
(この手の尾籠(びろう)な内容の本は大好きです!)
その中に“匂い”について触れているところがあります。


ちょうど今、新型インフルエンザが日本にも上陸し暴れ出していますね。
(近くにお住まいの方はさぞ心配かと思います。がんばってくださいね。)


ニュースの話題はそればかりですが、この下品な本の主な舞台となっている
昔々のヨーロッパには情報もまるでなく、医療機関も満足にありませんでした。
マスクもなければ、タミフルもありませんから、人から人への感染は
魂をさらいに来る悪魔か死神のように恐れられていました。


感染経路は“皮膚の毛穴”だという医学者(!)の見解が広く伝わったこともあって、
病人と同じ水で身体を洗ったりするのは自暴自棄の愚かしい行ないだと
思われていました!
お風呂に入ると死んでしまう!
フランス革命前後の頃は、誰も彼もが身体を十分に清めず過ごし、
国王ですら生涯で三度しか入浴しなかったらしいです。月に三度じゃないですよ!
生まれてから死ぬまで三回だけ!王様がですよ!
そんな訳であらゆる人が相当強烈な体臭をぷんぷんと漂わせていたらしいのです。


常識って何だろう、清潔って何だろう──頭の中にあった既成概念が
ひっくり返る爽快感があって楽しかったですよ。


さて、匂いについてです。
彼らは立派に生活し!恋だってするし!子どもをちゃんと作り育てていく!
あなたの臭いは素敵だ、なんて恐ろしいラヴレターを送ったりもします!
“匂い”というのはまさに“空気みたいなもの”となって、
誰も強く意識することはなくなってしまうのですね。


“食べもの”だって同じです。
あまりに日常にありふれてしまうと意識して見れなくなる。
その筆頭が日本では“味噌(みそ)”や“醤油(しょうゆ)”でしょう! 
ほとんどの人が振り向かない存在です。


でも、本当に味噌や醤油は取り上げるに価しないものかしら。
恋愛ドラマを支えたり、シリアスな群像劇を
盛り上げたりしたことはないのでしょうか。




みなさんは「ラ・ボエームLa Bohème」というプッチーニのオペラを映画化した
最近の作品をご覧になったでしょうか。
昨夜仕事を終えてから観てきました。
平日の七時前の回でしたが、お客さんは年輩のひとを中心に
二十名ぐらいいたでしょうか。まあまあの入りです。
パリの街で成功を夢見て過ごす絵描き、詩人、音楽家たちの物語です。


刺繍を生業とする純情な娘ミミと詩人が烈しい恋に落ちていきます。
その顛末をとても丁寧にカメラは追っています。
貧困に抗い切れずに波のように押し寄せる不幸。
哀しい結末にはあれこれと深く考えさせるものがあり、
年甲斐もなく涙など落としてしまいました。



開幕はクリスマスの夜。街は喧騒に満ちています。
貧しき芸術家グループとミミが訪れる居酒屋では
見事に盛り付けられた料理が次々と運ばれ、
ワインの杯が高々とかかげられ飲み干されます。
花の都に生きることの嬉しさと充実感が溢れんばかりです。


一方、日頃の彼らの切迫した家計事情も描かれています。
ほんの数切れの丸干しのイワシか何かに四人の男が群がり、
素手で肉を引き千切ってはむさぼって、
生命をかろうじて明日へ橋渡ししていきます。


この丸干しの魚こそ、お味噌やお醤油と同じ役回りだと思いました。
ワインや歓声に覆われた華々しい表舞台ではなく、
薄暗い自宅の裏側に居ればこそ、
本当の人生があぶり出されていく貴重な瞬間に立ち会うことが出来る。
「生きるということ」を露わにする大事な“鍵”だと思うのです。


「ラ・ボエームLa Bohème」の干し魚は
ボヘミアンたちの愛と別れを凝視していました。
ならば、お醤油とお味噌は私たち日本人の何を見つめてきたのでしょう。
そこにいかなるドラマが有ったものでしょう。

少しずつ少しずつ探しては書き止めてみたいと思っています。
出来るだけ楽しみながら、笑いながら続けていくつもりですから、
もしもお時間が許せば読んでいただきたいです。

そして、あなたがどこかで目にされて、世に知られていない
味噌と醤油の活躍があれば、そっと耳打ちしていただきたいです。
ここ“ミソ・ミソ、ソソソ”で、色んな方に出逢え、
情報交換がたくさん出来たら嬉しいな、と思っています。