2009年12月26日土曜日

上村一夫「一葉裏日記 たけくらべの頃」(1984)~味噌汁が残っている~



正太「ただいま──! あ~~~腹へった。」

留吉「鍋に味噌汁が残っている。」

  (戻ってきた正太に対し、左官で父親の留吉は背を向けたままで

   茶碗酒をあおっている。正太、ひとりで黙々と食事をはじめる。)

留吉「また、一葉(いっぱ)とかいう女のところで字書きして

   きたのかい。」

正太「一葉(いっぱ)じゃなくて一葉(いちよう)だよ

   ……樋口一葉。」

留吉「どっちでもいいけど 字じゃ飯は食えないぞ。」

正太「おいら字が好きなんだ。例えば風って字を書いていると

   ほんとに吹く風を感じるんだ。」

留吉「けっ!」

正太「父ちゃん、働いとくれよ。美味(うま)いものを食べたいとは
   
   思わないけど 新しい硯(すずり)が欲しいんだ。」(*1)


 終着駅のホームに速度をぐっと落とした新幹線が滑り込みます。痛むお尻を座席からえいっ、と離して立ち上がり、ほかの客と列なしてぞろぞろ通路を進んでいくと、あちらこちらに読み終えた漫画雑誌が捨て置かれているのが目に飛び込みます。連載物ならば二十頁少しのものが多いようですが、そこに費やされた知恵と労力を想うといささか複雑な気持ちになります。けれど、出版業は買われ捨てられてこその商売ですからね、わずか数時間でざっと眺め放られてこそ役割を全うしたとも言えるわけで、ならばそんな雑誌の姿は立派な最期であるわけですね。


 短時間で捨てられるためにある漫画は、コマからコマへの軽快な跳躍こそが第一に求められているのであって、何か引っ掛かるものがあってはならない理屈です。だから、僕のような天邪鬼が流れに抗ってする“コマの凝視”は行き過ぎであり、迷惑な行為かもしれません。けれど、やはりねえ、僕は駄目ですねえ。


 エドガー・ドガの評伝(*2)に収まったバレエダンサーの絵を眺めていると、同じ姿かたちの娘たちが右へ左へ位置を替えていくのが楽しく感じられます。どこに描くか、どう描くか、何と何を組み合わせるか。たった一枚の絵画にさえ物象のいちいちに画家の恣意が働き及んでいるのです。いわんや大量のコマで成り立つ漫画においてをや。そう思うものですから、どうしても舐めるように描線を追ってしまうし、余白や行間に気持ちが入ってしまう。あれこれ想う気持ちは止められないのです。


 読者の視線はコマを追い台詞を読み、上から下、右左と目まぐるしく行き来を繰り返します。作者の筆先に宿っただろうひそやかな思惑を、だから大概は拾い切れてはいないものでしょう。精読されることを送り手はさほど期待していないかもしれませんが、僕はやはり飛ばし読みは無理なんだよね。困った性分です。


 さて、つげ義春さんの「隣りの女」に現れた空っぽの味噌汁椀(*3)と似た表現が、他の作家の作品でも認めることが出来ます。1986年に四十半ばで夭折した上村一夫(かみむらかずお)さんの文芸物「一葉裏日記」のなかで味噌汁にお呼びが掛かりました。クローズアップされることもなく淡々と描かれているのですが、天井方向から覗き込む構図の真ん中に見せ置かれた味噌汁椀のその底は、つるりと真っ白で、実に空っぽでありました。


 正太は血色のいい育ち盛りの少年です、あっと言う間にきれいに平らげてしまったのでしょうか。そうでないことは上にひも解いた場面に続くコマが教えてくれます。少年はさらに椀を口もとに抱え直して、その中身を懸命に掻き込む姿を僕たちに見せているのです。つまり正太少年は最初から何も入っていない椀を傾げ、何ら箸でつまむことなく、この貧乏長屋での食事の場景を自然に(けれど不自然に)僕たちに提示しているのです。


 作者の上村さんはもしかしたら意図して落語風に描いたのかもしれません。手ぬぐいや扇子を巧みに使い分けて観客の目を獲り込み、日常を彩る雑貨や食物を幻視させる。そんな名人芸にならった可能性も多分にあります。妻に先立たれて暮らしの張りを失い、天気も良いのに昼間から酒に浸っていた男が息子の訴えに心揺さぶられていく。失意の淵から脱却し、少しずつ生きること、暮らすことを再開していくという湿度ある人情噺です。この頃の上村さんの作品は形式的で硬い風情を帯びているものが多いですから、落語のスタイルを踏襲したとしても違和感は起きてきません。


 けれども、やはりここでの“見えない味噌汁”とは形式美ではなくって、貧窮した父子家庭の実状を描く手段なのでしょう。底辺の暮らし向きに巣食うひもじさを描く上での奥の手が“見えない味噌汁”だったのだと僕は思います。味噌汁しかない食卓の、その味噌汁をも排除することで僕たち読者のこころを静かにいざない傾斜させるものがあります。「鍋に味噌汁が残っている」と告げられた瞬間に巻き起こる連想を逆手に取って、空腹感を増幅させる小さな仕掛けが紙面に仕組まれているのです。


 米の一粒、汁の一滴をも素知らぬ顔で残酷にも省いてみせた上村さんの底知れぬ作為と巧妙な手わざに対して、また、そのような仕打ちに対して笑顔で椀を傾け、空気をお腹に呑み下しながら「美味(うま)いものを食べたいとは思わないけど」という台詞を語る少年の気丈な芝居に胸打たれます。フィクションとは何か、創作とはなにかを自問自答し続けた男の、見事なまでの空隙が椀に満たされている。ある種の畏怖すら湧き上がるのを禁じ得ません。


 よくよく見直してみれば、同じように驚かされるものが「一葉裏日記 たけくらべの頃」には潜んでもいます。


 何ら家具らしきものがない父子の住まいが最初に描かれ、少年が食事する際に食卓代わりにしたものはその大きさと手の行った造りから父親の左官道具の入った木箱に違いなく、愛するおんなを喪った男の茫然自失の有り様をあぶり出しているのです。その後、場面転換を経て再度その部屋が登場すると、いつの間にか妻の位牌を載せた小箱が片隅に産まれ、また、少年の背丈に見合った小さな机も明るい窓辺で見つけることが出来るのです。酔った背中で子供の声を受け止めながら、少しずつ少しずつ回復していった男の変化が一切の身体的な表現を用いることなく、さりげなく顕わされています。筆先の囁きが控えめに耳朶を打ち続ける、そんな抑えに抑えた上村さん晩年の秀作ですね。


 見せることと見せないこと、それを読み取れるか読み取れないか、漫画というジャンルを決して侮ってはいけませんね。雨、雲、虹、すすき、あぜ道、砂浜、海風、待宵草──。夜道、屋上、星空、アスファルト、雷鳴、雷光、暗雲、粉雪──。情念を代弁するヒエログリフとして様々な物象が登用されてあります。いわんや味噌汁においてをや。




 さてさて、いよいよですね。皆さんも僕もひとつ年を取りますね。


 けれどどうでしょう。僕はここに至って年齢を重ねていくことに嬉しさを感じています。もう絶対に若い頃に戻りたいとは思わないな。これを読むひとに哀しいことがないように、辛いことがないように祈る気持ちに嘘はありませんが、けれど、年をとることは哀しいこと、辛いことではなくって素晴らしいことだと信じます。僕にとってもあなたにとっても、なくてはならない大事なことだと信じます。


 良き年を迎え、良き年齢を重ねてください。


(*1): 「一葉裏日記 たけくらべの頃」 上村一夫 1984 
   「上村一夫 晩年傑作短編集1980-1985紅い部屋」 小池書院 2009所載
(*2): 「ドガ・ダンス・デッサン」ポオル・ヴァレリィ著、吉田健一訳 新潮社 1955
(*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/12/1986.html

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