2009年12月31日木曜日

角田光代「夜をゆく飛行機」(2004)~廊下に漂っていた~



お店から戻ってきた母は切れ目なくしゃべりながら食堂を横切り、

台所にいく。素子(もとこ)が人数分の味噌汁を運び、大皿に

のった海草サラダを運んでくる。

「おとうさん今日会合でしょ?あんまり飲まないほうがいいよ、

どうせあっちでもお酒出るんだから」(*1)


 夜空に月を見上げるのが柄にもなく好きです。見詰めながらあれこれ想いを巡らす、小さな隙間の時間をとても大事にして暮らしています。三々五々同僚が帰ってしまい、独り残された仕事納めの昨日夕刻、外に出て、涼しく澄んだ空気を胸の奥まで吸ってみました。締め括りのこの一瞬に肺腑を満たした夜気はひりひりと凍みて、目尻に熱いものが湧きました。天頂近くに月は丸くあり、その形を、その白さを、その光を僕はただただ嬉しく愛しく感じました。


  月齢カレンダー(*2)によれば30日は十五夜、元日の夜が満月とのこと。新しい年が満月に照らされて始まるなんて、ちょっと素敵ですよね。これを読むすべての人にとって、暗き夜道にも月光が指し届く、そんな足元の明るい一年となりますように心から祈っています。


  月のわずか下を銀色に雲を引きずりながら、赤い灯火をにじませた米粒のような飛行機が右から左へ飛んでいくのを見送りました。そうそう、二階から屋根に突き出た物干し台から夜毎に空を眺め、飛行機を探し見つめる女の子を主人公にした小説を調度読み終えたばかりです。


  角田光代(かくたみつよ)さんのこの「夜をゆく飛行機」ほど、味噌と醤油が意識的に散りばめられた小説は無いように思われます。さりげなく随所随所に味噌と醤油を登用することで物語の湿度や香りを上手く調節していますね。僕はこれまで角田さんの作品を丹念に読み込んだことはなかったのですが、物語を理詰めで構築する人だということを窺わせる緻密なバラマキが為されていて、とても楽しく読了した次第です。


  昔ながらの商店街に創業当時からの顔付きのままで収まっていた個人経営の酒店が舞台です。両親と年頃の四姉妹が肩を寄せ合い暮らしていたのですが、近くに巨大なショッピングセンターが建設され開店間際となり、一点にわかに掻き曇り、といった感じの緊迫した大気を冒頭から孕んでいます。これを案ずる父親はもう気が気ではなくなり町内会の会合に毎夜足を運んだりするのですが、そんな事をしたってどうしようもないことは本人も家族も百も承知です。また、子供たちは各々変革の時期に差し掛かりもしていて、出たり入ったりの動きが活発になっていく。末っ子の視線を通じてひとつの家族と家屋の変貌していく様子が紹介されていきます。


  2004年から書き始められたこの小説の時空は、1999年から翌年2000年をまたぐ“近過去”に設定されています。その事からも端的に分かるように物語の肝となっているのは、遡及し得ない一度限りの浮世の苦しさです。後戻りの利かない人生の哀しさを見据えた上での、記憶の嬉しさ、温かさを静かに顕現してみせて、僕たち読者ひとりひとりにおのれの過去を“振り返らせる”ことを角田さんは目論んでおられる。


  主人公の記憶や感情に味噌や醤油がまとわり付きます。姉のひとりが泣き出した様子を見て「私はなんだか、この廊下がタイムマシンで、十五年前に戻ってしまったような気がした」のですが、その過去と現代を橋渡しする情景として味噌汁がふわりと浮上いたします。



朝の光が廊下に延び、味噌汁のにおいが廊下に漂っていた。(*1)


  と、こんな具合です。物語の最後のあたりにはこんな記述も見つかります。


谷島酒店で働く、まだおばあちゃんにはなっていない祖母が、

知っている光景みたいに思い浮かんだ。味噌の樽や駄菓子の

入ったガラスケースが並んだちいさなお店、割烹着を着た祖母、

前の道を走る古めかしい自動車と舞い上がる土埃。ちいさい

子どもだった父や祥一おじさんが、あわただしく店から飛び出し

てくる様まで、昨日見たように思い浮かんだ。(*1)



  “味噌の樽”というのはどうです、珍しいでしょう。小道具としてかなり特殊ですよね。映画「赤いハンカチ」では新しい流通システムが根こそぎ古い商業形態を駆逐し、そこに寄り添っていた人情や絆を破断させていくという時代の転換点が舞台になっていました。失われていくものを代表するイメージとして、自転車の豆腐売りと味噌汁がセットになって象徴的に取り上げられていた(*3)のでしたが、あれに似た状況設定と手法が「夜をゆく飛行機」には確かに認められます。取り返しのつかない過去に味噌汁は連結させられていくのです。


  劇中天寿を全うする祖母の存在は、懐かしくも喪われていく風景と同じ立ち位置に在るのですが、そんな老女を描く際にも角田さんはこっそり味噌を挿し入れてみせる手堅さを見せています。



「あの子は一番下な上、女の子でみそっかすだったから、

あんたたちを見ると、長女気分になれるんだろ。ねえ、

あんたたち、お願いがあんのさ」祖母は袂に手を突っ込んで、

ごそごそしている。(*1)



  “みそっかす”という耳にしなくなって久しい形容が突如ここ、2004年の作品で顔を覗かせるのは、僕には到底偶然とは思えません。


  このような味噌や醤油から記憶の共有や共感を導く手法は幼少の頃に外国暮らしをした人や海外のひとには通じない、僕たちここに産まれここに住む者の深層にのみ訴える、ある意味偏狭な日本固有の小説技巧だと思われます。海外での翻訳を見据える村上春樹さんや大江健三郎さんは避ける泥臭いやり方なのでしょうけれど、僕たちが僕たちのこころと向き合い、僕たちの社会とは何かを考えるときにはとても有効であるし、実に奥深くて面白い顕現だと思えるのです。


  失われるものと寄り添い、共に失われていく宿命を帯びた味噌汁。そんな切実なイメージを作家は投げ掛けてくるのですが、そのような食べ物は他には見当たらないように思えます。これに対して違和感なく眼差しを注ぎ続ける僕たち日本人のこころの傾き具合も、奇妙で不思議なものに思えます。永別を果てしなく意識しながら、大豆や小麦を醗酵させたスープを呑む民族、それが僕たちなんですねえ。可笑しいよねえ。


(*1):「夜をゆく飛行機」 角田光代 初出は「婦人公論」2004年8月より連載、

翌年2005年11月まで。 現在、中公文庫で入手可。
(*2): http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm
(*3): http://miso-mythology.blogspot.com/2009/05/1964_30.html

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