2009年12月14日月曜日

朝焼け~日常のこと~



 この週末は小旅行をいたしました。いつもと違って予定をあえて組まずに来ましたから、こころも身体もずいぶんとゆったりと過ごせました。


 ホテルの19階の部屋から見下ろす街は、思いのほかこじんまりして見えました。年齢と共に感動というものは薄まっていき、穏やかな受容ばかりの毎日になっていく、そんな感じかな。いかんイカン、元気をもらうために此処まで来たのに最初から縮こまってはいけないイケナイ。



 これは朝の9時30分の光景を写したものなのだけれど、逆光で絞り込まれて暗くなっていますね。かえってそれで上の方の、この白いところがお日様だと解かるでしょう。もう随分と宙に登っていて、さらにゆるゆると飛行船のように浮上を続けているところです。


 こんな年齢になって初めて見たような気がするのだけれど、そんな高い位置に太陽がまばゆいにもかかわらず、地平線はひとすじの帯を流したように朱に染まっているのでした。


  日の出や日没直後に地平線の奥の奥、さながら地底から天空へと差し出されたような光が産みこぼす、おごそかな鮮血の時間に何千、何万回も足を止め、僕は紅蓮の空を見ては来ましたが、遙か頭上から差し出された光で街だけが紅く染まっていく光景があるなんて知らなかった。


 嘘うそ、何万回も夕焼けは見れないよ。僕の年齢に365をかけたところで大した数字にもなりません。半分が晴れた日で、その半分に外にいて空を見上げていたところで、さらに運良く目に飛び込んだろう夕焼け空など千回程度に決まっています。

 まあ、ようするに人間は達観や諦念、先入観に埋もれながら暮らしていて、実は人生をよくよく見切ってなどおらず、したがってまだまだ知らないことだらけなんだ、ということだね。

 
 傾いだ光が大気を切り裂いていくときに浮遊する粉塵や水蒸気にて拡散し、紅い光だけが選びとられるが如く滞留する、それが夕焼けであり朝焼けである訳だから、天空に駆け上がりながらも同様の現象は起きるのが確かに理屈。


 足元の街をざんざんと斜めの陽射しが突き刺す。そこに暮らし憩う人びとの吐息と、窓々から立ち上る湯気と、夢や不安を載せて走る車の排気で拡散されて、紅く紅く街を染めていく。僕たちの一日は気付くか気付かないか分からない、そんな朝焼けに彩られて始まっている。 ちょっと素敵。



 公園のベンチに座って池の鴨を眺めていたら、偶然隣りに座ったカメラおじさんと仲良くなって蛍石レンズの話も聞けたし、逢いたいと念じ続けていた人にもようやく逢えて、とても愉しく御飯もいただいた。

 美術館の性と生と聖に関する展示も、じわじわじわりと胸に迫って来るものがあって、とても得難い時間にもなったと振り返っているところです。


 ありがとう、そんな気持ちが本当にあります。ありがとう。

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